茶々外伝『天正大地震』編・②①⑦話・第八話 地震の後の国、女たちの理解
真琴様が床を払われてからも、大津城の中には、まだ病み上がりの人を囲むような気配が残っていた。
皆、前よりは笑う。
お江はもう普通に騒ぐし、お初も呆れながらそれへ言い返す。
桜子たちも、寝所へ入る足音をわざと殺しすぎることがなくなった。
けれど、それでも誰もがまだ、真琴様の顔色を一度は見てからその日の動きを決めている。私自身もそうだった。
大丈夫そうに見える日。
少しだけ疲れが残っている日。
笑っていても、目の奥にまだ熱病の名残がある日。
そういうものを見分けながら、ようやく私たちは“地震の後”を生き始めていた。
その日の午後、私は真琴様のいる食事の間へ、安土と長浜から上がってきた書付を持っていった。
囲炉裏の火は弱く、春へ向かう日差しが障子越しに少し白く落ちている。真琴様は、さすがにもう寝台ではなく、昼のあいだはこうして座へ出るようになっていた。
とはいえ、長く座ればすぐに疲れが顔へ出る。だから私は、机ではなく食事の間で、火と湯のあるところで読むようにしていた。
「真琴様」
「ん?」
「安土より、被害の改めが上がっております」
そう言うと、真琴様は茶碗を置き、少しだけ表情を引き締められた。
この方は、まだ病み上がりでも、政の話になると途端に顔つきが変わる。そこが頼もしくもあり、腹立たしくもあり、やはりほっともする。
「読んで」
私は書付を開いた。
「長浜城下、やはり全壊に近し、とのことにございます」
言葉にしただけで、地震直後のあの報せの重みが胸へ戻ってくる。
あの時はただ“ひどいらしい”としか聞けなかった。今は、数字と人別と、潰れた家の並びまで書き込まれている。それだけに、かえって現実味が深い。
「城下だけでなく、町筋そのものを引き直すつもりで立て直しに入る由」
「うん」
真琴様は静かに頷かれた。
「もう、前の長浜に戻すだけじゃだめだから」
私はその言葉を聞きながら、書付をめくった。
「安土城は、やはり半ばまで崩れております」
お初が、少し離れたところから顔を上げる。
お江も、何気ない顔で干菓子へ手を伸ばしかけて、そのまま止まった。
「大手まわり、石垣の一部、御殿の諸棟、いずれも大きな手直しが要るとのこと。ですが」
私はそこで少しだけ息を整えた。
「銀閣寺城には大きな損傷なく、帝はそちらへ仮住まいなさる、と」
母上様が、廊下の向こうから静かに入ってこられたのはその時だった。
「やはり、そうなりましたか」
「はい」
私は書付を閉じずに、そのまま続けた。
「賤ヶ岳城、牧野城などは被害軽微。海辺や低地は揺れだけでなく、その後の崩れも大きかった、と。湖沿いや川筋は、井戸の濁りと地割れの報せも多うございます」
お市は、私の向かいへ静かに座られた。
「つまり」
母上様は、言葉を確かめるように言われる。
「国の骨組みが、一度ずれたのですね」
私はその一言に、はっとした。
国の骨組み。
まさに、そうなのだろう。
最初、私には地震の被害というものが、壊れた家や割れた器の数としてしか見えなかった。
だが、真琴様が倒れ、長浜の全壊を聞き、安土の半壊を知り、帝が銀閣寺城へ移ると聞いた今は、もっと大きなものが動いたのだと分かる。
城の位置。
人の流れ。
政の置かれる場所。
物資の集まる先。
そうしたものが、地震ひとつでずれてしまったのだ。
「茶々」
真琴様が私を見た。
「どう思う?」
私はすぐには答えられなかった。
けれど、この問いから逃げてはならない気がした。
「……最初は」
私はゆっくりと言葉を探した。
「壊れたのは家だと思っておりました」
皆が黙って聞いている。
「けれど今は、家だけではなかったと分かります。長浜は町の立ち方そのものを変えねばならず、安土は城の意味そのものが揺れ、銀閣寺城には都の重みまで移った。つまり、暮らしだけでなく、国の置き方まで動いたのだと」
真琴様は、少しだけ目を細められた。
「うん」
短い一音だったが、それで十分だった。
私は、胸の内で小さく安堵した。
外の政のすべては分からぬ。
けれど、この半年ほど、蔵を見、炊き出しをし、城下の女たちの顔を見てきたからこそ、自分なりに見えるものもあるのだと、ようやく思えた。
お江が、その沈黙を破るように言った。
「じゃあ、地震って、ただ揺れるだけじゃないんだね」
その言葉があまりにも真っ直ぐで、私は思わずお江を見た。
「そうですね」
私は頷いた。
