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茶々外伝『天正大地震』編・②①⑨話・第十話 東が燃える前に

 春のやわらかな日々は、思っていたより短かった。


 いや、短かったというより、こちらがようやく息をつけるようになったと思ったその時には、もう次の波が足元へ来ていたのかもしれない。


 地震の後、大津城は少しずつ“暮らしを立て直す城”の顔を取り戻していた。

 真琴様の熱は完全に引き、寝所で過ごす時間は日に日に減っていった。

 まだ本調子ではない。

 それは私にも、お初にも、お江にも、母上様にも分かっている。

 けれど、だからといって、いつまでも寝台へ縛りつけておける方でもないことも、皆よく知っていた。


 その日の夕方も、真琴様は食事の間の囲炉裏端で、軽い書付を広げておられた。


 量は絞っている。

 長くは見せない。

 茶を一杯飲む刻になれば、私は桜子へ目配せし、書付を自然に下げさせる。

 そういう“加減”を、私たちはこのひと月で覚えてしまった。


 お江はその横で、梅の枝から落ちた花びらを小皿へ集めて遊んでいた。

 お初は少し離れたところで縫い物をしている。

 縫い物と言っても、あの子の場合、心を落ち着けるために針を持っているだけで、出来上がるものの端は大抵どこか不格好だ。

 けれど今日の顔は、前より少し穏やかだった。


 母上様は御殿におられたが、夕餉の刻にはこちらへ出てこられるだろう。

 食事の間には、ようやく“地震の前に近い日常”の匂いが戻ってきていた。


 だからこそ、その足音が聞こえた時、私は胸の内が冷えるのを覚えた。


 急ぎの足。

 迷いのない足。

 それが廊下をまっすぐこちらへ向かってくる時、ろくな知らせであったためしがない。


「御方様!」


 襖の前で膝をついたのは、前田慶次の手の者だった。


 旅塵をまとい、息が上がっている。

 大津へ入ってから一刻も無駄にせず、ここまでまっすぐ来たのだろう。


 私はその顔を見た瞬間、平穏というものが、やはり長くは続かぬのだと悟った。


「申せ」


 真琴様が先に声をかけられた。

 さっきまで少しだるそうに書付へ目を落としていた顔が、もう別のものになっている。

 病み上がりの色が消えるわけではない。

 けれど、その奥から“戦の人”の目が起きる。


 手の者は深く頭を下げた。


「関東より急報にございます」


 関東。

 その二文字だけで、空気が変わった。


 真琴様の指が、書付の上で止まる。

 お初も針を持つ手を止めた。

 お江でさえ、何も言わずにこちらを見る。


「伊達家、蘆名家、相馬家、佐竹家、北条家、いずれも動き始めております」


 手の者は息を整えながら続けた。


「伊達家では、輝宗様の代の動きに加え、政宗様と家中の緊張が高まり、蘆名家では後継を巡り家中が二つに割れかけております」


 私は、その言葉を追いながら、頭の中で人の名を並べた。


 伊達。

 蘆名。

 相馬。

 佐竹。

 そして北条。


 東の名だたる家々が、一つの糸でつながるようにして動き始めている。

 そういう知らせなのだと、私にもすぐ分かった。


「蘆名家中にては、佐竹平四郎義広様を擁立すべしとの声が強まり、これに反する勢力とのあいだで争いの気配あり。北条氏政は佐竹方へ接近しつつあり、関東一円、近く大乱となるやもしれませぬ」


