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茶々外伝・②②②話『関東の乱』編・第二話 留守を預かる城

 真琴様が発たれた翌朝、大津城の空気は、昨日までと同じようでいて、まるで違っていた。


 人の数が急に減ったわけではない。

 城門も、石垣も、湯殿も、蔵も、何一つ場所を変えてはおらぬ。

 それでも、城とは不思議なもので、主たる者が一人外へ向かっただけで、柱の立ち方まで変わったように見える。


 私は朝餉の前に、まだ薄い光のうちから広間をひと回りした。


 火鉢の炭は足りているか。

 夜番から朝番への引き継ぎに抜けはないか。

 表門の出入り帳はきちんとついているか。

 地震以来、こうした細かな確認は私の癖になっていたが、今日のそれは少し意味が違う。


 地震の夜は、崩れぬために見た。

 今朝は、乱れぬために見ている。


 その違いを、私は自分ではっきり感じていた。


 廊下の角で、桜子が待っていた。


「御方様」


「表門は」


「夜のうちに異状なし。今朝、城下から米の相談で来た者が二人。まだ通してはおりません」


「よろしい。朝餉のあとに私が見ます」


「はい」


「安土への文使いは」


「夜明け前に一便。午の刻にもう一便を立てる支度をしております」


「早いですね」


 私がそう言うと、桜子は少しだけ顔を上げた。


「殿がおられぬ今、大津で文を留めるのが一番危ういかと」


 私は頷いた。


「その通りです」


 真琴様が外へ出られた以上、大津城は“待つ城”であってはならぬ。

 待ちながらも動き、受け取り、返し、絶えず外と繋がっていなければならない。

 それを最初から心得ているあたり、やはり桜子は頼もしい。


 食事の間へ戻ると、お江がもう来ていた。


 まだ髪もきちんと結いきれておらず、半ば眠そうな目で囲炉裏の火へ手をかざしている。

 けれど、私の顔を見るとすぐに問いが飛んできた。


「姉上様、今日から何が変わるの?」


「ずいぶん朝早くから難しいことを聞きますね」


「だって、昨日“城の空気が変わる”って母上様が言ってた」


 私はその言葉に少しだけ笑った。


「よく覚えておりました」


「私、そういうの覚えてるよ」


 お江は得意そうに胸を張ったが、次の瞬間には「でも難しいのはわかんない」と正直に付け加えた。


 そこへ、お初が入ってきた。


 こちらはもう、髪もきっちりまとめてある。

 ただ、その整い方がいつもより少し固い。

 あの子なりに、今日は“留守居の城の日”だと意識しているのだろう。


「お初」


「何」


「今日から、あなたにも少し役を増やします」


「もう増えてる気がするけど」


「増えます」


 そう言うと、お初は呆れたように息をついたが、嫌だとは言わなかった。

 最近のこの妹は、腹の中にいろいろ抱えたまま、それでも“役目”と聞けばちゃんと耳を傾けるようになっている。


 母上様もやがて来られ、朝餉が始まった。


 いつものように湯気の立つ汁があり、飯があり、漬物があり、囲炉裏の火がある。

 だが、真琴様の席だけが空いている。


 私はその空きを、見ぬふりはしなかった。

 見ぬふりをしても、なくなるわけではない。

 ならば最初から、その不在ごとこの食事の間へ置いておくしかない。


「茶々」


 母上様が、汁椀を置きながら言われた。


「はい」


「今日のうちに、城の役目の組み替えを一度すべて見なさい」


「承知しております」


「兵糧と水は、戦時の目で」


「はい」


「女たちの顔も」


 その一言に、私は小さく頷いた。


「はい」


 母上様は、言葉を重ねすぎぬ。

 けれどその短さの中に、見ねばならぬものがすべて入っている。


 兵糧と水。

 城下との出入り。

 女たちの顔。


 戦とは、外で槍を振るう者だけのものではない。

 主の不在をどう受け止め、どう噂し、どう働き、どう待つか。

 その空気ひとつで、城の強さは変わる。


