表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1370/1382

茶々外伝『天正大地震』編・②①⑤話・第六話 看病の座――茶々とお初

 看病というものは、ただ枕元へ座っていれば済むものではなかった。


 それを私は、真琴様が寝込まれて三日目には、いやというほど思い知らされていた。


 熱は下がらない。

 薬を飲ませればすぐに汗が出る時もあれば、逆に体の芯だけが燃えるように熱い時もある。

 水を飲ませる刻。

 粥をすすめる刻。

 額の布を替える刻。

 部屋の灯りを落とす刻。

 どれか一つでもずれれば、眠りは浅くなり、息は荒くなり、見ているこちらの心まで削られていく。


 最初の夜を越えた時には、私はもう、“ただ心配している妻”ではいられなかった。

 心配しているだけでは、この方は良くならない。

 だから私たちは、いつの間にかそれぞれの役を持って、ひとつの陣を敷くように看病を回すようになっていた。


 母上様は、全体を見ておられる。

 金八薬師の言葉を受け、誰がどこまで持ち場へ入り、誰を下げるべきかを静かに見極めておられた。


 桜子は寝所の出入りと水の加減。

 梅子は薬と食の工夫。

 桃子は湯と布と細々したものの補い。

 お江は、気の重くなりすぎる空気へ、妙な明るさを差し込む役。


 そして私は――寝所の中心にいて、真琴様の熱と呼吸と、皆の手の動きを見ていた。


 お初は、その少し外側にいるようでいて、実のところ、最も深く真琴様の側へ食い込んでいた。


 夜番を分けると決めたあの日から、この妹は本当に寝所を離れなくなった。

 私が「少しは休みなさい」と言えば、「姉上様こそ」と返し、母上様が「目を閉じよ」と言えば「閉じたら何かあっても気づけない」と言い張る。


 その言い分があまりにもお初らしく、私は何度も呆れ、同時に、その頑なさに少し救われてもいた。


 誰か一人くらい、あそこまで露骨に“離れたくない”顔をしていてくれる方が、かえってこちらも持ちこたえられる時があるのだ。


 その日の昼、真琴様の熱は朝より高かった。


 金八薬師が来て脈を見、薬を変え、粥はほんの二口でよいと言い残して去ったあとも、私は不安をうまく飲み込めずにいた。


「茶々殿」


 寝所の隅で、金八薬師が小声で言った。


「はい」


「今日は熱がこもりやすい。汗が出てもすぐ冷やすな。だが、水だけは切らすな」


「承知しております」


「それから、今夜あたりが山じゃ」


 私は、その言葉に息を止めた。


 山。

 それを越えれば下がるのか。

 それとも、越えられねばもっと沈むのか。


 年寄りは、そういう肝心なところを言い切らぬ。

 だが言い切らぬからこそ、こちらは勝手に最悪まで考えてしまう。


 薬師が去ったあと、私はしばらく真琴様の寝顔を見ていた。

 汗で髪が少し額へ張りつき、呼吸は浅い。

 何かを夢で追っておられるのか、時折眉が寄る。


 この方は、眠っていても戦っているように見える時がある。

 長浜で、安土で、倒れた家々のあいだを歩き続けた足が、まだ体の中で止まりきっていないのだろうか。


「姉上様」


 お初が、私の横へ膝をついた。


「何です」


「その布、もう冷えてる」


 私ははっとして手元を見た。

 たしかに、絞ってからだいぶ刻が経っている。


