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茶々外伝・②②④話『関東の乱』編・第四話 武功は噂より早く走る

 戦の報せは、文より先に噂になることがある。


 私はそれを、地震の後にも思い知った。

 長浜がひどい、安土が半ば崩れた、銀閣寺城は無事らしい――そうした話は、正式な書付が届くより先に、城下の井戸端や、城へ出入りする商人の口から、少しずつ形を変えながら広がっていった。


 今度も同じだった。


 関東の乱れについて、安土から届く書付は簡潔で、必要なことしか書かれていない。

 どこで誰が動いたか。

 誰が誰へ書を送り、どこに兵を集める気配があるか。

 そうしたことは、確かに重い。

 だが、その重さと別に、もっと人の耳に乗りやすいものがある。


 ――黒坂真琴は、東でもう戦国武将として名を上げている。

 ――決断が早い。

 ――病み上がりとは思えぬ働きぶりだ。

 ――一日で家中のもつれをほどいた。

 ――鬼神のように軍を動かしている。


 そういう話である。


 最初にそれを聞いたのは、城下から魚を運んできた商人の口からだった。


 その日は昼前から雨の気配があり、私は表の間で蔵と水の帳面を見ていた。春も半ばに差しかかっているが、地震のあとの大津城では、まだ何につけても“余分があるか”を確かめずにはいられぬ。

 お江は、私の少し後ろで筆を持つ真似をしながら、帳面の端へ勝手に花の絵を描いて桜子に睨まれていた。

 お初は、その日は朝から珍しく湯殿と台所を行き来していて、今はまだこの場にいなかった。


「御方様」


 桜子が、襖の向こうの気配を確かめて声をかけた。


「城下より、魚屋の与兵衛が」


「通しなさい」


 私は帳面を閉じた。


 与兵衛は、何度も大津城へ出入りしている男である。

 魚の目利きはたしかだし、口も軽すぎぬ。

 だが、完全に軽くないということは、完全には重くもないということでもある。つまり、城下の空気をよく運んでくる男なのだ。


 案の定、魚の値と湖の網の具合をひと通り述べたあと、男は少し身をかがめるようにして言った。


「御方様、これはまだ道の噂でございますが……」


 私はその言い方を聞いた時点で、半ば内容を察した。


「申してみなさい」


「はい。安土から来た馬借の者が、“黒坂様、東にて鬼神の如し”と」


 私は一瞬、顔を上げた。


 鬼神の如し。


 その言葉そのものより、それがもう馬借の口へ乗り、道を通って大津まで降りてきていることの方が重かった。


「どのような意味で、そのように」


 私が静かに問うと、与兵衛はさらに低い声になった。


「は。佐竹や伊達やらの揉め事に、誰がどう乗るべきかを、黒坂様がものの半日で見切ったとか。家臣どもが迷っておるところを、一つひとつ筋道立てて押さえたとか。あとは……」


