茶々外伝・②②③話『関東の乱』編・第三話 関東の名が届く
関東の名は、近江にいる私たちには、いつも少し遠い。
遠い、というのは、ただ道のりが長いというだけではない。
都に近い者たちが日々の噂として口にするのは、たいてい畿内の家々の動きであり、近江の城で暮らす私たちにとっても、風の向きの変わり目はまず西から感じられる。
けれど、いったん東が燃え始めると、その火は遠いからこそ厄介なのだと、私はこの数日で何度も思い知らされていた。
安土へ上がった真琴様から、そして前田慶次を通じて、関東の情勢を記した文が次々に届くようになった。
伊達。
蘆名。
相馬。
佐竹。
北条。
名だけなら、もちろん私も知っている。
だが、知っていることと、動きの意味が見えることとは別だ。
誰が誰と結び、誰が誰を押し立て、どの家中が二つに割れ、どの一手が次の乱を呼ぶのか。そうしたものは、ただ名を並べただけでは見えてこない。
その日の午後、私は表の間へ広げられた地図の前に座っていた。
安土から届いた書付を脇へ置き、近江から東へ延びる街道、関東の諸家の位置、そして東北にかかる地名を順に目で追う。
地図の上では、山も川も、城も道も、ただの線と文字でしかない。
それでも、その上を人と兵と噂と政が流れていくのだと思うと、紙の上の細い線まで妙に重たく見えた。
「姉上様」
お江が、私の背後から地図を覗き込んだ。
「はい」
「これ、どこが関東?」
私は地図へ指を置いた。
「ここから、このあたりまで」
「広い」
「ええ。広いです」
「じゃあ、マコ、すごく遠くのこと考えてるんだね」
私はその一言に、少しだけ目を細めた。
そうなのだ。
真琴様は今、大津や安土を見ているだけではない。
もっと遠くの、私にはまだ風の匂いも届かぬ土地の乱れまで、頭の中へ入れて動いている。
「お江」
「なに」
「今のは、よい見方です」
「えっ、褒められた?」
「少しだけ」
お江は嬉しそうに笑ったが、すぐにまた地図を見て首を傾げた。
「でも、なんでこんなに遠くの人たちが、こっちに関係あるの?」
私は返事をしかけて、少しだけ考えた。
どう言えば、この妹にも分かるだろうか。
戦も政も、難しい言葉でいくらでも説明は出来る。
けれどそれでは、お江の腹には入らない。
「遠い家同士でも」
私はゆっくりと言った。
「誰を次の主にするかで揉めれば、その家だけでは済まぬことがあります」
「どうして?」
「片方につく家、反対につく家、そのまた外から割り込む家が出るからです」
「ふーん……喧嘩に友達が増えてく感じ?」
私は思わず笑った。
「だいたい、そのようなものです」
そこへ、お初が入ってきた。
今日は比較的早い刻から表の間へ顔を出している。
真琴様がいないと、この妹は、私のそばにいる時間が以前より少し増える。意識しているのかどうかは分からない。けれど、何かある時は結局ここへ来るのだ。
「何の話」
「関東です」
「また難しいのやってるのね」
そう言いながら、お初も地図へ目を落とした。
そして、お江よりはもう少し長く黙り込む。
「……蘆名って、ここ?」
「ええ」
「伊達は?」
「ここ」
「佐竹は」
「こちらです」
私が指で示すたびに、お初の目がその位置関係を追う。
この妹は、分からぬものへ最初から飛び込むのは苦手だ。だが、一度“筋”があると分かれば、案外きちんと追っていく。
「近いの?」
お初が問う。
「近いからこそ、厄介なのです」
私がそう答えると、お初は小さく息をついた。
「伊達と蘆名が揉めるだけじゃなく、佐竹まで引っ張られるのね」
「ええ」
「で、そこに北条まで絡む」
「はい」
「最悪じゃない」
その言い方が妙に正確で、私は少しだけ笑った。
「真琴様も、似たようなことを仰っておりました」
「でしょうね」
お初は腕を組み、地図を見ながらさらに言う。
「これ、誰か一人が“じゃあ私が降ります”って言えば済む話でもないんでしょ」
「済まぬでしょうね」
「家の中で揉めてるうちに、外の家が“じゃあうちが”って入ってくるんだもの」
「ええ」
「……面倒くさい」
