茶々外伝『天正大地震』編・②①⓪話・第一話 揺れる城、崩れぬ声
その夜の大津城は、ひどく静かだった。
昼のあいだは人の声や足音で絶えず満ちている城も、夜が更けると別の顔になる。障子の向こうには、月を受けた琵琶湖の鈍い光が広がり、遠くの水音がかえって城の静けさを深くしていた。火鉢のぬくもりはやわらかく、夜具の中はほどよくあたたかい。私は、ようやく少しだけ気を緩めて、浅い眠りへ沈んでいた。
けれど、完全に眠りきれていたわけではなかったのだと思う。
ここ数日、城の内も外も落ち着いているようで、どこか張りつめたものがあった。蔵の出入り、冬支度に追われる女中たちの顔、安土と大津を行き来する真琴様の疲れ――そういうものを見ているうちに、私の胸の奥にも、形のない不安のようなものが澱んでいたのかもしれない。
だから最初の異変にも、私はすぐに目を覚ました。
かた、と、小さな音がした。
目を開く。
暗い天井。夜具の重み。火鉢の赤い気配。隣にいるはずの真琴様のぬくもり。
その次の瞬間、床の下から突き上げるような衝撃が来た。
「っ……!」
私の体は、寝台の上で跳ねた。
火鉢の灰が散る音。障子が大きく震える音。柱のきしみ。
すべてが一度に耳へ飛び込んでくる。
何が起きたのかと考える間もなく、今度は城全体を横からひねるような激しい揺れが襲った。
寝台が滑る。
枕が落ちる。
どこか遠くで、女の悲鳴が上がる。
「茶々!」
真琴様の声だった。
次の瞬間、私は夜具ごと強く抱き込まれていた。真琴様が私の上へ覆いかぶさるようにして、自分の背で落ちてくるかもしれないものを受けようとしている。
「頭を下げて! そのまま動かない!」
揺れの音の中でも、その声だけは不思議なくらいはっきり私の耳へ届いた。
私は言われるまま、腕で頭をかばい、真琴様の胸元へ身を縮めた。
けれど、揺れは少しも収まらない。
床も壁も天井も、全部が別々に動いているようだった。
小棚が傾き、上の器が落ちて砕ける。
花瓶が倒れ、水と花が畳へ散る。
梁が、低い獣のように唸る。
怖かった。
これほどの揺れは知らない。
城が倒れるのではないか。
このまま潰れるのではないか。
そんな恐怖が、一息の間に胸を埋め尽くしていく。
私は思わず、真琴様の着物を強く掴んだ。
真琴様は、まだ私を庇ったまま、低い声で言った。
「まだ来る。弱まったら動く」
その言葉通り、いったん少しだけ弱まったかに思えた揺れが、今度はさらに強く横へ振れた。廊下の向こうで何か大きなものが倒れ、女中たちの悲鳴がまた重なる。
私は息を止めた。
永遠のように長く感じた。
けれど実際には、きっとわずかな時間だったのだろう。やがて揺れは、少しずつ、ほんの少しずつ弱まっていった。
まだ床は細かく震えている。壁もきしんでいる。
けれど、立ち上がれぬほどではない。
真琴様がすぐに身を起こした。
「怪我は?」
「……ありません」
「よし」
その一言と同時に、もうこの人は次のことを考えていた。
倒れた火鉢を踏まぬよう足元を確かめ、襖を開け放つ。廊下の先では、女中たちが青い顔で泣き声を上げ、灯りが不安げに揺れていた。
「桜子! 誰かおるか!」
「は、はい!」
桜子の声が返る。震えているが、ちゃんと返ってくる。
それだけで、まだ城の中は動けるのだとわかった。
「火を見ろ! 火鉢、台所、灯り、全部だ! いらぬ火は消せ!」
「はい!」
「梅子、桃子は女中を大広間へ集めろ! 廊下の棚から離させろ!」
「はい!」
命が飛ぶたびに、城の中の恐怖が少しずつ“動き”へ変わっていくのがわかった。
私も立ち上がった。
膝が少し震えていた。夜具の裾は乱れ、髪もほどけかけている。けれど、そんなことを気にしている暇はなかった。
真琴様が振り向いた。
「茶々」
「はい」
「母上とお江を頼む。奥をまとめてくれ」
その一言で、私ははっとした。
母上様。
お江。
お初。
女中たち。
この揺れの中、皆どこにいるのか。
真琴様はもう、そこまで考えている。
「……はい」
返事をした私の声は、ほんの少しだけ上ずった。
けれど真琴様は何も言わず、ただ強く頷いた。
