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茶々外伝『関東の乱』編・②②①話・第一話 戦国武将の妻

 真琴様を見送ったあとの大津城は、妙に広く感じられた。


 門が閉じた音は、いつものようにただ木が鳴っただけのはずなのに、その日は胸の奥まで重く響いた。ほんの少し前まで、あの門の向こうには、馬の鼻息と、人の抑えた声と、出立の緊張が満ちていた。前田慶次の使者がもたらした関東の乱の報せを受け、真琴様は夜をまたいで支度を整え、夜明けとともに安土へ向かわれた。


 まだ本調子ではない。

 それは私にも、お初にも、お江にも、母上様にも分かっていた。


 地震のあと、長浜と安土を駆け回り、帰ってきてそのまま熱に倒れ、ようやく床を払ったばかりだ。顔色は戻ってきた。笑うことも出来るようになった。だが、だからといって、ひと月の疲れがきれいに抜け落ちるわけではない。


 それでも、この人は行く。


 関東が荒れる。

 北条、佐竹、伊達、蘆名、相馬――東の家々が一斉にきな臭くなり始めたと聞けば、真琴様が大津にとどまっていられるはずがない。そういう人だと分かっている。分かっているのに、私は門前で見送る時、ほんの一瞬だけ、その背へ「どうか、今度は倒れずに」と言うので精一杯だった。


 門が閉じてからもしばらく、私はその場を動けずにいた。


 春の朝の空気はまだ冷えていて、吐く息はうっすら白かった。門松はもう外され、代わりに門脇の松の青さだけが残っている。庭の梅は散りはじめ、白い花びらが石の上へ小さく落ちていた。


「姉上様」


 お江が私の袖を引いた。


 その声ではっとして、私はようやく振り返った。

 お江は、今にも何か言いたそうな顔で私を見上げている。隣ではお初が黙って門の方を見ていた。母上様は一歩後ろに立ち、何も言わず私たち三人を見ておられる。


「中へ入りましょう」


 私がそう言うと、お江はすぐに問いを投げた。


「すぐ帰ってくるよね」


 あまりにも真っ直ぐなその一言に、私は一瞬、返事が遅れた。


 すぐ、というのがどれほどの時を指すのか、お江はたぶん分かっていない。

 数日か。

 十日か。

 ひと月か。

 関東の乱れ方によっては、もっと長くなるかもしれない。


 けれど、そんなことをここで言うわけにはいかなかった。


「……帰ってきていただきます」


 私はそう答えた。


 お江は、少し考える顔をしたあと、「うん」と頷いた。

 その頷きが、私には少しだけ羨ましかった。

 この子は、信じたい形のまま受け取ることが出来る。

 私はもう、そうは出来ない。


 食事の間へ戻ると、そこにはさっきまであった気配の穴が、そのまま口を開けていた。


 囲炉裏の火はまだ生きている。

 湯気もある。

 桜子たちが整えた朝餉の名残も、几帳面に片づけられている。

 何もかも、形としてはいつも通りだった。

 けれど、いつもならそこにあるはずのもの――真琴様が帰ってきて、火の近くへ腰を下ろし、少し疲れたような、それでいてどこか気の抜けた声で「今日は寒いね」とか「お江、それ何してるの」とか、そういう何でもない一言を置く気配だけが、すっぽり抜け落ちている。


