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茶々外伝『天正大地震』編・②②⓪話・第二十一話 春の支度、戦の支度

真琴様を送り出す支度は、看病の支度によく似ていた。


 どちらも、相手の体を思う。

 どちらも、こちらの感情を先に出してはならぬ。

 どちらも、何をどの順で揃えるかで、先の無事が少しだけ変わる。


 違うのは、看病の支度が人を寝台へつなぎ止めるためのものであるのに対し、出立の支度は人を外へ送り出すためのものだということだけだった。


 それだけの違いが、どうしてこうも胸へ堪えるのかと、私は湯殿へ向かう廊下を歩きながら思っていた。


 春の匂いがしていた。

 庭の梅はもう散りはじめ、風の中へ白い花びらを落としている。

 少し前まで、あの花を見てようやく静かになったと思った。

 けれど、その静けさの上へ、今度は関東の乱という名の火が落ちてきた。


 真琴様は、もう安土へ上がる。


 そして、いずれ東へ目を向ける。

 それが分かっているから、私は一つひとつの支度を、ひどく丁寧にしたかった。


「桜子」


「はい、御方様」


「湯は熱すぎぬように。病み上がりで急に温めすぎると、かえって疲れが出ます」


「承りました」


「梅子、食事は量を多くしないこと。ですが、道中で腹が空きすぎぬよう、軽くても腹へ落ちるものを」


「はい」


「桃子」


「はいです」


「旅支度の中へ、薬を忘れぬこと。薬師の丸薬は小袋へ分け、湯がなくても飲めるよう粉のものも」


「はいです!」


 三人はもう、私のこういう指図にいちいち驚かなくなった。


 地震の夜からこちら、火の始末、水の配り方、薬の刻、雑炊の匙の数まで、私は細かなことばかり見てきた。

 その細かさがなければ、人はちゃんと生き延びぬということを、このひと月で嫌というほど知ったからだ。


 真琴様を外へ出すのなら、なおさらだ。


 湯殿の戸口まで行くと、お初が立っていた。


 何も言わずに、ただそこに立っている。

 私が来ることを待っていたのかもしれないし、ただ自分でもどこへ立てばよいか分からず、ここにいたのかもしれない。


「お初」


「何」


「何をしているのです」


「別に」


 そう言ってから、お初は少しだけ視線をずらした。


「……湯加減、見てただけ」


「そうですか」


 私はその“だけ”に何も言わなかった。

 この妹は、今はこうして“理由のある場所”に立っている方が楽なのだろう。

 理由なく不安そうな顔をして立っているより、ずっとお初らしい。


「熱くしすぎないようには言っておいた」


「ありがとうございます」


「別に。あんたが言う前に分かっただけ」


 その返しに、私はほんの少しだけ口元をゆるめた。


「そういうところは、助かります」


 お初はそれを聞いて、少しだけ眉を寄せる。

 褒められるとすぐ居心地が悪くなるところも、昔から変わらない。


 私は湯殿の中を見た。

 湯気は重すぎず、明るさもほどよい。

 真琴様が戻られたばかりの、あのひどい熱の夜に比べれば、もう湯殿の空気まで違う。

 あの頃の私は、湯を整えるたびに「どうかこれで少しでも楽に」と祈るような気持ちだった。

 今は違う。

 今は「どうかこれで、ちゃんと出ていけますように」と願っている。


 願う内容が変わっただけで、結局、私は同じようにこの方の体を案じているのだろう。


「姉上様」


 お初が、低い声で言った。


「何です」


「……止めないの」


 私はお初を見た。


 問いの意味は分かっている。

 止めないのか。

 まだ完全に戻っていない真琴様を、また外へ向かわせるのか。

 関東が荒れるとしても、今すぐでなくてはならぬのか。

 そういう意味が、その短い一言へ全部入っている。


「止めたい気持ちはあります」


 私は正直に答えた。


 お初の目が、少しだけ揺れた。

