茶々外伝『天正大地震』編・②①⑤話・第六話 看病の座――茶々とお初
看病というものは、ただ枕元へ座っていれば済むものではなかった。
それを私は、真琴様が寝込まれて三日目には、いやというほど思い知らされていた。
熱は下がらない。
薬を飲ませればすぐに汗が出る時もあれば、逆に体の芯だけが燃えるように熱い時もある。
水を飲ませる刻。
粥をすすめる刻。
額の布を替える刻。
部屋の灯りを落とす刻。
どれか一つでもずれれば、眠りは浅くなり、息は荒くなり、見ているこちらの心まで削られていく。
最初の夜を越えた時には、私はもう、“ただ心配している妻”ではいられなかった。
心配しているだけでは、この方は良くならない。
だから私たちは、いつの間にかそれぞれの役を持って、ひとつの陣を敷くように看病を回すようになっていた。
母上様は、全体を見ておられる。
金八薬師の言葉を受け、誰がどこまで持ち場へ入り、誰を下げるべきかを静かに見極めておられた。
桜子は寝所の出入りと水の加減。
梅子は薬と食の工夫。
桃子は湯と布と細々したものの補い。
お江は、気の重くなりすぎる空気へ、妙な明るさを差し込む役。
そして私は――寝所の中心にいて、真琴様の熱と呼吸と、皆の手の動きを見ていた。
お初は、その少し外側にいるようでいて、実のところ、最も深く真琴様の側へ食い込んでいた。
夜番を分けると決めたあの日から、この妹は本当に寝所を離れなくなった。
私が「少しは休みなさい」と言えば、「姉上様こそ」と返し、母上様が「目を閉じよ」と言えば「閉じたら何かあっても気づけない」と言い張る。
その言い分があまりにもお初らしく、私は何度も呆れ、同時に、その頑なさに少し救われてもいた。
誰か一人くらい、あそこまで露骨に“離れたくない”顔をしていてくれる方が、かえってこちらも持ちこたえられる時があるのだ。
その日の昼、真琴様の熱は朝より高かった。
金八薬師が来て脈を見、薬を変え、粥はほんの二口でよいと言い残して去ったあとも、私は不安をうまく飲み込めずにいた。
「茶々殿」
寝所の隅で、金八薬師が小声で言った。
「はい」
「今日は熱がこもりやすい。汗が出てもすぐ冷やすな。だが、水だけは切らすな」
「承知しております」
「それから、今夜あたりが山じゃ」
私は、その言葉に息を止めた。
山。
それを越えれば下がるのか。
それとも、越えられねばもっと沈むのか。
年寄りは、そういう肝心なところを言い切らぬ。
だが言い切らぬからこそ、こちらは勝手に最悪まで考えてしまう。
薬師が去ったあと、私はしばらく真琴様の寝顔を見ていた。
汗で髪が少し額へ張りつき、呼吸は浅い。
何かを夢で追っておられるのか、時折眉が寄る。
この方は、眠っていても戦っているように見える時がある。
長浜で、安土で、倒れた家々のあいだを歩き続けた足が、まだ体の中で止まりきっていないのだろうか。
「姉上様」
お初が、私の横へ膝をついた。
「何です」
「その布、もう冷えてる」
私ははっとして手元を見た。
たしかに、絞ってからだいぶ刻が経っている。
「……ええ」
私は布を替えた。
お初は、その手元をじっと見ていた。
そして、私が新しい布を額へ置くのを待ってから、ぽつりと言う。
「寝てないでしょ」
「お初もです」
「私はいいの」
「よくありません」
私はそう返したが、声に力はなかった。
お初は少しだけ唇を尖らせた。
「姉上様、そういう時だけ弱い」
「何がです」
「自分のことになると、急に雑」
私は返す言葉を失った。
たしかに、その通りかもしれない。
真琴様の熱は見ている。薬の刻も、粥の量も、布の冷えも見ている。
けれど、自分の眠気や、足の重さや、肩の強ばりは、ほとんど数えていなかった。
「……今は、私のことを見ている時ではありません」
「でも、倒れたら意味ないでしょ」
お初のその言葉には、妙に切実な響きがあった。
私は妹の横顔を見た。
お初もまた疲れている。目の下は少し暗く、指先は布を握るたびに力が入りすぎて白くなっていた。
それでも、この子は自分のことを先に言わない。
私へ言う。
その不器用さが、なんともお初らしかった。
「では」
私は少しだけ譲ることにした。
「今夜の前半は私、後半はあなた、と決めたとおりにします。それ以上は居残らないこと」
「……考えとく」
「考えるのではありません」
「姉上様だって守ってないくせに」
私は、思わず小さく笑ってしまった。
こういう時にまで言い返せるのなら、まだお初の気力は尽きていない。
夕刻、梅子が粥を持ってきた。
鶏の出汁を薄く引き、米粒を崩しすぎぬように炊いたものだった。
それを少し冷まして、私は真琴様の体を起こしかけたが、腕の中の重みがいつもより強い。
「私、やる」
お初がすぐに手を出した。
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない。姉上様、手、震えてる」
私はその言葉に、初めて自分の腕の細かな震えに気づいた。
疲れなのか、怖さなのか、もう分からない。
結局、お初が背を支え、私が匙を口元へ運ぶ形になった。
真琴様は意識の底から浮いてくるように、ほんの少しだけ目を開けた。
「……茶々」
「はい」
「……大津は」
それを聞いた時、私は胸がつまった。