 私は囲炉裏の前へ座った。


 こうして見ると、食事の間は思っていたより広い。

 いや、広いのではない。

 ただ、人一人の不在が、それほどまでにこの場所の形を変えてしまうのだ。


「姉上様」


 お江が、私の向かいへ座った。


「うん?」


「さっきの、“帰ってきていただきます”って、ちょっと母上様みたいだった」


 私は思わず少しだけ笑ってしまった。


「それは、よいことなのでしょうか」


「なんか、強そうだった」


 お江はそう言ってから、小皿の上に残っていた梅干しをつまみかけて、桜子に目で止められ、しぶしぶ引っ込めた。


 お初は、私たちから少し離れて座った。

 黙っている。

 こういう時のこの妹は、妙に静かになる。


 以前のお初なら、真琴様が無理をして出ていくことへ、もっと露骨に腹を立てただろう。

 「まだ病み上がりなのに」とか、「なんで今なのよ」とか、「誰も止めないの」とか。

 けれど今は違う。


 きっと、言いたいことがないのではない。

 言いたいことがありすぎて、どれを先に口へ出せばよいか分からぬのだ。


 私は、その横顔を見ながら思った。

 お初もまた、この数か月で変わった。

 地震の夜、真琴様の看病の夜、床払いまでのあの長い時間の中で、あの子の中の何かも確かに前とは違う位置へ動いている。


 母上様が、静かに座につかれた。


「茶々」


「はい」


「今日から、城の空気はまた変わります」


 私は背筋を正した。


「はい」


「それを、まず奥から乱さぬことです」


 その一言は、短かった。

 けれど、いま私が最も聞くべき言葉でもあった。


 城主が出る。

 それだけで、城の中の人間は敏感になる。

 門番の視線、女中の声の落とし方、台所の手の早さ、城下から上がる噂の湿り気まで、すべてが微妙に変わる。

 そして、その変化を一番先に整えねばならぬのが、奥なのだ。


「心得ております」


 私はそう答えた。


 その声を聞いて、お初がほんの少しだけこちらを見た。

 私の言葉の中にあるものを、この妹はよく聞いている。


「お初」


 母上様が今度は妹の名を呼ばれた。


「……はい」


「そなたも、言葉少なになるのは構いません。ですが、手まで止めてはなりません」


 お初は一瞬、息を詰めたような顔をした。

 そして、すぐに視線を落とした。


「止めません」


「よろしい」


 お江はそのやり取りを聞いて、少しだけ首を傾げていたが、やがてぽつりと言った。


「なんか、みんな静かだね」


 その言葉が、食事の間の空気を少しだけやわらげた。

 私はようやく息を吐いた。


「そうですね」


「私、こういうの苦手」


「あなたは賑やかな方が向いております」


「うん」


 お江は素直に頷いたあと、少しだけ真面目な顔をした。


「じゃあ、私、いっぱい喋った方がいい?」


 その問いに、私は少し驚いた。


 この子は本当に、何も考えていないようでいて、時々こうして場の空気をそのまま受け止める。


「ええ」


 私は頷いた。


「ただし、余計なことまで喋ってはなりません」


「それ難しい」


「あなたには特に」


 それで、ようやくお初の口元がほんの少しだけゆるんだ。

 それを見て、私は心の中で小さく安堵した。


 朝の片づけが終わると、私はそのまま表の間へ移った。


 真琴様が出られた以上、今日からの大津城は“留守を預かる城”として動かねばならない。

 地震の時と同じだ、と私は思った。

 あの夜、真琴様は「母上とお江を頼む、奥をまとめてくれ」と私に言って出ていかれた。

 その時の私は、恐怖で震えながらも、ただ目の前の火と水と人を繋ぎ止めることだけを考えていた。


 今も、根は同じなのだろう。


 違うのは、今回は揺れが目に見えぬことだ。

 地震のように床が波打つわけではない。

 だが、人の心は、主が不在となるだけで静かに揺れる。


「桜子」


「はい」


「安土との文の往復を、これまでより半刻早くまとめなさい。大津で止めぬこと」


「承りました」


「梅子」


「はい」


「蔵の出入りをもう一度締め直します。戦が長引けば、こちらの兵糧も見方が変わります」


「はい」


「桃子」


「はう、はい」


「城下から奥へ上がってくる噂は、そのまま通さず私へ一度まとめなさい。余計な不安を広げたくありません」


