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茶々外伝『天正大地震』編・②①③話・第四話 長浜より、安堵と不安

 朝の炊き出しがようやく一巡した頃、私は初めて、自分の袖に米粒と灰がついていることに気づいた。


 大津城下の者たちへ握り飯を配り、濁った井戸を使うなと触れを出し、怪我人のいる家をお初と手分けして見て回った。子を抱えた母親、瓦礫の前で膝をつく老人、倒れた柱の陰から家財を引きずり出す男たち。そうした顔を見続けているうちに、私は自分がいつから息を詰めていたのかも分からなくなっていた。


 城へ戻ると、正門の内もまた城下と同じく、落ち着いているようで落ち着いてはいなかった。


 兵たちは石垣の見回りと門まわりの安全確認に走り、女中たちは割れた器を片づけ、湯殿では使える桶と使えぬ桶が分けられ、桜子たちは二度目の炊き出しの支度に入っている。

 誰もが手を動かしている。

 けれど、その手つきの奥にあるものは皆同じだった。


 ――真琴様は、どうしておられるのか。


 私も同じだった。


 長浜。

 安土。

 近江一円。


 あれほどの揺れだ。

 ただでは済んでいない。

 城下の者たちへは「殿は近江を見に出ておられる」と言い切った。そう言い切るしかなかった。けれど本当のところ、どこまでひどいのか、真琴様がどこにいて、どこまで無事なのか、私は何ひとつ知らなかった。


 知らぬまま、立っていなければならない。


 私はそれが御方様の役目だと頭では分かっていた。

 だが、人の心は、分かることと耐えられることがいつも同じではない。


「姉上様」


 声をかけられ、私ははっと顔を上げた。


 お初だった。

 さっきまで城下で怪我人の数を改め、戻ってすぐに広間の女中たちの振り分けをしていたはずなのに、もうここにいる。髪の乱れもそのまま、額にうっすら汗が残っていた。


「何です」


「少し、座ったら」


「まだ結構です」


「結構じゃない顔してる」


 お初は遠慮なくそう言った。


 私は思わず少しだけ目を細めた。

 今のこの妹の物言いには、以前のような無遠慮さと、今の立場を少し気にする躊躇いとが混ざっている。けれど、こうして私の顔色を見て言う時は、たいてい姉妹だった頃のままの言葉になる。