 食事の間の空気が、しんと冷えた。


 地震の時の恐ろしさは、自然の力の前に人が立ち尽くす恐ろしさだった。

 だが、今のこの報せは違う。

 これは人が起こす火だ。

 自然の揺れをようやく越えたと思ったところへ、今度は人が人を揺らし始める。


 真琴様は、しばらく何も言わなかった。


 いや、何も言わずにいられたのは、本当に数息のことだったのだろう。

 けれど私には、その沈黙がひどく長く感じられた。


 やがて、真琴様が低く言われた。


「……最悪だね」


 その声は静かだった。

 静かだったが、その奥にあるものはよく分かった。


 怒り。

 焦り。

 そして何より、放っておけぬという強い意志。


「慶次は」


「すでに詳細をまとめ、安土へも別便を飛ばしております」


「うん」


 真琴様は短く頷いた。

 その横顔を見ていると、さっきまで病み上がりの人として見ていたことを、こちらが一瞬忘れそうになる。

 けれど、忘れてはならぬのだ。

 この方はまだ完全に戻っていない。

 その体で、また東の火を見に行こうとしている。


 私は、知らずのうちに膝の上で手を握っていた。


 やっと静かになったのに。

 お初が庭で言った、あの言葉がそのまま胸へ返ってくる。


 やっと、静かになった。

 やっと、梅の花の匂いを“春だ”と思えるようになった。

 やっと、夜中に息を数えずに眠れるようになった。

 それなのに、もう次が来る。


 お初は、真っ先にそれを口へはしなかった。

 けれど、縫い物を置いた手の白さを見れば、あの子がどれだけ強く布を握ったかは分かった。


「真琴」


 お初が、ひどく珍しく、まっすぐ名を呼んだ。


 真琴様が目を向ける。


「……まだ、完全に戻ってないでしょ」


 その一言に、私は思わずお初を見た。


 この妹は、自分の心のことを飲み込むくせに、こういう時だけ驚くほど正面から言う。


 真琴様は、ほんの少しだけ苦笑された。


「うん、戻ってはない」


「なら」


「でも、関東が燃えたら、戻るまで待ってくれないよ」


 その返しに、お初は唇を噛んだ。

 私も、何も言えなかった。


 そうなのだ。

 災は人を待たない。

 地震もそうだった。

 そして戦もまた同じなのだろう。


 お市が、そこで静かに入ってこられた。


 事情はまだ聞いておられぬはずなのに、その場の空気だけでだいたいを察しておられる顔だった。


「東ですか」


 母上様が問う。


「はい」


 真琴様が答えられた。


「関東が荒れ始めてる」


 お市は、すぐには何も言われなかった。

 その代わり、私とお初を一度ずつ見て、それから真琴様へ向き直られた。


「安土へ」


「すぐに登城します」


 その言葉を聞いた瞬間、私は胸の奥で何かが音を立てて崩れるのを感じた。


 やはりそうなのだ。

 もう決まっている。

 真琴様の中では、報せを聞いた瞬間に、次の動きまでほとんど定まってしまっている。


 それを止められぬことは分かっている。

 分かっているのに、どうしても一瞬だけ、行かないでくださいませ、という言葉が喉へ上がった。


 けれど私は、それを飲み込んだ。


 今ここで私がすべきは、妻としてすがることではない。

 御方様として、この人が外へ向かうあいだに内をどう支えるかを決めることだ。


 私は息を整えた。


「支度をいたします」


 そう口にすると、自分の声が思っていたより落ち着いていたので、逆に少し驚いた。


 真琴様が私を見る。


「茶々」


「湯を整え、着替えを用意し、軽く腹へ入るものを持たせます。母上様には安土と大津のあいだの文の整理をお願いし、桜子たちには女中と城下の動揺を抑えさせます」


 私は一息に言った。


「お江は余計な噂を広げぬよう、城の中で動かします」


「えっ、余計って何」


「そのままの意味です」


 私がそう返すと、お江は少しむくれた。

 だが、そのやり取りがかえって場の緊張を少し和らげた。


 お初は、何も言わなかった。

 けれど、その沈黙は、以前のようなただの戸惑いではなかった。


 私が“すぐに手配を”と動き出したことで、あの子もまた、自分が今どう立つべきかを飲み込んだのだろう。

 やっと静かになった。

 それでも、次が来るなら立たねばならぬ。

 そういう諦めにも似た覚悟が、あの横顔にはあった。


 私はすぐに立ち上がった。


 桜子を呼び、湯殿へ火を入れ直させる。

 梅子には、薬膳ほど重くなく、だが体力の落ちた人にも入るものを。

 桃子には、着替えと旅支度に不足がないよう、だが荷を重くしすぎぬように。

 慶次の手の者へは、安土へ着く前に倒れぬよう、道中で休ませる場所を改めて整えさせる。


 指図を飛ばしているあいだ、私はほとんど何も考えなかった。

 考えれば、胸の内が揺れすぎるからだ。


 やるべきことを並べる。

 その順を決める。

 それが今の私を支える唯一の柱だった。


 食事の間へ戻ると、真琴様はもう立ち上がっておられた。


 まだ少し、動作に重さがある。

 それでも、目はもう完全に“外へ向かう人”のものだ。


「茶々」


「はい」


「……ありがとう」


 その一言に、私は首を振った。


「戻られたら、ちゃんと休んでくださいませ」


「努力する」


「努力ではなく、守ってください」


 真琴様は、そこで少しだけ笑われた。

 その笑顔が見られただけで、私はまだ踏ん張れると思った。


 お初は、最後まで何も言わなかった。

 ただ、真琴様の羽織の襟が少し乱れているのを見つけると、つかつかと寄っていって、それを乱暴なくらいまっすぐに直した。


「……倒れないで」


 小さな声だった。

 たぶん、私にしか聞こえなかった。


 けれど真琴様には、その手つきで十分伝わったのだろう。

 何も言わずに、ただ一度だけ、お初の方を見て頷かれた。


 そのやり取りを見て、私は胸の奥が少しだけ痛んだ。

 けれど、同時にそれを見届けるのが、今の私の役目なのだとも思った。


 夕方の空は、まだ春のやわらかさを残していた。

 なのに、その下で私たちはもう、次の乱の支度を始めている。


 地震を越えたと思ったら、今度は人が起こす大きな揺れだ。

 自然も、戦も、休む間をくれぬ。


 それでも私は、もう地震の前の私ではなかった。


 揺れる夜に城を立てた。

 看病の夜に家の形を守った。

 そして今、関東の乱という次の火種の前で、迷いながらも“支度を”と言えた。


 それだけで十分とは思わない。

 けれど、少なくとも私は、ただ立ち尽くす女ではなくなったのだろう。


 東が燃える前に。

 この春の静けさが、ただの束の間で終わるのだとしても。


 私はこの大津城の中で、また次の揺れを受け止めるしかない。

 そう静かに腹をくくりながら、私は真琴様の背を、今度も黙って見送る準備をしていた。

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