「はいです」


 三人が動き出すのを見ながら、私は自分の中のざわつきを押し込めるように息を吸った。


 私はもう、“ただ夫を待つ女”ではいられない。

 もちろん待つ。

 無事を願う。

 戻ってきてほしいと、何度でも思う。

 けれどそれだけでは、この城は持たない。


 大津城が静かに回っていること。

 蔵が乱れぬこと。

 湯が絶えぬこと。

 城下の女たちの顔が崩れぬこと。

 それらすべてが、外で戦う真琴様の背を、見えぬところで支えることになる。


 そう思えば、ここもまた戦場なのだろう。


 昼前、お初が表の間へ顔を出した。


「姉上様」


「何です」


「城下の方、ちょっと見てくる」


「一人でですか」


「桜子つける」


「つけられる、ではなく連れていきなさい」


 お初は、少しだけ眉を寄せた。

 けれど私が何を案じているかは分かるのだろう。すぐに「わかった」と答えた。


 私はそこで、少し迷ってから言った。


「お初」


「何」


「……あの方がいない間、あなたの顔は人より目立ちます」


「どういう意味」


「あなたが静かだと、皆が不安になります」


 お初は、そこでほんの一瞬だけ目を伏せた。


 たぶん、自分でも分かっているのだ。

 自分が今、城の中でどう見えているかを。

 お江のように明るく動けるわけではない。

 私のように全部を飲み込んで顔へ出さぬことも、うまくは出来ない。

 だから、その中間で、黙り込みながらも動くしかない。


「……頑張る」


 お初の口からその一言が出た時、私は少しだけ胸の奥が痛んだ。


 この妹に、私は“頑張る”と言わせてしまった。

 けれど今は、それでよいのだろう。


「ええ」


 私は静かに頷いた。


「それで十分です」


 お初はそれ以上何も言わず、踵を返した。

 去り際の背は、少しだけ細く見えた。


 昼下がり、私は一人で食事の間へ戻った。


 囲炉裏の火は、小さく保たれている。

 昼は暖かいとはいえ、春の風はまだ冷える。

 この火を見ていると、私はどうしても真琴様のことを思い出した。


 あの方は、もう安土へ着かれただろうか。

 病み上がりの体で、馬上の揺れに耐えておられるのだろうか。

 関東の乱れを、どのような顔で見ておられるのだろうか。


 ふと、食事の間があまりに静かであることに気づいた。


 ああ、と私は思った。

 これなのだ。


 真琴様がもう“私の夫”であるだけではなく、“国が使う武将”になったという感覚は。


 これまでも、この方は何度も外へ出られた。戦も、政も、地震の時の救援も。

 けれど今度は違う。

 今回の出立には、家の用でもなければ、近江だけの用でもない、“国があの人を呼んでいる”重みがあった。


 私だけが待っていればよいのではない。

 大津城だけが待っていればよいのでもない。

 安土も、関東も、諸家も、皆があの人の働きを必要としている。


 それは誇らしいことのはずだった。

 黒坂真琴という人が、それほどの武将になったのだという証なのだから。


 けれど、誇らしさと同じ重さで、不安が胸へ乗る。


 遠くへ行く。

 多くを背負う。

 多くを背負う人ほど、無事だけを約束されるわけではない。


 私は火の前で膝をそろえ、そっと手を重ねた。


 私はこの人の妻だ。

 それは変わらない。

 けれど今の私は、戦国武将・黒坂真琴の妻でもあるのだ。


 ただ帰りを待つだけでは足りない。

 帰る場所が乱れぬように守り、名が外で重くなるほど、内を静かに整えておく。

 そうして初めて、私はこの人の隣に立てるのかもしれない。


 囲炉裏の火が、小さく鳴った。


 私はその音を聞きながら、静かに思った。


 行ってらっしゃいませ。

 そして、必ず帰ってきてくださいませ。


 その願いを、今はもう“ただの妻の願い”としてではなく、

 この城の御方様としての祈り

 に変えて持たねばならないのだろう。


 私は顔を上げた。


 食事の間は、まだ静かだった。

 けれど、その静けさは、先ほどより少しだけ形を持っている気がした。


 この城は、私が預かる。

 あなたが戦国武将として国に使われるなら、私はその留守を守る妻になる。


 そう、ようやく胸の内で言葉に出来た気がした。

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