 朝餉が終わると、私はそのまま表の間へ移った。


 最初に見たのは蔵だった。


 地震以来、蔵を見る目は私の中で少し変わった。

 以前は、米俵の数や味噌桶の並びが多いか少ないかを見るだけだった。

 今は違う。

 その数が、いつまで持つかを見る。

 減り方の早さを見る。

 出入りする者の顔色まで含めて、“この蔵が何日この城を支えられるか”を見る。


 蔵番たちは、私が来るとすぐに平伏した。


「よい」


 私はそう言って、帳面を出させた。


「今ある米の総量。城内で日々減る分。城下へ回す分。戦が長引いた場合に削れる分。三つに分けて見せなさい」


 蔵番の男が、少しだけ息を呑んだのが分かった。

 これまでなら、そこまで細かく女の口から問われるとは思っていなかったのだろう。


 けれど、私は問いを緩めなかった。


「今は“足りているか”では足りません。“どこまでなら持つか”を知らねばなりません」


「はっ」


 帳面を前に、私は一つひとつ数字を追った。

 味噌、塩、干し魚、薪、炭。

 米だけで城は越せぬ。

 味噌が切れれば、朝の顔色が変わる。

 塩が減れば、保存の仕方が変わる。

 炭が尽きれば、湯殿も寝所も一気に寒くなる。


 私は黙って帳面を見ながら、ふと、隣に立つお初へ言った。


「見えますか」


「何が」


「城とは、石垣だけではないということが」


 お初は、少しだけ眉を寄せたまま帳面を覗き込んだ。


「……これ全部が、城なのね」


「ええ」


 私は頷いた。


「兵が減れば城が弱るのではありません。味噌が切れても、薪が細っても、人の心が先に崩れます」


 お初は、それを聞いてしばらく何も言わなかった。

 やがて、小さく息をつく。


「姉上様、ほんとに最近こういう話ばっかり」


「嫌ですか」


「嫌じゃないけど」


 お初は少しだけ視線を逸らした。


「……前より、ちゃんとわかるようになった」


 その一言に、私は何も返さず、ただもう一度帳面を見た。

 返事をしてしまうと、かえって軽くなりそうだったからだ。


 次に見たのは、文の出入りである。


 表の間の脇には、安土と大津を往復する文使いたちの控えが置かれていた。

 地震の前から文は大事だった。

 だが今は、もっと重い。


 今の大津城にとって、文が半日遅れるだけで、城の空気は変わる。

 勝報も、敗報も、関東の動きも、安土の評定も、すべてこの薄い紙を通って入ってくる。

 紙一枚で、人は安堵し、紙一枚で眠れなくもなる。


「午の便は誰が持つのです」


 私が問うと、桜子がすぐに答えた。


「昨日と同じ者ではなく、若いが足の確かな者へ替えます」


「なぜ」


「同じ顔ばかりでは、道で見られた時に読まれやすくなります」


 私はその答えに、少しだけ目を上げた。


「よく考えましたね」


「殿の留守を預かるとは、そういうことかと」


 私は頷いた。


「ええ。その通りです」


 お江はそのやり取りを少し離れたところから聞いていて、ぽつりと言った。


「文って、そんなに怖いんだ」


「怖いものでもあり、命綱でもあります」


 私がそう言うと、お江は少しだけ真面目な顔になった。


「じゃあ、私が勝手に開けたら大変だね」


「大変では済みません」


「やっぱり」


 お江は素直に頷いた。

 こういうところだけは、本当に素直で助かる。


 私は、そのまま文の整理の流れを決めた。


 安土行きは朝と午と、必要なら暮れ。

 戻りは夜でも通す。

 私の目を通すもの、母上様へ先に見せるもの、城下へ気配だけ流すもの。

 それらを分けておかねば、城は噂に振り回される。


 真琴様が外で戦を見ておられるなら、私はこの城の“文の流れ”を整えておく。

 それが今の私の戦なのだろう。


 昼過ぎ、私は井戸場へも足を運んだ。


 地震の後、濁った井戸はようやく少しずつ落ち着いてきている。

 だが、完全ではない。

 水は毎日のことだからこそ、少しの不安がそのまま人の口へ上る。


 井戸端には、女中だけでなく、城下から入ってきた女たちもいた。

