茶々外伝『天正大地震』編・②①⑧話・第九話 春の静けさ、嵐の前
春は、音もなく来るものだと思っていた。
冬のように風が音を立てて障子を鳴らすでもなく、地震のように地の底から城を揺らすでもなく、春はただ、ある朝ふと庭の色を変えている。
梅がほころび、土の匂いが少しやわらぎ、湯殿から立つ湯気の白さまで、どこか軽く見えるようになる。
それなのに、その春の静けさが、私は少し怖かった。
地震の夜からこちら、長浜の崩れ、安土の損傷、真琴様の高熱、看病、床払い――あまりにもたくさんのことが、ほとんど息つく間もなく続いた。
だからこそ、ようやく何も起きぬ朝が来ると、逆に胸の奥が落ち着かないのだ。
あまりに静かすぎる。
この静けさは、本当に平穏なのか。
それとも、何か大きなものが次に来る前の、息を潜めた間なのか。
その朝も、私は食事の間の障子を少し開けて庭を見ていた。
梅はもう、はっきりと咲いている。
白い花びらが、枝の黒さの上で小さな灯のように見えた。
空は高く、風もやわらかい。
ついこのあいだまで、火鉢の炭の減りばかり気にしていたのが嘘のようだった。
「姉上様」
後ろからお江の声がした。
「また空見てる」
「ええ」
「最近、考えごと多いね」
「前から多いです」
「前よりもっと」
私は振り返って、お江を見た。
この妹は、案外そういうところを見ている。
自分はいつも通りに賑やかにしていても、周りの顔色や沈黙の長さには敏い。
「真琴が元気になってきたのに、姉上様まだちょっと怖い顔してる」
私は一瞬、返事を失った。
怖い顔。
そう見えるのだろうか。
けれど、自分の胸の中にあるものを思えば、それはきっと否定しきれない。
「……平穏が、あまりに急に来ると」
私はゆっくりと言葉を選んだ。
「かえって、次を身構えてしまうことがあります」
お江は少しだけ首を傾げた。
「次って、何か来るの?」
「来ぬなら、それに越したことはありません」
「ふーん」
お江は、分かったような分からぬような顔をしながら、それでもそれ以上は聞かなかった。
この子も、このひと月で少し変わったのだと思う。
以前ならもっと無邪気に、「じゃあ来ないといいね!」で終わっただろう。
今は、言葉にしきれぬものが家の中にあると、何となくでも感じている。
その時、廊下の向こうから真琴様の咳払いが聞こえた。
私はすぐにそちらを向いた。
真琴様は、もう寝所へ籠もりきりではない。
朝のあいだは食事の間へ出て、短い書付に目を通し、庭へも少しだけ出られるようになっていた。
けれど完全に元通りかといえば、もちろんそうではない。
熱は下がった。
呼吸も落ち着いた。
笑う時の顔にも、ようやく血の気が戻ってきた。
それでも、長く座ればすぐに肩が落ちるし、安土へ出る話になると、母上様も私もお初も、一斉に顔を険しくする。
真琴様ご自身が一番よく分かっておられるのだろう。
だから最近は、無理に「もう大丈夫」とは言わなくなった。
その代わり、“静かにしていること”そのものが少し落ち着かなそうに見える時がある。
「おはよう」
そう言って入ってこられた真琴様は、春用に少し軽くした羽織をまとっておられた。
熊ではない。
それだけで、お江はすぐに笑う。
「今日は熊じゃない」
「熊じゃない日にまずそれ言う?」
「だって最近ずっと熊だったもん」
私は思わず口元を押さえた。
お初があとから入ってきて、すぐに言う。
「朝はまだ冷えるんだから、薄くしすぎないで」
「はいはい」
「はいはい、じゃない」
その言い方がもう、ほとんどいつものお初に戻っていることに、私は小さく安堵した。
けれど、“ほとんど”であって、完全に元通りではない。
それは、こうして何でもない朝のやり取りの中にいるからこそ、余計によく見える。
お初は、前よりも真琴様の調子をよく見ている。
見ていて、見ていることを隠そうとして、隠しきれず、だから少し黙る。
その沈黙が、もう以前のような尖りだけではないことを、私は知っている。
朝餉のあと、私は母上様の御殿へ顔を出した。
お市は、春に向けた座敷のしつらえを少し変えておられた。
冬の深い色の布を下げ、花入れの位置を替え、榊の青さが重くなりすぎぬよう少し陽の方へ寄せる。
それだけのことなのに、部屋の空気がやわらぐ。
「母上様」
「茶々」
私は一礼し、少しだけ迷ってから言った。
「ようやく、静かになってまいりました」
「ええ」
「なのに、落ち着かぬのです」
お市は、手元の花の向きを直しながら、私の言葉をそのまま受け止めてくださった。
「それは、よく働いた者の気持ちです」
「……そうでしょうか」
「戦でも、災でも、緊張が続いたあとほど人は静けさを疑います。次があるのでは、と」
私は、その言葉に素直に頷いた。
まさにその通りだった。
地震の前にも、私は空の様子が妙に気になっていた。
今は空ではない。
むしろ、何も起きぬこの静けさの方が、かえって私を身構えさせる。
「お初も、似たような顔をしております」
母上様がそう言われ、私は顔を上げた。
「お初が?」
「ええ。あれはあれで、気を抜けぬのでしょう」
私は少し考えた。
たしかにそうかもしれない。
地震の夜、看病の夜、そして床払いまで。お初は私と同じように、いや私とは別の意味で、ずっと気を張り詰めていた。
真琴様が良くなったからといって、すぐに元のまま笑ったり怒ったり出来るほど、人の心は器用ではない。
「何も起きぬ時ほど、人は自分の胸の内を見てしまいます」
お市は静かに続けられた。
「それは、悪いことではありません。ですが、少し苦しいものです」
