茶々外伝『天正大地震』編・②①④話・第五話 倒れた殿、乱れる女たち
真琴様が大津城へ戻られたのは、地震から幾日も経ったあとの、夕刻のことだった。
その頃の私は、もう「今日一日をどう越すか」だけで動いてはいなかった。
朝になれば炊き出しの数を決め、昼には城下の怪我人と井戸の様子を見て、夕方には蔵の減りと明朝の手当てを考える。
母上様は城の芯として座し、お初は伝令と人の整理に走り、お江は泣く子や疲れた女中のそばへ自然に座る。
そうして皆で、どうにか大津城を“崩れたままにはしない”形へ引き戻し続けていた。
だから、真琴様が帰るという報せを聞いた時、私は自分がまず何を感じたのか、一瞬分からなくなった。
安堵だった。
もちろん、それが一番大きかった。
けれど同時に、恐れもあった。
長浜を見て、安土へ入り、信長公の周辺まで見て回ってきた方だ。
無事でいてくださると信じていたし、そう信じることでしか私は立っていられなかった。
だが、“無事で帰る”と“傷まず帰る”は、同じ意味ではない。
だから私は、門の方から足音が近づいた時も、廊下へ飛び出したい衝動をこらえて、食事の間の前で待った。
「御方様」
桜子が小さく声をかける。
その顔にも、私と同じ緊張が見えた。
「ええ」
私は短く答えた。
手の中で、袖の端を強く握っていた。
やがて、姿が見えた。
真琴様だった。
私は、その一瞬で、胸の内が冷えるのを感じた。
立ってはおられる。
歩いてもおられる。
だが、あまりにも疲れていた。
顔色は悪く、目の下には濃い影が落ち、いつものように軽く笑おうとしているのに、その口元に力が乗っていない。衣は整っていても、その整い方が“自分で整えた”ものではなく、“人に着せられた”疲れ方をしていた。
「……お帰りなさいませ」
私がそう言うと、真琴様はほんの少しだけ笑われた。
「ただいま。大津、持ったね」
「はい」
本当は、もっと別のことを言いたかった。
ご無事で、とか、もう動かないでくださいませ、とか。
けれど、その顔を見た瞬間、言葉は全部どこかへ行ってしまった。
母上様もすぐに出てこられた。
「真琴殿」
「母上様、なんとか」
そこで、真琴様の膝がわずかに折れた。
私は最初、それが段差のせいかと思った。
次の瞬間には違うと分かった。
真琴様の肩から、すうっと力が抜けたのだ。
「真琴様!」
私が駆け寄るのと、お初が反対から飛び込んでくるのと、ほとんど同時だった。
真琴様の体は熱かった。
触れた腕の下で、妙に重く、そして熱を持っていた。
「ちょ、何よこれ、熱い……!」
お初の声が裏返る。
私はその時初めて、自分の指先が震えていることに気づいた。
「桜子!」
「はい!」
「すぐに寝所を! 梅子、桃子、湯は下げて、氷水と布を! 金八薬師を――」
「もう呼ばせております!」
桜子の返事が飛ぶ。
よかった、と思った。私より先にそこまで動いていたのだ。
真琴様は、意識がないわけではなかった。
ただ、目の焦点が少し揺れていた。
「茶々……」
「はい」
「……大丈夫、だから」
何が大丈夫なのか分からない。
そう返したいのを飲み込み、私はただ言った。
「今は何も申されずに」
声が思ったより細かった。
お初は、もう遠慮も何もなく真琴様の片腕を抱えていた。
「動かさないで、って言っても無理よね……!」
半ば怒ったような、泣きそうな声だった。
私はその声を聞きながら、自分が逆に静かになっていくのを感じていた。
怖すぎると、人はかえって静かになるのかもしれない。
寝所へ運び込まれた真琴様は、そのまま熱に沈んだ。
金八薬師が来るまでのあいだ、私は何をしていたのか、今となっては細かく思い出せない。
布を絞った。
衣を緩めさせた。
灯りを少し落とした。
それから、額へ手を当てた。
熱かった。
ひどく熱かった。
「まだ熱い」
私は、それだけ呟いた気がする。
お初が、その言葉に食いつくように顔を上げた。
「当たり前でしょ! こんなの、ずっと無理してたに決まってる!」
「お初」
「だってそうじゃない! 長浜、安土、近江じゅう見て回って、戻ってきたと思ったらこんな……」
言いながら、お初の目にはもう涙が溜まっていた。
普段のこの子なら、泣く前に怒る。
だが今は、怒りと涙が同時に来ている。
母上様が低く言われた。
「お初」
その一声で、お初は唇を噛んだ。
けれど涙は引っ込まない。
「取り乱すなとは申しませぬ」
お市は、真琴様の寝顔を見たまま言われた。
「ですが、泣くだけでは熱は下がりません」