その結論があまりにもお初らしく、私は少し肩の力を抜いた。
けれど、その“面倒くさい”の中には、ちゃんと本質が入っている。
誰が主になるか。
誰が後を継ぐか。
その争いは、たいてい一つの家の中だけでは終わらぬ。外の家にとっても“都合のいい主”がいるからだ。
私はふと、自分たち女の身の上と、少しだけ似ていると思った。
家の中のことのようでいて、気づけば外の思惑に巻き込まれている。
そういう意味では、武家とは男も女も同じなのかもしれなかった。
その日の夕刻、母上様を交えて、私は改めて書付を読み直した。
お市は、私たちとは違う視線で文を見る。
誰が得をするか。
誰が耐えられるか。
誰の“家”が、今いちばん細い糸でぶら下がっているか。
そういう見方をされる。
「蘆名の内は、もう長くは持たぬでしょう」
母上様が静かに言われた。
私は顔を上げた。
「そこまで、ですか」
「家の中で主が揺らいだ時、その揺れを止める者がいなければ、外の手が入るのは早いものです」
私はその言葉を聞きながら、地震の夜のことを思い出していた。
あの時、真琴様が「母上とお江を頼む、奥をまとめてくれ」と言って出ていかれた。
もしあの時、城の内で誰も声を立てず、誰も火を見ず、誰も人を集めなかったなら、大津城はあの揺れのあと、もっとひどく乱れていたかもしれぬ。
家も、城も、国も、結局は同じなのだろうか。
揺れた時に立つ者がいるかどうかで、その後が決まる。
「母上様」
私はそっと問うた。
「戦とは、やはり、誰が立つかの争いなのですか」
お市は、すぐには答えられなかった。
しばし地図を見て、それから言われる。
「誰が立つか、というより」
私は黙って待った。
「誰が“立っていられるか”の争いでしょう」
その言葉は、ひどく胸へ沈んだ。
強いから立てるのではない。
揺らされても、削られても、それでも立っていられる者が残る。
それは戦場の男だけではなく、留守を守る女もまた同じなのかもしれない。
お初が、母上様のその言葉を聞いてぽつりと呟いた。
「真琴、そういうの強そう」
私は、その声に目を向けた。
お初は少しだけ気まずそうにしたが、もう引っ込めなかった。
「強いというか……変にしぶとい」
「“しぶとい”の方が、たぶん当たっております」
私がそう返すと、お江が吹き出した。
「うん、マコ、しぶとそう」
「あなたまで」
「だって熊だし」
「それは関係ありません」
その一言で、場が少しだけやわらいだ。
母上様も、ほんのわずかに口元をゆるめられた。
こういう時、お江の軽さはありがたい。
重い話は必要だ。
けれど、重いまま落としてしまえば、人の心は沈むばかりだ。
夜、私は一人で食事の間に座っていた。
囲炉裏の火は小さく、静かだった。
今日一日、地図と書付と人の名に囲まれていたせいか、火の色を見るだけで少しだけ胸が緩む。
伊達。
蘆名。
相馬。
佐竹。
北条。
そのどれもが遠い。
けれど、その遠さの中へ、真琴様はもう入っていこうとしている。
以前の私なら、戦の名はただ恐ろしいものだった。
今ももちろん怖い。
けれど今は、それが単なる刀のぶつかり合いではなく、家の中の後継、外からの思惑、支える家臣の分かれ方まで含めた、大きな絡まりなのだと、少しは分かるようになってしまった。
分かるようになったからこそ、余計に怖い。
刀の一撃ならまだ見える。
けれど、人の思惑の絡まりは、見えぬまま足を取る。
私は、火へ手をかざした。
この城の中にも、揺れはある。
お初の沈黙。
お江の明るさ。
私自身の不安。
母上様の静かな強さ。
それでも、私たちは今、同じ囲炉裏の火を見ている。
真琴様が外で向き合うのは、もっと大きな揺れなのだろう。
ならば私は、この城の中の揺れを見失わぬようにしていなければならない。
遠い戦は、遠いままでは済まない。
必ずどこかで、留守を守る城の空気へも届く。
私は囲炉裏の赤を見つめながら、静かに思った。
戦とは、誰が立つかではなく、誰が立っていられるかの争い。
ならば私は、この大津城で立っている。
この城の女たちとともに、揺れても倒れぬ側で、立っていなければならない。