私はその言葉を胸へしまった。
何も起きぬ時ほど、自分の胸の内を見る。
それは、今の私自身のことでもあった。
地震の夜は、考える暇がなかった。
看病の時も同じだった。
ただその日を越し、熱を下げ、城を回すことだけを見ていればよかった。
今は違う。
静かな朝の中で、私は自分が何を守ろうとしてきたのか、そして何を怖れているのかを、どうしても考えてしまう。
昼近く、私は庭へ出た。
梅の木の下には、先日の雨で少しだけ湿りを含んだ土の匂いが残っている。
風はやわらかい。
春だ、と思う。
けれど春だからこそ、戦もまた動きやすくなるのだと、頭のどこかでは知っている。
庭の端を見ると、お初が一人で立っていた。
何をしているのかと思えば、ただ梅を見ていた。
その姿が妙に静かで、私は少しだけ歩みを緩めた。
「お初」
声をかけると、妹は少しだけ肩を揺らした。
考えごとをしていたのだろう。
「姉上様」
「何を見ていたのです」
「別に。梅」
「それは見ればわかります」
そう返すと、お初は小さく息をついた。
「姉上様、そういう時だけ余計」
「あなたが言わせるのです」
私は梅の枝の下へ並んで立った。
少し黙ってから、あえて何でもない声で言う。
「真琴様、だいぶお顔がよくなりましたね」
「……うん」
「もう少しすれば、また安土へも」
そこまで言ったところで、お初の横顔がわずかに硬くなった。
私はそれを見て、言葉を止めた。
お初はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「わかってる」
「ええ」
「わかってるけど」
その先が続かない。
私は待った。
お初は、梅の枝を見たまま言う。
「やっと、静かになったのに」
その一言が、ひどく胸へ響いた。
そうなのだ。
やっと静かになった。
やっと、夜中に息遣いの数を数えずに済むようになった。
やっと、朝の光が“今日も看病が続く”だけの光ではなくなった。
それなのに、私もお初も、その静けさを手放す日が遠くないのではと、どこかで感じている。
「姉上様は、平気なの」
お初が、こちらを見ぬまま問う。
私はすぐには答えられなかった。
平気か、と問われれば、もちろん平気ではない。
けれど、平気でないと答えたところで、何が変わるわけでもない。
「平気ではありません」
私は静かに言った。
お初が、ほんの少しだけこちらを見た。
「でも、それでよいのです」
「よくない」
即座に返ってきたその言葉に、私は少しだけ目を丸くした。
お初は、ようやく私の方を見た。
その目には、怒りというより、苦いものを飲み込めずにいるような感情があった。
「平気じゃないなら、平気じゃないって言えばいいじゃない」
「言って、どうなるのです」
「わかんない。でも、ずっと一人で飲み込んでる顔されるよりまし」
私は、その言葉に返事が出来なかった。
この妹は、やはり正しいところへ突いてくる。
私は御方様として立つ時、自分の不安や疲れを“形のないもの”にして奥へ押し込める癖がある。
けれど、お初にはそれが見えてしまうのだろう。
「……あなたもではありませんか」
私はようやくそう返した。
「お初も、似たような顔をしております」
お初は少しだけ唇を引き結んだ。
「私は……」
「何です」
「私は、姉上様みたいに上手くないだけ」
その言い方があまりにも正直で、私は思わず少し笑ってしまった。
「それは、知っております」
「何よ」
「あなたが不器用なのは、昔からです」
「ひどい」
「ですが、その不器用さで助かることもあります」
お初は怪訝そうに眉を寄せた。
「たとえば?」
「今のように」
私は梅の枝へ目を戻した。
「やっと静かになったのに、と、そう言ってくれることです」
お初は、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく息をつく。
「……だって、本当にそう思ったんだもの」
「ええ」
「姉上様も?」
「はい」
私は頷いた。
「同じように思いました」
その一言を口にした時、胸の奥の固いものが少しだけほどけた気がした。
やっと静かになった。
だからこそ、その静けさを失うのが怖い。
そう思うことを、私は自分に許していなかったのかもしれない。
お初は、ようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「なら、いい」
「何がです」
「姉上様だけじゃないなら」
その返しが、ひどく妹らしかった。
その夕方、真琴様は珍しく長く庭に出ておられた。
まだ杖こそ使わぬが、歩みは以前より遅い。
それでも、日差しの中で梅を見上げている姿は、寝所に沈んでいた頃とは比べものにならぬほど、生きた人の姿をしていた。
お江はその横で、「これ全部咲いたらすごいね」とはしゃぎ、真琴様は「うん」と笑い、お初は少し離れたところからその様子を見ている。
私はその三人を見ながら、ようやく少しだけ息を楽にした。
平穏とは、ずっと続く約束ではない。
たぶん、また何かは起こる。
地震のあとに続いたように、次もまた、思いもよらぬ形で来るのかもしれない。
けれど今は、この静けさをちゃんと静けさとして味わってよいのだろう。
梅が咲く。
風がやわらぐ。
人が庭へ出て、日を浴びて笑う。
それだけのことが、どれほどありがたいかを、私はこのひと月で知った。
春は、まだ本当に来たわけではない。
けれど、その戸口に、今の私たちはたしかに立っている。
そのことを、ひとまず今日は信じてみようと、私は梅の香りの中で静かに思った。