 私がそう言うと思っていなかったのかもしれない。


「ですが」


 私は続けた。


「止めれば、この方は体だけをここへ置いて、心はもう安土へ行ってしまいます」


「……」


「そうなれば、休ませても同じです」


 お初は黙った。


 この妹も、それは分かっているのだろう。

 分かっているから、余計に苦しいのだ。


「私は」


 お初がぽつりと言う。


「まだ完全に治ってからでいいと思う」


「ええ」


「でも、そういう人じゃないっていうのもわかる」


「ええ」


「……やだね」


 その最後の一言があまりにも素直で、私は一瞬だけ返事を失った。

 やだね。

 それは子どもの言い方のようでいて、妙に真実だった。


「そうですね」


 私は小さく頷いた。


「やなものです」


 お初は、そこで少しだけ口元を歪めた。

 笑いそうで、笑えない顔だった。


 真琴様が湯から上がられた時、頬にはほんの少しだけ血の気が戻っていた。


 髪はまだ少し湿っていて、肩へ落ちる雫を桜子が手拭いで受けている。

 私はその様子を見ながら、やはりまだ本調子ではないと思った。

 だが、戻られてすぐ寝所へ運び込んだ日のあの重さとは、もう違う。

 自分の足で立ち、自分の意思で外へ向かおうとする人の顔になっている。


「湯はどうでした」


 私が問うと、真琴様は少しだけ目を細められた。


「生き返るね」


「最近、そればかりです」


「だって本当にそうだから」


 その返しに、お江がすぐに乗ってきた。


「じゃあ、毎日入ればずっと生き返るじゃん」


「それは一回ちゃんと生きてからの話」


「なにそれ」


 お江が頬をふくらませ、お初が横で「よくわからないわね」と呟く。

 そのやり取りが、少し前まで看病の夜の寝所に満ちていた張り詰めた空気を思えば、夢のようだった。


 食事の間へ膳を運ばせると、私は真琴様の前へ座った。


 今夜は軽いものがよい。

 だが、安土へ上がる前に力が足りなくては困る。

 雑炊ほどやわらかくはないが、消化のよい飯。

 塩を少し効かせた汁。

 焼き魚は脂の重くないものを少しだけ。

 梅子の工夫した薬味の香りが、春の夜気に混じっている。


「多くは召し上がらなくて結構です」


「うん」


「ですが、抜いてはなりません」


「茶々」


「何です」


「最近、言い方が完全に母上様」


 私は思わず笑いそうになった。


「それは、よいことと受け取ってよろしいのでしょうか」


「強すぎる時もある」


 そこへ、母上様ご本人が入ってこられた。


「ならば、ちょうどよいのではありませんか」


 その一言で、食事の間の空気がやわらいだ。


 お市は、真琴様の顔色を一目見て、それから穏やかに言われた。


「安土へ上がるなら、今日は無駄口を減らしなさい」


「はい」


「それから」


 母上様は、私とお初を一度ずつ見た。


「二人とも、送り出す支度で顔を固くしすぎぬこと」


 私は少しだけ視線を伏せた。

 お初は、あからさまに気まずそうな顔をした。


「……そんなにわかる?」


「ええ」


 母上様は即答なさった。


「わかりやすいのは、そなたの方です」


 お初は何も言い返せなかった。

 その代わり、真琴様の湯呑の位置を直すふりをして、手元へ視線を落とした。


 私はその横顔を見ながら、母上様の言葉の重みを思う。

 送り出す支度で顔を固くしすぎぬこと。

 それはきっと、ただ“気丈であれ”という意味ではない。

 真琴様が外へ向かう前に、家の中の不安まで背負わせるな、ということなのだろう。


 だから私は、出来るだけいつもの声で言った。


「安土へは、何刻に」


「夜明けとともに」


 真琴様が答えられた。


「朝餉は」


「軽くでいい」


「軽くでは軽すぎます」


「じゃあ、軽すぎない軽く」


「それは私が決めます」


 そう返すと、真琴様は小さく笑われた。