「……ええ」


 私は布を替えた。


 お初は、その手元をじっと見ていた。

 そして、私が新しい布を額へ置くのを待ってから、ぽつりと言う。


「寝てないでしょ」


「お初もです」


「私はいいの」


「よくありません」


 私はそう返したが、声に力はなかった。

 お初は少しだけ唇を尖らせた。


「姉上様、そういう時だけ弱い」


「何がです」


「自分のことになると、急に雑」


 私は返す言葉を失った。


 たしかに、その通りかもしれない。

 真琴様の熱は見ている。薬の刻も、粥の量も、布の冷えも見ている。

 けれど、自分の眠気や、足の重さや、肩の強ばりは、ほとんど数えていなかった。


「……今は、私のことを見ている時ではありません」


「でも、倒れたら意味ないでしょ」


 お初のその言葉には、妙に切実な響きがあった。


 私は妹の横顔を見た。

 お初もまた疲れている。目の下は少し暗く、指先は布を握るたびに力が入りすぎて白くなっていた。


 それでも、この子は自分のことを先に言わない。

 私へ言う。

 その不器用さが、なんともお初らしかった。


「では」


 私は少しだけ譲ることにした。


「今夜の前半は私、後半はあなた、と決めたとおりにします。それ以上は居残らないこと」


「……考えとく」


「考えるのではありません」


「姉上様だって守ってないくせに」


 私は、思わず小さく笑ってしまった。

 こういう時にまで言い返せるのなら、まだお初の気力は尽きていない。


 夕刻、梅子が粥を持ってきた。


 鶏の出汁を薄く引き、米粒を崩しすぎぬように炊いたものだった。

 それを少し冷まして、私は真琴様の体を起こしかけたが、腕の中の重みがいつもより強い。


「私、やる」


 お初がすぐに手を出した。


「大丈夫です」


「大丈夫じゃない。姉上様、手、震えてる」


 私はその言葉に、初めて自分の腕の細かな震えに気づいた。

 疲れなのか、怖さなのか、もう分からない。


 結局、お初が背を支え、私が匙を口元へ運ぶ形になった。

 真琴様は意識の底から浮いてくるように、ほんの少しだけ目を開けた。


「……茶々」


「はい」


「……大津は」


 それを聞いた時、私は胸がつまった。


 この方は、熱に沈みながらも、まだ最初に城を案じる。


「持ちこたえております」


 私はできるだけはっきり答えた。


「城下も、炊き出しを回しました。母上様も、お江も、お初もおります」


 お初が、その横で少しだけ顔を伏せた。

 自分の名が入ったことが嬉しかったのか、照れたのか、その両方かもしれない。


「……そう」


 真琴様は、ほんの少しだけ口元を緩めた。

 それから、差し出した粥を二口だけ飲み込んだ。


「もうよろしいです」


 私が言う前に、お初が真琴様の肩を支え直した。

 その手つきは驚くほどやさしかった。


「寝て」


 お初が低く言う。


「今は、ちゃんと寝て」


 それは、殿へ向ける言葉でも、義兄へ向ける言葉でもなかった。

 ただ、目の前の一人を生かしたい女の声だった。


 私は、その声を聞きながら、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 痛んだが、それを今ここで名前にする気にはなれなかった。