私はその言葉に、はっとした。
そうだ。
今は泣くのではない。治すことを考えねばならぬ。
金八薬師は、ほどなくして駆け込んできた。
真っ先に脈を見て、胸の音を聞き、舌を見せさせ、額へ触れた。
「……過労じゃな」
年老いた声が、しかし少しも揺れずに言う。
「地震の後から休まず動きすぎた。熱が上がり切っておる。今すぐ死ぬような脈ではないが、このままでは本当に潰れる」
私はそこで、ようやく一度だけ深く息を吐いた。
今すぐ死ぬような脈ではない。
その一言だけで、胸の締めつけがほんの少しだけ緩む。
「薬は」
私が問うと、金八薬師は頷いた。
「出す。じゃが、それより休ませねばどうにもならぬ。温めすぎるな、冷やしすぎるな、水を少しずつ、眠らせろ。起こして政をさせるな」
お初がすぐに言った。
「そんなの無理よ、この人」
「だから止めるのじゃ」
金八薬師は、珍しくぴしゃりと言い切った。
「今は殿でも何でもない。ただの熱病人と思え」
その言葉に、私は少しだけ救われた気がした。
そうだ。
今はもう、近江を走る殿ではない。
この寝所の中では、ただの病人として扱ってよいのだ。
「茶々殿」
金八薬師が私を見た。
「はい」
「そなたが静かでいてくれるのはよい。じゃが、静かすぎて中身まで止めるな」
私は一瞬、その意味が分からなかった。
「静かでおれ。だが、諦めるなということじゃ」
私は、その言葉に小さく頭を下げた。
「……はい」
お初は、もう一歩も寝所から動かぬ勢いだった。
お江はさすがに怖くなったのか、母上様のそばへぴたりとついて離れない。
桜子たちは湯と布と薬を絶えず入れ替え、梅子は薬湯と粥の段取りを組み、桃子は物を落とさぬように手を押さえながら走っていた。
そして私は、真琴様の額に当てた布を替え続けた。
熱い。
やはり熱い。
けれど、脈はある。
息もある。
それだけを、何度も自分に言い聞かせる。
夜が深まるにつれて、女たちの疲れと緊張は別の形へ変わっていった。
城が揺れた時は、皆が同じ方向を向いていた。
だが今は違う。
誰がそばにいるか。
誰が布を替えるか。
誰が薬を飲ませるか。
そういう小さなことへ、人の感情が滲み始める。
それを最初にはっきり形にしたのは、お初だった。
「私、今夜ここにいる」
寝所の端で、そう言い切った。
私は、布を絞る手を止めた。
「お初」
「だって、目を離したらまた勝手に起きる」
「起きませぬ」
「わかんないでしょ」
その言い方は、半分は理屈で、半分はまったく理屈ではなかった。
私はお初を見た。
目が赤い。
顔色もよくはない。
それでも、引く気がない顔だった。
「姉上様」
お初は私から目を逸らさなかった。
「今は、義妹とか何とか、そういうのじゃない」
私は息を呑んだ。
「助けるだけ」
その一言に、私は何も返せなかった。
返せなかった、というより、返すべき言葉が見つからなかった。
お初の中にあるものは、もう私にも分かっていた。
だがそれを今ここで名にしてしまえば、たぶん、この寝所の空気そのものが変わる。
だから私は、布をもう一度絞り直し、静かに言った。
「では、夜番を分けます」
お初の目がわずかに揺れた。
私が拒まなかったことに、安堵したのかもしれない。
「前半は私。後半はお初。お江は今夜は休みなさい」
「えっ、私もいる!」
お江がすぐに言ったが、母上様が先に首を振られた。
「お江。今夜は休みなさい。明日の役目があります」
「……うん」
お江は不満そうにしながらも、従った。
お市は私とお初を交互に見た。
何も言われぬ。
だが、その沈黙の中には、すべて見ている母の目があった。
私は、真琴様の寝顔を見下ろした。
疲れきって、熱に沈んでいる。
この人が目を覚ませば、きっとまた「大丈夫だから」と軽く笑うのだろう。
その笑いが今は少し憎らしく、けれどひどく愛おしかった。
私は、額の布を替えながら思った。
地震の夜、私は城を立てた。
けれど今夜は、家そのものが試されているのかもしれない。
誰がこの人のそばに立つのか。
誰が自分の感情を呑み、誰が呑みきれず、それでも皆で一人を生かそうとするのか。
そのすべてを、私は見ている。
逃げずに、見ていなければならない。
だから私は、震える手を止めずに、もう一度だけ布を絞った。
真琴様。
今はまだ、どうか目を開けないでくださいませ。
その代わり、きちんと熱を下げて、生きて、またこの部屋で笑ってくださいませ。
そう願いながら、私は夜の深さの中で、じっと寝所の灯を守っていた。