「お初こそ、休んでおりませんでしょう」


「私は平気」


「そういう顔ではありません」


「姉上様にだけは言われたくない」


 その返しが少しだけお初らしくて、私はようやく息をついた。


 食事の間へ移ると、母上様がすでに座しておられた。

 お市は変わらず静かだった。静かであることが、今はどれほど心強いか知れない。そこへ座っておられるだけで、この城の芯はまだ折れていないのだと皆が思える。


 お江はそのそばで、子ども女中に渡していた布を畳み直していた。顔はまだ強ばっているが、泣いてはいない。


「茶々」


 母上様が私を見た。


「はい」


「水を一口」


 私はそこで、ようやく自分の喉がからからに乾いていることを思い出した。

 桜子がすぐに差し出した水を受け取り、私は少しずつ飲んだ。井戸はまだ濁りが残る。だから昨夜の控えの水は、今や城の命綱だった。


「城下は」


 母上様の問いに、私は答えた。


「家の潰れたところがいくつも。大きな火はまだ出ておりませんが、井戸の濁りが広がっております。握り飯と汁はまず子どもと年寄りへ回しました」


「よろしい」


 お市は短く頷かれた。


「長浜と安土の報せは」


「まだ、断片的なものしか」


 そこまで言ったところで、廊下の向こうから足音が近づいた。

 急ぎの足だ。

 だが、逃げる足ではない。知らせを持ってきた者の足である。


 私はもう、それだけで胸がきつく縮むのを感じた。


「御方様!」


 小姓が、額へ汗をにじませながら食事の間の入り口で膝をついた。


「長浜より、使いが」


 私の掌が、膝の上で無意識に強く握られた。


「通しなさい」


 声は、思っていたより落ち着いて出た。


 入ってきたのは、泥と埃にまみれた兵だった。

 足袋も裾も汚れ、息が上がっている。長浜から一気に走らせたのだろう。


 男はまず母上様へ、次いで私へ深く頭を下げた。


「長浜の報せにございます」


「申せ」


 母上様の声は静かだった。

 その静けさに支えられるように、兵は言葉を整えた。


「長浜城下、被害甚大にございます。家屋の倒壊多数、城下の者らの救援、殿自ら指揮を執っておられます」


 私は息を止めた。


 長浜がひどい。

 そのこと自体には驚かなかった。

 だが、“殿自ら指揮を執っておられる”という一言が、別の形で胸へ刺さった。


 やはり真琴様は、真っ先に中へ入っておられる。

 人のいる方へ。

 崩れた方へ。

 危うい方へ。


「殿はご無事か」


 私が問うと、自分の声が少しだけ硬くなっているのが分かった。


「はっ。ご無事にございます。長浜の救援を整えたのち、安土へ向かわれるとの由」


 私はそこでようやく、肺の奥に止めていた息を少し吐いた。


 無事。


 たったそれだけの言葉で、人はこうも身体が軽くなるものかと思う。

 けれどその軽さは一瞬だけだった。

 次には、安土、という地名がまた別の不安を呼び起こす。


 安土城は、長浜よりは大きい。

 だが、大きいからこそ、被害もまた大きいかもしれぬ。

 信長公は。

 あの巨大な城は。

 そしてその中にいる人々は。


「他には」


 母上様が続けられた。


「安土の方も大きく揺れ、城の半ばまで崩れたと聞こえております。ただ、詳しくはまだ。銀閣寺城は大きな損なく、内府様もいったんそちらへ身を寄せられる見込みとのこと」


 私は、その言葉を頭の中で並べた。


 長浜は被害甚大。

 安土も大きい。

 銀閣寺城は持ちこたえた。


 真琴様は長浜を見て、次に安土へ向かわれる。


 つまり、まだ戻られない。

 戻るどころか、これからさらに危ういところへ入られる。


 お江が、小さな声で言った。


「マコ、だいじょうぶなんだよね」


 誰へ問うたのか分からぬ声だった。

 私も、お初も、母上様も、その問いに即座には答えられなかった。


 代わりにお市が静かに言われた。


「無事でおられるからこそ、まだ働いておられるのでしょう」


 それは慰めというより、事実をそのまま置くような言い方だった。

 私はその事実にすがるしかなかった。


 使いの兵はまだ続けた。


「殿は、御方様へと」


 私は顔を上げた。


「“城内と城下を落ち着かせよ。大津が崩れれば、近江全体の流れが乱れる”と」


 その言葉に、私は背筋を伸ばした。


 やはり、この人はそういうことを言う。

 私を気遣うのではなく、まず私へ役目を渡す。

 それがありがたく、同時に少しだけ腹立たしくもあり、やはり嬉しくもあった。


「承った、と伝えなさい」