 今はまだ、名前より先に熱を下げる時だ。


 夜が深くなるにつれ、寝所の空気は重くなっていった。


 灯りは落としてある。

 火鉢の火も弱めてある。

 それでも、真琴様の熱が部屋の空気まで少し温めているように感じられた。


 お江は、最初こそ「私も起きてる」と頑張っていたが、母上様に言われて奥で休ませた。

 桜子たちは交代で水と布を入れ替え、梅子は薬の刻を見ている。

 桃子は一度、眠気で湯呑を落としかけて、お初に本気で叱られていた。


 そして、夜半を過ぎた頃。


 真琴様の息が、一度だけ妙に浅くなった。


 私はすぐに顔を上げた。

 お初も同時に身を乗り出す。


「真琴様」


 返事はない。

 呼吸はある。

 だが、体の熱がさっきまでとは違う上がり方をしていた。


 私は布を替えようとして、指先がもつれた。


「姉上様、貸して」


 お初が奪うように布を取り、絞り直し、額へ置く。

 その手つきに迷いはない。


「茶々殿」


 母上様が静かに言われた。


「はい」


「金八をもう一度」


「桜子!」


 私はようやく声を張った。

 桜子がすぐに走る。


 その間にも、お初は真琴様の手を握っていた。

 強く握りすぎて、指先が白い。

 けれど放せないのだろう。


「……冷たい」


 お初が言った。


 私は真琴様の手へ触れた。

 額は熱いのに、指先だけが少し冷えている。


 私はその瞬間、ぞっとした。


「湯を」


 私が言うと、お初は首を振った。


「違う。外から温めるだけじゃ間に合わない」


 その声は、ひどく真剣だった。


 母上様も、何も言わずにお初を見ておられる。

 寝所の中の空気が、一瞬で変わった。


 お初は、私を見た。


「姉上様」


「何です」


「今は、嫌とか、恥ずかしいとか、そういうのじゃない」


 私は息を止めた。


「このままだと、真琴の体が冷える」


 その言葉の意味がわからぬほど、私は鈍くなかった。

 わかったからこそ、すぐには返せなかった。


 お初は唇を噛んだ。


「義妹とか、側室とか、そんな話でもない。ただ、助けるだけ」


 私は、母上様の方を見た。

 お市は、静かに頷かれた。


「茶々」


 その声は、驚くほど穏やかだった。


「今は、治すことが先です」


 私は目を閉じた。


 胸の中で、いくつもの感情がぶつかっていた。

 正室としての誇り。

 女としての痛み。

 姉としての理解。

 そして何より、真琴様を生かしたいというただ一つの願い。


 私は目を開けた。


「……わかりました」


 声は思ったよりも静かだった。


「桜子たちは外へ。必要なものだけを置いて」


「はい!」


「お初」


「うん」


「終わったら、すぐに知らせなさい」


 お初は、それ以上何も言わなかった。

 ただ、真琴様のそばへ寄り、震える手で布団を整えた。


 私はその場を一度、出た。


 襖が閉まる直前、お初の声が小さく聞こえた。


「今は、ほんとにそれだけだから」


 誰へ言ったのかは分からない。

 真琴様へか、私へか、それとも自分へか。


 私は廊下へ出ると、しばらくその場から動けなかった。


 胸がひどく苦しかった。

 けれど、ここでそれを嘆く資格は、たぶん私にはない。


 生かすことが先。

 母上様のその一言が、今の私たちのすべてだった。


 どれほどの刻が過ぎたのか分からない。


 やがて襖が少しだけ開き、お初が顔を見せた。

 髪は乱れ、頬も赤い。だが、その目は先ほどより少しだけ落ち着いていた。


「熱、少しだけ下がった」


 その一言を聞いた時、私は壁へ手をついて、はじめてほんの少しだけ息を吐けた。


 よかった、と思うより先に、膝から力が抜けそうになった。

 私はそれを堪え、ただ頷いた。


「……そうですか」


「まだ、油断はできないけど」


「ええ」


 お初は、私の顔をしばらく見ていた。

 そこに勝ち誇ったものは何一つなかった。

 あるのはただ、同じ夜をくぐった者の疲れと、同じ人を助けたいという熱だけだった。


 私は、その顔を見て、少しだけ救われた。


「交代します」


 そう言って、私は寝所へ戻った。


 真琴様はまだ眠っておられた。

 けれど呼吸は、先ほどより深い。

 私は枕元へ座り、額の布へそっと触れた。


 まだ熱い。

 だが、ほんの少しだけ山を越えた気配がある。


 私は目を閉じて、ひどく小さな声で呟いた。


「……戻ってきてくださいませ」


 その願いは、ようやく今、言葉になった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【書籍版案内】 13巻2026年2月25日発売 i1090839 i928698 i533211 533215 i533212 i533203 i533574 i570008 i610851 i658737 i712963 i621522 本能寺から始める信長との天下統一コミカライズ版☆最新情報☆電撃大王公式サイト i533528 i533539 i534334 i541473 コミカライズ版無料サイトニコニコ漫画
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