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茶々外伝『天正大地震』編・②①⑥話・第七話 梅の香りと床払い前夜

 冬のあいだ、どれほど長く感じられた日々にも、終わりの気配というものはある。


 それはある朝ふいにやってくる。

 目に見えて何かが変わるわけではない。真琴様の熱が一夜にして消えるわけでもなく、城の内外の乱れが忽ち整うわけでもない。

 ただ、空気の底に沈んでいた重みが、ほんの少しだけ軽くなるのだ。


 その朝、私は寝所の障子を少しだけ開けたところで、ようやくそれを感じた。


 風はまだ冷たい。

 けれど、真冬のように肌を刺す冷えではない。

 庭の隅、石灯籠の脇に植えられた梅の枝へ目をやると、まだ硬いながらも、小さな蕾がふくらみ始めていた。


 春が来る、というにはまだ早い。

 だが、春へ向かっていることだけは、もう疑いようがなかった。


 私はその気配を胸へ入れながら、振り返って寝台の方を見た。


 真琴様は、まだ休んでおられる。


 だが、あの地震のあと長浜と安土を駆け、戻ってきてそのまま倒れ込まれた頃の、燃えるような熱とはもう違っていた。

 頬の熱は落ち、呼吸は深くなり、眠りも以前ほど浅くはない。

 金八薬師は、前日、脈を見てから言った。


 「峠は越した。床払いも、もう遠くない」


 その言葉を聞いた時、私はその場でうなずいた。

 だが本当のところは、安堵しすぎるのが怖かった。


 少しよくなった。

 もうすぐ起きられる。

 そう思った矢先に、また熱がぶり返したら。

 また夜の寝所で、あのひどい息遣いを聞くことになったら。


 そうした恐れがまだ胸の奥に残っているから、私は“床払い”という言葉を、まだ完全には信じきれずにいた。


「姉上様」


 小さな声がして、私は寝所の外を見た。


 お初だった。


 夜番ではない刻なのに、もう起きている。

 いや、この妹にとっては、“もう”ではなく“まだ”なのかもしれない。このひと月、お初もまたちゃんと寝た夜など、ほとんどなかっただろうから。


「起きていたのですね」


「姉上様こそ」


 お初は、少し眠たげな顔をしながらも、いつものように先に言い返した。

 その言い返しに少しだけ棘が戻っているのを見て、私は内心で小さく息をついた。

 この頃のお初は、ようやく“何も言えぬ沈黙”から、“少しは言い返せる沈黙”へ変わりつつある。


「寝所の外で声を落としなさい」


「わかってるわよ」


 言いながらも、お初はちゃんと声を低くした。

 私は少しだけ障子を閉め、廊下へ出る。


 朝の空気が、ひやりと頬を撫でた。


「熱は?」


 お初がすぐに問う。


「昨夜よりは落ち着いております」


「咳は」


「少ない」


「汗は」


「一度、夜明け前に」


「じゃあ、布を替えたのね」


「ええ」


 お初は、私の返事を一つずつ確かめるように聞いてくる。

 それが可笑しくもあり、切なくもある。

 この妹は、本当に看病へ全身を傾けてしまう。気持ちを隠そうとして隠しきれず、そのくせ真正面からは言えぬまま、こうして細かなことばかりを問う。


「お初」


「何」


「少しは休みましたか」


「それ、最近そればっかり」


「最近そればかり言いたくなる顔をしております」


「姉上様もでしょ」


 その返しに、私は思わず少しだけ笑ってしまった。


 けれど実際、その通りだった。

 私も、頬が少し痩せたと桜子に言われた。

 お初も、目の下の薄い影が消えない。

 お江は元気そうに見えて、昼のまどろみが増えた。

 母上様だけが、まるでそういう疲れと無縁のように静かでおられるのだから、あの方は本当に強い。


「母上様のところへ」


 私がそう言いかけたところで、寝所の中から小さな物音がした。


 私とお初は同時に振り返る。


 障子をそっと開けると、真琴様がわずかに身を起こそうとしていた。

 まだ寝台の上で、肘へ少しだけ力を入れた程度だ。

 それでも、今の私たちには、それだけで大事件だった。


「真琴様」


 私はすぐに傍へ寄った。


「起きてはなりません」


「いや……ちょっとだけ」


 声はまだ少しかすれている。

 けれど、あの底へ沈んだような熱の声ではない。


 お初も、すでに反対側へ回り込んでいた。


「ちょっとだけ、じゃないでしょ。まだ顔色悪い」


「お初、朝からきついなあ」


「きつくするに決まってるでしょ」


 そのやり取りが、あまりにも“いつもに近い”響きを持っていて、私は胸の奥がじんとした。


 真琴様は、ようやく少しだけ人らしい顔で笑われた。

 それから、寝所の外の方を見て言う。


「梅、咲いてる?」


 私は一瞬、言葉に詰まった。


 この方は、目を覚まして最初にそういうことを言うのだ。


「まだ蕾です」


 私は答えた。


「ですが、近うございます」


「そっか……」


 その一言に、お初がすぐ口を挟む。


「梅なんか見なくていいから寝て」


「ひどい」


「ひどくない」


 私は笑いを堪えきれなかった。


 大丈夫。

 たぶん、もう大丈夫なのだ。


 そう思ってしまってよい気がした。


 その日から、寝所の空気は少しだけ変わった。


 薬はまだ要る。

 粥も、量は多くない。

 長く起こしておくとすぐに疲れる。

 けれど、“良くなるために休む”空気と、“悪くならぬために張りつめる”空気は、まるで違う。