「大広間へ集めたら、余震が来ても勝手に動かすな。火だけは絶対に見ろ。あと蔵だ。城下へ米を回すことになるかもしれない。鍵を確かめておいてくれ」
私は息を呑んだ。
まだ揺れが収まったばかりだ。
それなのに、この人はもう城下のことまで考えている。
長浜も、安土も、近江一帯がただでは済んでいないのだろう。朝を待たずに、真琴様は出るつもりなのだ。
「真琴様は……」
「近江を見に出る。長浜も安土も、この揺れで無事じゃない」
止めたいと思った。
行かないでください、と言いたかった。
けれど、その言葉がこの人の足を鈍らせるだけだということも、同時にわかってしまった。
だから私は、震えそうになる喉を無理に押さえつけて答えた。
「……心得ております」
真琴様の目が、ほんの一瞬だけやわらいだ。
「頼む」
それだけ言って、この人はもう寝所を出ていった。
迷いのない背中だった。
私はその背を追わず、反対へ向かった。
廊下へ出た瞬間、私は夜の大津城が、もうまるで別の場所になっていることを知った。
灯りはある。
けれど、いつもの落ち着いた灯りではない。炎は不安げに揺れ、障子は外れ、壁土はところどころ畳へ落ちている。女中たちは泣き、叫び、何をすべきかも分からぬまま立ち尽くしていた。
「茶々姉様!」
お初が走ってきた。
髪は乱れ、息も上がっている。けれど、その目だけはちゃんとこちらを見ていた。
「母上様は」
「ご無事。お江は?」
「今から行きます」
私は息を整え、言葉を飛ばした。
「お初、大広間へ女中を集めて。泣いていてもいい、でも勝手に走らせないで」
「わかった!」
「連絡役はあなたです。今夜は遠慮しないで、怒鳴ってでも動かしなさい」
お初は一瞬だけ驚いたように私を見た。
けれど、すぐに強く頷く。
「任せて」
その返事に、私は少しだけ救われた。
奥御殿へ走ると、母上様は御殿の入り口で静かに立っておられた。お江はそのそばで、泣きそうな顔のまま、それでも声は上げずにじっとしている。
「姉上様……」
私はお江の手を掴んだ。
「怪我は?」
「ない……けど、こわい」
「ええ」
私も怖い。
けれど今は、それを口にするわけにはいかなかった。
「怖くてよいのです。でも、走ってはなりません。母上様と一緒に、大広間へ」
お市が静かに私を見た。
「茶々」
「はい」
「立ちなさい」
先ほどと同じ言葉だった。
けれど今度はもっと深く、私の胸へ落ちた。
「泣くのはあとです。今は、城を立てる時です」
私はその言葉で、ようやく自分の目尻が熱くなっていることに気づいた。
けれど本当に泣きはしなかった。
代わりに、深く息を吸い、声を張った。
「皆、大広間へ! 余震が来ます、柱と火から離れて!」
女中たちが一斉にこちらを見る。
怯えた目。
泣き顔。
それでも、私の声を待っている目。
私は、その視線の重さに一瞬だけ足がすくみそうになった。
でも、母上様が背後におられる。お江の手の震えがまだ私の掌にある。お初が廊下の先で女中を押し出している。桜子たちが火の始末に走り回っている。
だから、私はもう一度言った。
「大津城は、まだ立っています」
自分へ言い聞かせるように。
「ですから、落ち着いて動きなさい。怪我人を見て、火を見て、次の揺れに備えます。母上様も、お江も、お初も、皆ここにおります」
その言葉が通った瞬間、城の中の恐怖が、少しだけ秩序へ変わるのがわかった。
人が動き出す。
泣きながらでも、手を動かす。
それなら、まだ大丈夫だ。
「桜子!」
「火、あらかた消しました!」
「炊き出しの支度を。朝には城下へ回すかもしれません」
「はい!」
「お初!」
「女中はここへ集めた! まだ奥に二人いる!」
「連れてきて! でも走らないで!」
声を飛ばすたびに、少しずつ頭が冷えていく。
恐怖が消えたわけではない。
けれど、その恐怖に呑まれずに済むだけの役目が、私には与えられていた。
真琴様はもう城を出る。
ならば私は、この城を守る。
母上様と、お初と、お江と、女たちと一緒に。
揺れる城の中で、崩れぬ声だけを残すために。