 私はそう言った。


「はい!」


「それと、長浜へ水と米の余裕はあるか」


 兵は一瞬迷い、すぐに答えた。


「今すぐ足りぬ、というほどでは。ですが人手が」


「わかりました」


 私は頷いた。


「こちらで整えます。戻り次第、伝えなさい」


 兵が下がると、食事の間には短い沈黙が落ちた。


 安堵。

 不安。

 そのどちらもある。


 真琴様は無事。

 それがどれほどありがたいか。

 けれど、長浜の被害は重く、安土もまたただでは済んでいない。つまり、この先もしばらく、真琴様は戻られぬだろうし、戻られたとしても休まずまた動く。


 私は、それを思うだけで胸の奥がじわりと痛んだ。


「姉上様」


 お初の声だった。


「何です」


「……顔」


 私は眉を寄せた。


「顔がどうしました」


「泣きそう」


 その一言に、私は思わず息を呑んだ。


 私は泣いてなどいない。

 少なくとも、泣くつもりはなかった。

 だが、お初の目にはそう見えたのだろう。


 母上様は何も言わず、ただ私を見ておられる。

 お江も、不安そうにこちらを見ていた。


 私はそこで、どうしても一度、視線を落とした。


 長浜より、無事の報せ。

 それはたしかに安堵だった。

 だが安堵のあとには、必ず次の不安が来る。安土はどうか。内府様はどうか。真琴様は次にどこまで無茶をされるのか。


 人が生きて働いている限り、安堵だけで終わることなどない。

 それを、今夜から私は嫌というほど知り始めていた。


「……泣いてはおりません」


 私はようやくそう答えた。


「でも、泣きそう」


 お江が正直すぎる声で重ねる。

 私は少しだけ笑ってしまった。


「そう見えるだけです」


「姉上様、そういう時はだいたい本当にそうなのよ」


 お初が言った。

 その言い方があまりにもお初らしくて、私は少しだけ肩の力が抜けた。


 母上様が、そこで初めて口を開かれた。


「茶々」


「はい」


「安堵と不安が一緒に来るのは、悪いことではありません」


 私は黙って聞いた。


「それだけ、見えているということです」


 私は、その言葉に静かに頷いた。


 見えている。

 たしかに、そうなのだろう。


 夫が無事であることが見える。

 だが、その夫が次にまた危ういところへ向かうことも見える。

 城下の者が炊き出しに少しだけ顔色を戻したことが見える。

 けれど、まだ家を失った者が多く、水も足りず、夜が来ればまた余震に怯えるであろうことも見える。


 安堵だけではない。

 不安だけでもない。

 その両方を抱えて立つのが、今の私の役目なのだ。


「母上様」


 私は顔を上げた。


「長浜へ人手を回す備えをいたします」


「ええ」


「安土から正式な報せが来る前に、こちらで出せるものの目安も」


「そうなさい」


 お市の答えは短かった。

 だが、その短さに迷いはない。


 私はすぐに桜子と梅子を呼び、兵糧のうち回せるもの、使える人手、女中の中で軽傷の者と重い者の分け直しまで一気に指図した。お初はもう何も言わずに横へ座り、私の言葉を聞きながら、次に何を回すかを先に考えている顔をしていた。


 それが頼もしかった。


 夜になる前、私はほんのわずかな時間だけ、一人になった。


 天守近くの渡りへ出ると、湖の上に夕の色が沈みかけていた。

 昼のあいだ目にしてきた崩れた家々、泣く子、怪我人の手当、長浜からの報せ。それらが一度に胸へ押し寄せてきて、私ははじめて壁へ手をついた。


「真琴様……」


 誰にも聞こえぬ声で、そう呟いた。


 戻ってきてくださいませ。

 無事でいてくださいませ。

 そんな当たり前の願いが、どうしてこんなにも切実なのかと思う。


 大津の御方様として、私は立つ。

 お言いつけどおりに、城も城下も落ち着かせる。

 けれど、夫を案じる女としての心まで、きれいに消せるわけではない。


 私は手を握りしめた。


 長浜より、安堵。

 安土へ向かうと聞いて、不安。

 その二つが同時に胸へある。


 けれど、それでよいのだろう。

 両方を抱えたまま、私は立たねばならない。


 湖の向こうから、冷えた風が吹いた。

 私はそれをひとつ深く吸い込み、ゆっくりと踵を返した。


 まだ夜は長い。

 そして、まだ終わってもいない。


 ならば、泣くのは本当にあとだ。

 今は、安堵と不安の両方を胸に抱えたまま、この大津城の明かりを消さずにおくしかない。

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