この方は、熱に沈みながらも、まだ最初に城を案じる。
「持ちこたえております」
私はできるだけはっきり答えた。
「城下も、炊き出しを回しました。母上様も、お江も、お初もおります」
お初が、その横で少しだけ顔を伏せた。
自分の名が入ったことが嬉しかったのか、照れたのか、その両方かもしれない。
「……そう」
真琴様は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
それから、差し出した粥を二口だけ飲み込んだ。
「もうよろしいです」
私が言う前に、お初が真琴様の肩を支え直した。
その手つきは驚くほどやさしかった。
「寝て」
お初が低く言う。
「今は、ちゃんと寝て」
それは、殿へ向ける言葉でも、義兄へ向ける言葉でもなかった。
ただ、目の前の一人を生かしたい女の声だった。
私は、その声を聞きながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。
痛んだが、それを今ここで名前にする気にはなれなかった。
今はまだ、名前より先に熱を下げる時だ。
夜が深くなるにつれ、寝所の空気は重くなっていった。
灯りは落としてある。
火鉢の火も弱めてある。
それでも、真琴様の熱が部屋の空気まで少し温めているように感じられた。
お江は、最初こそ「私も起きてる」と頑張っていたが、母上様に言われて奥で休ませた。
桜子たちは交代で水と布を入れ替え、梅子は薬の刻を見ている。
桃子は一度、眠気で湯呑を落としかけて、お初に本気で叱られていた。
そして、夜半を過ぎた頃。
真琴様の息が、一度だけ妙に浅くなった。
私はすぐに顔を上げた。
お初も同時に身を乗り出す。
「真琴様」
返事はない。
呼吸はある。
だが、体の熱がさっきまでとは違う上がり方をしていた。
私は布を替えようとして、指先がもつれた。
「姉上様、貸して」
お初が奪うように布を取り、絞り直し、額へ置く。
その手つきに迷いはない。
「茶々殿」
母上様が静かに言われた。
「はい」
「金八をもう一度」
「桜子!」
私はようやく声を張った。
桜子がすぐに走る。
その間にも、お初は真琴様の手を握っていた。
強く握りすぎて、指先が白い。
けれど放せないのだろう。
「……冷たい」
お初が言った。
私は真琴様の手へ触れた。
額は熱いのに、指先だけが少し冷えている。
私はその瞬間、ぞっとした。
「湯を」
私が言うと、お初は首を振った。
「違う。外から温めるだけじゃ間に合わない」
その声は、ひどく真剣だった。
母上様も、何も言わずにお初を見ておられる。
寝所の中の空気が、一瞬で変わった。
お初は、私を見た。
「姉上様」
「何です」
「今は、嫌とか、恥ずかしいとか、そういうのじゃない」
私は息を止めた。
「このままだと、真琴の体が冷える」
その言葉の意味がわからぬほど、私は鈍くなかった。
わかったからこそ、すぐには返せなかった。
お初は唇を噛んだ。
「義妹とか、側室とか、そんな話でもない。ただ、助けるだけ」
私は、母上様の方を見た。
お市は、静かに頷かれた。
「茶々」
その声は、驚くほど穏やかだった。
「今は、治すことが先です」
私は目を閉じた。
胸の中で、いくつもの感情がぶつかっていた。
正室としての誇り。
女としての痛み。
姉としての理解。
そして何より、真琴様を生かしたいというただ一つの願い。
私は目を開けた。
「……わかりました」
声は思ったよりも静かだった。
「桜子たちは外へ。必要なものだけを置いて」
「はい!」
「お初」
「うん」
「終わったら、すぐに知らせなさい」
お初は、それ以上何も言わなかった。
ただ、真琴様のそばへ寄り、震える手で布団を整えた。
私はその場を一度、出た。
襖が閉まる直前、お初の声が小さく聞こえた。
「今は、ほんとにそれだけだから」
誰へ言ったのかは分からない。
真琴様へか、私へか、それとも自分へか。
私は廊下へ出ると、しばらくその場から動けなかった。
胸がひどく苦しかった。
けれど、ここでそれを嘆く資格は、たぶん私にはない。
生かすことが先。
母上様のその一言が、今の私たちのすべてだった。
どれほどの刻が過ぎたのか分からない。
やがて襖が少しだけ開き、お初が顔を見せた。
髪は乱れ、頬も赤い。だが、その目は先ほどより少しだけ落ち着いていた。
「熱、少しだけ下がった」
その一言を聞いた時、私は壁へ手をついて、はじめてほんの少しだけ息を吐けた。
よかった、と思うより先に、膝から力が抜けそうになった。
私はそれを堪え、ただ頷いた。
「……そうですか」
「まだ、油断はできないけど」
「ええ」
お初は、私の顔をしばらく見ていた。
そこに勝ち誇ったものは何一つなかった。
あるのはただ、同じ夜をくぐった者の疲れと、同じ人を助けたいという熱だけだった。
私は、その顔を見て、少しだけ救われた。
「交代します」
そう言って、私は寝所へ戻った。
真琴様はまだ眠っておられた。
けれど呼吸は、先ほどより深い。
私は枕元へ座り、額の布へそっと触れた。
まだ熱い。
だが、ほんの少しだけ山を越えた気配がある。
私は目を閉じて、ひどく小さな声で呟いた。
「……戻ってきてくださいませ」
その願いは、ようやく今、言葉になった。




