茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・②⓪⑨話・第二十話 新しき年の戸口
年が改まる直前の城には、昼とも夜とも違う、ひどく澄んだ気配がある。
大津城の廊下を渡る空気は冷たく、障子の紙はぴんと張りつめ、火鉢の炭の赤さだけがやけにあたたかく見える。
人の動きはもう多くない。餅は搗き終え、門松も立ち、仏間のしつらえも整い、台所では明朝の膳に使うものだけが静かに待っている。
忙しさが去ったあとの静けさ。
その静けさの中でだけ、城は本当に“家”の顔になるのかもしれぬと、私はこの一年で知った。
その夜、私は一人ではなく、真琴様と並んで天守近くの渡りへ出た。
大津の夜は、安土の夜より暗い。
湖が光を吸うからだろうか。遠くの灯が小さく見え、そのぶん城の内側の灯が近く感じられる。
下を見れば、城下の家々にもまだところどころ明かりが残っていた。年越し前夜の家仕事をしているのだろう。囲炉裏の火、餅の支度、子どもを寝かせる声――そうしたものが見えぬまま、灯だけがここまで届いている。
「静かだね」
真琴様が、袖を合わせながらそう言われた。
「はい」
私は頷いた。
「昼のあいだは、あれほど人の音がしておりましたのに」
「年越し前って、忙しいのが一回ちゃんと終わる感じあるよね」
その言い方があまりにも真琴様らしくて、私は少しだけ笑った。
「ちゃんと終わる、ですか」
「うん。終わらないと、新しいの始められないから」
私はその言葉を聞いて、目を細めた。
たしかにその通りだった。
煤払いも、餅つきも、門松も、榊も、すべては“今年をきちんと納める”ための手だ。年が変わるから何かをするのではなく、年を納めるから、ようやく新しい年が入ってこれる。
風が少し吹いた。
私は袖を押さえ、真琴様の横顔を見た。
今年、この人はどれほどのものを背負っただろう。
安土と大津を行き来し、義父・信長のもとで評定と軍略に追われ、真田幸村の農政を動かし、城下の流れまで見ていた。
それでも戻れば、火鉢の前で少しだけ肩を抜き、湯殿へ向かい、食事の間で笑う。
そうしてこの城の“家の顔”へ戻ってくる。
私は、そういう姿を見守る一年だったのかもしれない。
「茶々」
「はい」
「今年、助かった」
あまりにも何でもない調子でそう言われて、私は一瞬だけ返事を失った。
真琴様は続ける。
「安土にいても、大津にいても、茶々が家の中をちゃんと整えてくれるから、外で変に迷わずに済んだ」
私は静かに息を吸った。
「それは、私の務めにございます」
「うん」
真琴様は、いつものように軽く頷かれた。
「でも、務めって言葉だけだと、なんか足りない」
「何が足りませぬ」
「……感謝?」
その言い方が少し照れくさそうで、私はようやく小さく笑った。
「でしたら、受け取っておきます」
「うん。受け取って」
私は視線を城下へ戻した。
この一年で、黒坂家は大きくなった。
ただ人が増えた、というだけではない。
人の役目が増え、城が増え、見なければならぬものが増えた。
真田幸村の農政で、土の先へ目を向けるようになった。
蔵を見、塩の湿りを見、薪の減りを見、女たちの井戸端の声まで拾うようになった。
母上様は変わらず静かに家の芯を支え、お江は騒がしくも明るくこの城の空気を動かした。
そして、お初――。
私はそこで、心の中だけでその名をゆっくり置いた。
お初のこともまた、この一年の大きな流れのひとつだった。
あの妹は、まだ完全には馴染みきっていない。
沈黙もするし、言い淀みもする。近いのに近くなく見える日もある。
けれど、それでもこの城の中で、自分の立つ場所を探し続けている。
それを見失わずにいること。
急かさず、押し込めず、しかし見ぬふりもしないこと。
それもまた、今年の私にとって大事な学びだった。
「何考えてる?」
真琴様に問われ、私は少しだけ間を置いた。
「家のことです」
「大きいね」
「ええ。大きいです」
私は正直に答えた。
「ですが、今年はようやく、その“家”というものの形が見えてまいりました」
「どんな形?」
私は少しだけ考えた。
「……行き場をなくした者も、騒がしい者も、黙り込む者も、皆が同じ囲炉裏の火を囲める形、でしょうか」
真琴様は、それを聞いて静かに笑われた。
「いいね」
「よいのでしょうか」
「うん。黒坂家っぽい」
その返しに、私は胸の内で少しだけ安堵した。
黒坂家らしい。
それは、まだ若く、まだ危うくもあり、けれど確かに根を張り始めた家という意味なのだろう。
しばらく、二人で黙って城下の灯を見た。
遠くで、年越しの支度をしているのだろう、小さな笑い声のようなものが風に乗って届いた。
城の中でも、どこかで女中たちが最後の火の始末をしている気配がする。
年の終わりというものは、こんなふうに派手ではなく、それでも確かに人の手の上で静かに閉じていくのだ。
「茶々」
「はい」
「来年も、たぶんいろいろあるよ」
その言い方に、私は少しだけ笑った。
「それは、今年でよく知りました」
「うん。だから、また並べ直すの手伝って」
私はその言葉を聞いて、思わず真琴様の方を見た。
「並べ直す、ですか」
「そう。俺、人を拾うし、話を大きくするし、たぶんまた変なの増えるから」
「自覚はおありなのですね」
「少しは」
私は笑いをこらえきれなかった。
「でしたら、来年も私は並べ直します」
「助かる」
その一言だけで、十分だった。
私はあらためて城下を見下ろした。
この灯のひとつひとつの向こうに、暮らしがある。
その暮らしを、今年は少しだけ守れたのだろうか。
正月を迎えるための餅があり、火があり、味噌があり、蔵があり、人の顔に“春を待つ余裕”が残っている。
もしそうなら、黒坂家はただ勢いで大きくなっているのではない。ちゃんと根を持つ家になりつつあるのだ。
私は静かに思った。
新しい年が来れば、また新しい人が入り、新しい話が起こり、新しい揺れが家の中へ入ってくるだろう。
だが私はもう、この城で何を守るべきかを知っている。
湯殿の湯気。
食事の間の囲炉裏。
蔵の米と塩。
母上様の静けさ。
お江の明るさ。
お初の揺れ。
そして、外から戻ってくる真琴様の居場所。
それらを“家”の形へしていくのが、私の役目なのだ。
「そろそろ戻りましょうか」
私がそう言うと、真琴様は頷かれた。
「うん。寒くなってきた」
「今日は熊を着てきておられませんでしたから」
「今の茶々、ちょっとひどい」
「事実です」
その軽いやり取りを交わしながら、私たちは内へ戻った。
年は、まだ改まっていない。
だが戸口の向こうには、もう新しい年の気配が立っている。
私はその気配を胸いっぱいに吸い込み、静かに思った。
次に来る年も、私はこの大津城の真ん中で立つ。
女たちの気配を見て、蔵を見て、火を見て、人の想いを見て、それでも家が家であるように整え続ける。
そうして迎える正月こそが、きっと本当の意味での“新しき年”なのだろう。