 男は少し迷った。


「申して」


「“病み上がりだと油断した者ほど、あの目を見て口をつぐんだ”と」


 私は、それを聞いた時、まず頭の中に浮かんだのは、あの病み上がりの顔だった。


 熱に沈み、寝所で熊のような防寒着を着せられて、雑炊の匙の数でお初と私に囲まれていた人。

 あの人が、今は東で、病み上がりだと油断した者を黙らせている。


 誇らしかった。

 それは確かだった。


 けれど誇らしい、と思うより早く、その誇らしさの裏へ別のものが差し込んだ。


 そこまで働いているのか。

 そこまで無理をしているのか。


「ほかには」


 私がさらに問うと、与兵衛は言いにくそうに首をすくめた。


「“寝ずに動いている”とも。もっとも、噂は大きくなるものでございますゆえ」


 私は頷いた。


「ええ。わかっております」


 だが、その“わかっている”は、私の胸を少しも軽くはしなかった。


 真琴様は、そういう噂が立つほどの働き方をなさる時がある。

 いや、むしろ、そういう時ほど平気な顔をなさる人だ。

 それを知っているからこそ、笑って聞き流すことが出来ない。


 私は与兵衛へ丁寧に礼を言い、魚の代価と少しの下げ渡しを命じて下がらせた。

 男は満足そうに去ったが、私はしばらく帳面へ視線を戻せなかった。


「姉上様」


 お江が、絵を描くのをやめて私の顔を覗き込んだ。


「何です」


「いまの、嬉しくないの?」


 私はその問いに、一瞬だけ答えを探した。


 嬉しい。

 もちろん、嬉しい。

 夫の名が外で上がるのだから、妻としてそれを誇らしく思わぬわけがない。


 けれど。


「嬉しいです」


 私はゆっくり言った。


「ですが、それだけではないのです」


「なんで?」


 お江には、そこがまだ不思議なのだろう。


「名が上がるということは」


 私は囲炉裏の火の方を見た。


「それだけ、人より前へ出ているということです」


「前に出るとだめなの?」


「よい時もあります。ですが、前に出る者ほど、後ろで休む暇がなくなります」


 お江は、少しだけ考える顔をした。


「……あー」


 その一音だけで、私はこの子が全部は分かっていないのだと知った。

 だが、少しだけ何かを掴みかけた顔もしていた。


 そこへ、お初が入ってきた。


「何の話」


 私はお江より先に答えた。


「真琴様の噂です」


 その一言で、お初の顔が変わった。

 ほんのわずかだが、肩が固くなる。

 私はそれを見逃さなかった。


「どんな」


「鬼神の如し、と」


 私がそう言うと、お初は一瞬だけ黙った。

 それから、小さく息をつく。


「……大げさ」


「ええ。噂は大げさになります」


「病み上がりのくせに」


 お初は、その続きのように言った。


「そういうふうに言われるくらい、また無理してるってことでしょ」


 私は、その言葉に返事をしなかった。

 出来なかった、という方が近い。


 やはり、この妹も同じところを気にしている。

 誇らしい。

 けれど、その誇らしさがそのまま無茶の証にもなる。

 その二つが一緒に来るから、素直に喜べないのだ。


「姉上様」


 お初が、少しだけ声を低くした。


「文、来てた?」


「朝の便で一通」


「それには」


「関東のもつれが思ったより深い、と」


「体のことは」


「一行だけ。“まだ死んでないので安心して”と」


 お初の眉が、露骨に寄った。


「何それ」


 その言い方に、私は思わず少しだけ笑ってしまった。


「そういう人でしょう」


「そういう問題じゃないでしょ」


 お初は本気で不機嫌になった。


「もっとちゃんと書けばいいのに。熱はもう戻ってないとか、飯は食べてるとか、夜は寝てるとか」


「夜は寝ておられぬでしょうね」


 私がそう言うと、お初は唇を噛んだ。

 そうなのだ。

 きっと、寝てはいない。

 だからこそ“鬼神の如し”などという噂まで立つ。


 けれど、そこまで分かったところで、私たちが今すぐ出来ることは何もない。


 それがまた、苛立たしく、苦しかった。


 その日の夕方、城下からもうひとつ別の噂が上がってきた。


 今度は酒屋の手代が、安土から戻った旅人の口として伝えてきたものだった。


 ――黒坂様は、戦場で怒鳴るより先に、相手の腹を読んで黙らせる。

 ――刀よりも言葉が怖い。

 ――あの人のいる陣は、寝ていないのに崩れぬ。


 私はそれを聞きながら、胸の内で何とも言えぬものが広がるのを感じていた。


 たしかに、そうなのだろう。


 真琴様は、ただ血気だけで槍を振るう武将ではない。

 人の思惑をほどき、時には切り、時にはつなぎ直す。

 だからこそ、戦国武将としての名が上がる。

 そして、そういう人であるからこそ、体ひとつで済まぬほどに神経を削る。


 私はその夜、母上様の御殿へ顔を出した。


 お市は、文の控えを見ておられた。

 私が座ると、何も言わぬうちに問いが来る。


「名が上がっているのでしょう」


「はい」


「嬉しいですか」


 私は、少しだけ間を置いた。


「嬉しいです」


「ええ」


「ですが、同じ重さで、怖いのです」


 母上様は、静かに頷かれた。


「それでよいのです」


 私は顔を上げた。


「よいのですか」


「武家の妻とは、そういうものです」


 お市の声は、いつも通り穏やかだった。


「夫の名が上がれば、家の名も上がる。誇らしいことです。ですが、名が上がるほど、夫の体も命も前へ押し出される。ですから、喜びと怖れは、同じ器へ入ってくる」


 私は、その言葉を胸の奥でゆっくりと受けた。


 喜びと怖れ。

 たしかに、今日の私はその二つを何度も一緒に味わっていた。


「茶々」


「はい」


「喜んでよいのです」


「……はい」


「ただし、喜ぶだけで終わらぬのも、また妻です」


 私は、ようやく少しだけ息を吐いた。


 ただ喜ぶだけで終わらぬ。

 それは、きっと私の性にも合っている。

 名が上がるなら、そのぶん、帰る城を静かに保っておかねばならぬ。

 戦場で体を削るなら、そのぶん、戻った時の湯と食と寝所を整えておかねばならぬ。


 誇るだけでなく、支える。

 それが、戦国武将の妻というものなのだろう。


 夜、私は一人で食事の間へ戻った。


 囲炉裏の火は、いつものように小さく灯っている。

 真琴様の席は、もちろん空いたままだ。


 私はその前へ座り、今日聞いた噂をひとつずつ思い返した。


 鬼神の如し。

 病み上がりと思えぬ働き。

 刀より怖い言葉。

 崩れぬ陣。


 どれも、この人らしい。

 そしてどれも、この人を削っているに違いない。


 私は膝の上で手を重ねた。


 真琴様は、もう私の夫であるだけではない。

 国が使う武将であり、戦場の名を持つ人だ。

 そのことを、私は前よりもはっきり受け入れ始めている。


 けれど、受け入れることと、平気でいられることは違う。


 誇らしい。

 でも、怖い。


 その二つを、私はきっとこれからも何度も胸へ抱くのだろう。

 それでもなお、この火を守り、この席を空けたままにして待つ。


 それが、私の役目なのだと、囲炉裏の赤を見ながら静かに思った。

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