 洗い物をする者、水を汲む者、ただ立ち話をしているように見えて、その実、城の空気を探っている者。


 私はそこへ、隠れずに出た。


「御方様」


 女たちが一斉に頭を下げる。


「よい」


 私は軽く手を上げた。


「水の具合は」


 年嵩の女中が前へ出た。


「昨日よりは澄んでおります」


「城下の井戸は」


 城下から来ていた女が答える。


「場所によりけりでございます。浅いところはまだ濁りが」


「そうですか」


 私は一つ頷いた。


「では、城から出す水はもう数日続けましょう。ですが、無駄に恐れて使わぬのもよくありません。澄みを見て、順を決めなさい」


 女たちの顔に、少しだけ安堵が走るのが分かった。

 “まだ危ない”だけでもなく、

 “もう大丈夫”だけでもない。

 そのあいだの言葉が、今は必要なのだ。


 そういう加減を、私は地震のあとに覚えた。

 人は、はっきり言い切れば安心するわけではない。

 むしろ、きちんと見られていると分かる方が、落ち着くこともある。


 お初は、私の少し後ろに立って、女たちの顔を見ていた。

 城下の女が目を逸らしたり、少しほっとしたりする様子を、あの子は私よりも生々しく受け取っているのだろう。


「姉上様」


 井戸場を離れたあと、お初が言った。


「何です」


「今の言い方、上手い」


「何がです」


「“まだ危ないかもしれない”ってだけでもなく、“もう平気”ってだけでもないやつ」


 私は少しだけ考えてから答えた。


「平気と言い切れば、備えが緩みます。危ないと言い切れば、人の心が荒れます」


「うん」


「だから、そのあいだを置くのです」


 お初はその言葉を聞いて、小さく頷いた。


「姉上様って、前からそういうの出来たっけ」


 私は少しだけ笑った。


「出来ていたら、もっと楽だったでしょうね」


 お初も、ほんの少しだけ笑った。


 夕刻、食事の間へ戻ると、ようやく城の中の動きが一段落していた。


 湯殿の湯も回っている。

 蔵の数字も整理がついた。

 文の往復の流れも決まった。

 井戸場の不安も、今日のところは抑えられた。


 囲炉裏の前へ座ると、私はようやく深く息を吐いた。


 真琴様はおられない。

 その不在は、やはり大きい。

 けれど、城が乱れてはいないことが分かると、その不在の重みを少しだけ持ちこたえられる気がする。


 母上様が、私の向かいへ座られた。


「今日一日、どうでした」


「思ったより、城は静かに回りました」


「ええ」


「ですが、静かに回すために、見ねばならぬものが多い」


 私は正直にそう言った。


「蔵、文、水、城下の顔。どれか一つでも見落とせば、あっという間に不安が広がります」


 お市は穏やかに頷かれた。


「それが、留守を預かるということです」


 私はその言葉を、胸の奥で静かに受けた。


 真琴様は、外で国の火を見ている。

 ならば私は、内で城の灯を守る。


 それは派手な役ではない。

 名が上がることもない。

 けれど、この静かさを保つことそのものが、今の黒坂家の強さなのだろう。


 お江が、囲炉裏の火へ手をかざしながら言った。


「なんか今日、ほんとに“殿がいない城”って感じだった」


 その言葉に、私もお初も、少しだけ目を上げた。


「でも」


 お江は続ける。


「姉上様がずっと動いてたから、ちゃんと城だった」


 私は返事をしなかった。

 出来なかった、という方が近い。


 その代わり、火の向こうに揺れる橙色を見つめながら、静かに思った。


 そうだ。

 この城は、主がいなくとも城でなければならない。

 帰ってくる場所として、変わらず灯っていなければならない。


 私はそのために今日一日を動いた。

 そして明日もまた、同じように動くのだろう。


 それが“留守を預かる城”であり、

 それを預かるのが、今の私なのだ。

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