 お初も、お江も、桜子たちまで少しだけ肩の力を抜いた気配がした。


 夜が更け、皆がそれぞれ下がったあと、私は一人で旅支度の最後を確かめていた。


 羽織。

 替えの衣。

 薬の小袋。

 水筒。

 道中で口へ入れられる干し飯と梅。

 そして、病み上がりゆえの予備の布と手拭い。


 持たせすぎても重い。

 少なすぎれば足りない。

 その加減を見ながら、私は何度も荷を直した。


「姉上様」


 振り向くと、お初がいた。


 もう休んだものと思っていた。

 けれど、この妹がこういう夜に素直に休めるはずもない。


「まだ起きていたのですか」


「姉上様こそ」


「私は今夜、やることがあります」


「私も」


 短い応酬だった。

 けれど、そのままお初は入ってきて、黙って荷の横へ座った。


「それ、重いんじゃない」


 そう言って、一つ小袋を持ち上げる。


「薬です」


「こんなに?」


「病み上がりです」


「……そっか」


 お初は、そこで何も言わなくなった。

 ただ、ひとつずつ荷を見ていく。


 私は、その沈黙がさきほどのような痛いものではなく、同じ支度へ手を添える者の沈黙に変わっていることに気づいた。


「お初」


「何」


「この布はもう一枚、外へ」


「わかった」


 私はそれ以上何も言わなかった。

 言わなくても、今は通じる気がしたからだ。


 やがて荷が整うと、お初は小さく息をついた。


「姉上様」


「何です」


「……ちゃんと、帰ってくるよね」


 私はその問いに、すぐには答えられなかった。


 帰ってくる。

 そう言い切りたい。

 けれど、この世でそれを軽々しく言える立場の者があるだろうか。


「帰ってきていただきます」


 私は、ようやくそう答えた。


 お初は、その言い方に少しだけ眉を寄せたが、やがて頷いた。


「うん」


 それで十分だった。


 夜明け前、大津城の空気は澄みきっていた。


 鳥もまだ鳴かず、門の向こうの城下も眠りの底にある。

 そういう刻に出る支度というものは、どこか現実味が薄い。

 本当にこれから人が旅立つのかと、信じにくいほど静かだ。


 真琴様は、その静けさの中で、きちんと立っておられた。


 まだ痩せている。

 まだ、休ませたい。

 けれどもう、止められる顔ではない。


「では」


 真琴様が言われた。


「行ってくる」


 私はその前へ進み出て、深く一礼した。


「どうか、ご無理はなさらずに」


「努力する」


「それでは困ります」


「じゃあ……ちゃんと戻るようにする」


 その言葉に、私はほんの少しだけ顔を上げた。

 嘘でも、約束でもない。

 けれど、それで十分だった。


 お江は目をこすりながら「おみやげいらないから早く帰ってきて」と言い、お初は最後まで何も言わずにいた。

 ただ、出立の寸前になって、真琴様の袖口をすっと直した。


「今度は、倒れないで」


 それだけだった。


 真琴様は、一瞬だけお初を見た。

 それから、穏やかに頷かれた。


「うん」


 私はそのやり取りを、何も言わずに見ていた。

 胸の奥にかすかな痛みはあった。

 けれど今は、それよりも、この方を送り出す家の空気を崩さぬ方が大事だった。


 門が開く。

 朝の光が、ようやく空の端へ差し始める。

 真琴様はその中へ出て行かれた。


 私は、門が閉じるまでその背を見送った。


 やっと静かになった。

 でも、その静けさは、嵐の前の静けさでもあった。


 ならば私は、またこの大津城で待つしかない。

 湯を守り、火を守り、女たちの気配を見て、この家が家であるように整えて待つ。


 それが今の私に出来る、いちばん確かな戦いなのだと、私は冷えた朝の空気の中で静かに思った。

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