「揺れが止まっても、その後に人がどこで暮らすか、誰が何を支えるかまで変えてしまいます」
「やだね、それ」
お江は素直に顔をしかめた。
お初が横で、小さく息をつく。
「だから皆、地震の後の方が忙しいのよ」
その言い方に、前よりも実感がこもっている。
地震の夜は、ただ目の前の揺れへ耐えるだけだった。だが今のお初は、その後の整理や看病や復旧を通して、“止まった後の方が長い”ことをもう知っているのだ。
「お初」
私が名を呼ぶと、妹は少しだけ顔を上げた。
「何」
「あなたは、どう見ていますか」
お初は最初、答えを避けようとする顔をした。
けれど、私が待っていると分かると、やがて低く言った。
「……人の顔」
「顔」
「うん」
お初は、膝の上に置いた自分の手を見たまま続ける。
「地震の直後は、皆、ただ怖がってた。でも今は違う。長浜の女は“どこへ住むか”って顔をしてるし、大津の女は“いつまで我慢するか”じゃなくて、“春までどう回すか”って顔になってる」
私は、その言葉に黙って頷いた。
やはりお初は、人の顔を見る。
そしてその見方は、私よりずっと生々しい。
「だから」
お初は少しだけ言いよどんだ。
「たぶん、国が変わったっていうのも、そういうことなんでしょ。皆が前と同じ顔でいられなくなるっていうか」
その言い方が、いかにもお初らしかった。
私は小さく笑みを浮かべた。
「ええ。きっと、そういうことです」
母上様も静かに頷かれた。
「よい見方です」
お初は、それを聞いて少しだけ気まずそうにしたが、否定はしなかった。
その日の夕方、私は城下へ下りた。
地震から日が経ち、炊き出しの列はもう最初ほど長くない。
けれど、家を失った者はまだ仮の小屋で過ごし、濁った井戸を避けて遠くの水を汲みに行く女たちの姿もある。
春を前にして、皆、少しずつ“次の暮らし”へ向かい始めていた。
私は、広場の端で崩れた家の材を整理していた年嵩の女へ声をかけた。
「具合はいかがです」
女は振り返り、すぐに頭を下げた。
「御方様。おかげで、何とか」
その“何とか”が、今の大津そのものだと思った。
何とか。
華やかではない。
誇らしくもない。
けれど、人が人として立ち直っていく時は、いつだってまずこの“何とか”から始まるのだろう。
「井戸は」
「少しずつ澄んできました」
「そうですか」
「でも、前みたいにはまだ」
女はそこで言葉を切った。
私には、その切り方がよく分かった。
前みたいにはまだ。
けれど、それでも暮らしていくしかない。
私は、その女の顔を見ながら言った。
「この城も、前と同じままには戻りませぬ」
女は少し驚いたように私を見た。
「ですが」
私は続けた。
「揺れたのなら、次はもっと崩れぬよう直していきます。井戸も、蔵も、家も。前へ戻すのでなく、この先を越せる形へ」
女の目が、少しだけ揺れた。
泣くのではない。
ただ、張りつめていたものが少し緩んだように見えた。
「……ありがたいことでございます」
私は頭を下げられて、それ以上は何も言わなかった。
大きな言葉は要らない。
今の城下には、“まだ大丈夫だ”と感じられるだけの言葉があればよかった。
城へ戻ると、食事の間にはいつもの囲炉裏の火が入っていた。
私はその火の前で、今日一日のことを思い返した。
長浜の全壊。
安土の半壊。
銀閣寺城への帝の仮住まい。
地震によって動いた国の骨組み。
そして、それを“人の顔の変化”として見ている女たち。
このひと月、私はただ真琴様を看病し、城を回し、蔵を守ってきたつもりだった。
けれど気づけば、私自身の見方も変わっていたのだろう。
家が壊れる。
城が壊れる。
それだけではない。
人が、前と同じ心持ちで暮らせなくなる。
だからこそ、物を直すだけでなく、“安心の順序”も直していかねばならぬ。
御方様とは、たぶん、その順序を見る者でもあるのだ。
真琴様が、囲炉裏の向こうで静かに茶を飲んでおられた。
顔色はまだ本調子ではない。
けれど、その横顔は、以前より少しだけやわらいで見えた。
私は、その姿を見ながら思った。
地震は終わったのではない。
まだ、国のあちこちで続いている。
けれど、私たちもまた、その後を生きる形を覚え始めている。
ならば、この大津城は、次の揺れにも耐えられるように変わっていかねばならぬ。
家としても、城としても、国の一つの柱としても。
そう考えることが出来るようになったこと自体、私もまた、地震の前とは違う場所へ立ったのかもしれなかった。