 桜子の手つきが軽くなった。

 梅子は薬湯の濃さを少し薄め、代わりに鶏の出汁を使った雑炊を工夫し始めた。

 桃子は物を落とす回数がやっと減った。

 お江は、真琴様が目を開けている時間に合わせて、妙な話を持ち込むようになった。


 そして、お初はというと――相変わらず、妙に過保護だった。


 私は昼過ぎ、梅子が作った雑炊を寝所へ持ち込んだ。

 白い湯気の立つ椀から、やわらかな鶏の匂いがする。食欲をそそるほどではないが、病み上がりの体にはちょうどよい香りだった。


「今日は少し食べられそうですか」


 私がそう問うと、真琴様は寝台へ半身を起こしたまま、少しだけ考える顔をした。


「三口くらいなら」


「五口です」


「増えた」


「よくなっておられる証です」


 そこへ、お初が湯殿帰りらしい湯気をまとって入ってきた。


「五口もいらない」


 いきなりの否定だった。


「お初」


「だって、無理させたらまた戻るでしょ」


「だからといって、減らしすぎても」


「三口から始めればいいじゃない」


「五口」


「四口」


 いつの間にか、雑炊の匙の数で言い合っていた。


 真琴様が、そのやり取りを見て笑う。


「二人とも、なんでそんなに真剣なの」


「真剣になります」


 私は即座に答えた。


「また寝込まれては困りますから」


「困るに決まってるでしょ!」


 お初も被せるように言った。

 その勢いに、自分で少し驚いたのか、すぐに言葉の後ろが小さくなる。


「……皆が」


 私はその「皆が」を聞いて、心の中でそっと息を吐いた。


 この妹は、まだ全部は言えぬ。

 だが、もう隠しきれてもいない。

 だから今は、そこへ余計な名をつけず、ただこの“過保護”を家の中へ置いておくしかないのだろう。


 結局、雑炊は四口半になった。


「半って何」


 真琴様が笑う。


「最後が少し多かっただけです」


 私がそう返すと、お初が横で小さく鼻を鳴らした。


「姉上様、そういうところずるい」


「何がです」


「半、で押し切るところ」


 そのやり取りを見ていたお江が、今度は寝所の隅で声を上げた。


「ねえ、今日ならあれ着られるんじゃない?」


「あれ?」


 私が問う前に、お江は奥から何かを引っ張り出してきた。


 熊の着ぐるみだった。


 いや、正しくは着ぐるみではなく、冬用に誂えた毛皮混じりの防寒着である。

 けれどお江が“熊”と呼び始めてから、もう私たちの中では完全に熊であった。


「真琴、これ!」


 お江が両手で持ち上げる。


「着たらあったかいよ!」


「いや、さすがに今は……」


「今こそよ」


 お初が真顔で言った。


「熱が下がったからって、また寒いところ出たら元に戻るんだから。着なさい」


「えっ、お初まで」


「着るの」


 その言い方があまりに本気で、私は思わず笑ってしまった。


 真琴様は私を見た。


「茶々も笑ってるだけじゃなくて、何か言って」


「私も、今日は着られた方がよろしいかと」


「味方がいない」


「病人に味方は要りません」


 私がそう言うと、お江はきゃらきゃら笑い、お初は本気で熊を広げにかかった。


 桃子まで「可愛いです」と余計なことを言う。

 桜子は口元を押さえて耐えているし、梅子は「温度管理の面では理にかなっております」とさらに追い打ちをかけた。


 その光景があまりにも騒がしくて、私は一瞬だけ、ひどく胸が熱くなった。


 地震の夜から、ずっとこの寝所には恐怖と熱と疲れが満ちていた。

 けれど今は違う。


 熊がどうの、四口半がどうのと、くだらぬことで皆が言い合っている。

 それは、ただの騒がしさではない。

 危ういところをようやく越えた者たちの、安堵の形なのだ。


 真琴様は結局、熊を着せられた。


 肩からすっぽり包まれ、襟まで立てられた姿は、病み上がりの殿というより、冬ごもり前の獣にしか見えない。


 お江は大喜びで笑い転げ、お初は「これでよし」と本気の顔をしている。

 私は、笑ってはいけぬと思いながらも、どうしても口元を押さえずにはいられなかった。


「茶々」


 真琴様が半ば呆れた声で言う。


「その笑い方、ひどい」


「……申し訳ございません」


「全然そう思ってないでしょ」


「少しは」


 そう答えると、真琴様もとうとう笑った。

 その笑い声はまだ本調子ではない。

 けれど、ちゃんと笑えている。


 それだけで、私には十分だった。


 夕刻、寝所の外へ出ると、風の中に梅の匂いがごく薄く混じっていた。


 まだ早い。

 けれど、庭のどこかで、いくつかの蕾がもう開き始めているのだろう。


 私はその匂いを吸い込みながら思った。


 このひと月で、何かが確かに変わった。


 城の中の役割。

 女たちの距離。

 私とお初のあいだにあるもの。

 真琴様を支える手の形。


 何もかもが、地震の前と同じには戻らない。

 だが、同じに戻らぬからこそ、この家は次の季節へ進めるのかもしれない。


 床払いは近い。

 まだ完全ではない。

 けれど、寝所に差し込む光の色も、皆の笑い方も、もう“峠のこちら側”のものになっていた。


 私は梅の香りの中で、静かに目を閉じた。


 よかった。

 ほんとうに、よかった。


 その一言を、今になってようやく、心の底で言える気がした。

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