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茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・②⓪⑧話・第十九話 大津城、年越し前夜

年越し前夜の城には、昼の忙しさがすべて終わったあとの、独特の静けさがある。


 何もしていないわけではない。

 むしろ、やるべきことはすべてやり終えたからこそ生まれる静けさだ。


 餅は搗き終わり、神棚へ供える分も、城下へ配る分も、兵へ持たせる分もきちんと分けられた。

 煤払いを終えた梁は、いつもより少し高く見える。

 門松は大手に立ち、榊も新しいものへ替えられた。

 台所では、明日の朝に使う膳の下ごしらえが整い、もう火も少し落ちている。


 人の手がひととおり引いたあとの大津城は、冬の夜気の中で、ようやく深く息をついているように思えた。


 私はその夜、一人で城内を見回ることにした。


 誰かを伴わせてもよかった。

 桜子も、梅子も、桃子もついてくると言っただろう。

 けれど今日は、一人で歩きたかった。

 年が改まる前に、この城の今の姿を、自分の目と足で静かに確かめておきたかったのである。


 最初に向かったのは、湯殿だった。


 大津城の湯殿は、いつの間にか、ただの贅沢な設備ではなくなっていた。

 雄琴の湯を運ばせるなど、最初の頃は母上様も少し呆れ、お初などは「こんなところだけ妙に凝る」と鼻を鳴らしていたものだ。


 だが今は違う。


 寒さの厳しい日には、兵でも女中でも、湯に入ったあとの顔色が違う。

 風邪を引く者が減り、夜の眠りが深くなる。

 真琴様が安土から戻られた時も、まず湯へ通せば、それだけで肩の力がひとつ落ちる。

 母上様も、お江も、お初も、そして私もまた、この湯殿に幾度助けられてきたか知れぬ。


 戸を少しだけ開けると、まだ湯気が薄く残っていた。


 木と湯と、少しの温泉の匂い。

 桶はきれいに伏せられ、床も乾かされている。

 誰かが最後にきちんと拭き上げていったのだろう。


 私はその静まり返った湯殿を見て、思わず少し笑った。


 最初の頃は、ここへ入るたびにお江が騒ぎ、お初が文句を言い、真琴様は湯加減に顔をしかめたり満足したりと忙しかった。

 けれど今は、その騒がしさも含めて、この湯殿はこの城の“暮らし”の一部になっている。


 私は戸を閉め、次へ向かった。


 蔵の前に立つと、夜の冷気がいっそうはっきりと分かった。


 蔵は冬の匂いがする。

 米、塩、味噌、干物、炭。

 人が年を越すためのものが、きちんと沈黙して積まれている匂いだ。


 戸は固く閉じられていたが、私はその前で少し立ち止まった。


 この一年、私は何度ここへ足を運んだだろう。

 最初は、ただ“見なければならぬ”と思って来ていた。

 だが今は違う。


 俵の数だけでなく、その積み方を見る。

 塩の湿り、味噌桶の位置、炭の減り方、藁の傷み方まで自然と目が行く。

 蔵を見れば、その城の冬の顔が少しわかるようになった。


 そして、蔵を見に行くたびに、お初も変わっていった。


 最初は「そんなところまで見るの」と呆れた顔をしていた。

 だが今では、湿った藁にも、塩俵の置き方にも、自分から目を向けるようになった。

 お江は相変わらず“未来のごはん”としか思っていない節があるが、それでよいのだろう。

 誰かが真面目に守り、誰かが明るくそれを食べる。

 家とは、きっとそういうものだ。


 私は蔵の戸へそっと手を当てた。


 冷たい。

 だが、その冷たさの向こうに、確かな備えがある。


 凶作の兆しなし――。

 幸村から届いたあの文を思い出す。

 今年は、村女たちが田の話を家の中で出来るようになった。

 蔵へ入るものの見通しが立つというのは、数字だけでなく、人の気持ちに春を残すことでもあるのだと、私は今年ようやく知った。


 食事の間へ戻ると、囲炉裏の火は落とされずに小さく保たれていた。


 明日の朝、皆が寒さに縮こまりながら集まった時、ここへすぐに手をかざせるようにという配慮だろう。

 灰の中の赤が、闇の中でやわらかく灯っている。


 私はその前へ座った。


 この食事の間ほど、今年の変化をたしかに知っている場所もない。


 真琴様が政の顔で戻ってきて、湯と汁でようやく人の顔へ戻る場所。

 お江が魚の大きさや餅の形で騒ぐ場所。

 お初が尖ったことを言いながらも、いつの間にかちゃんと手を出している場所。

 母上様が静かな一言で場を締める場所。

 そして私が、御方様として、妻として、姉として、何度も自分の立つ位置を確かめてきた場所。


 安土の食事の間にも、違う緊張があった。

 あれは“見られている家”の食事の間だった。

 だが大津は違う。


 ここは、“暮らしている家”の食事の間だ。


 笑い声も、黙り込む時間も、言い淀む気配も、すべてこの囲炉裏の火が知っている。

 お初の沈黙も、お江の明るさも、真琴様の疲れも、母上様の眼差しも。

 この部屋の火は、今年の黒坂家の女たちと男たちの顔を、ひとつ残らず見てきたのだろう。


 私は火鉢ではなく囲炉裏のあるこの部屋が、心から好きだった。


 家の中心というものは、たぶん、こういう場所なのだ。


 仏間へ向かうと、香の匂いがかすかに残っていた。


 新しい榊はまだ青く、白い紙垂も真っ直ぐで、年越し前の清められた気配がある。

 私は一人で手を合わせた。


 今年もまた、いろいろなことがあった。

 安土と大津を行き来し、城の内を整え、女たちの距離を測り、家の形を何度も見直した。

 お初のことも、お江のことも、母上様のことも、そして真琴様のことも、以前とは少し違う目で見るようになった。


 仏間の静けさの中では、不思議と、自分の心の音までよく聞こえる。


 私は今年、何を一番学んだのだろうか。


 蔵の見方か。

 冬支度の順か。

 奥方衆との話し方か。

 それとも、人の感情を急いて形にせず、ただ見ていることの難しさか。


 たぶん、どれもなのだろう。

 どれもが、この大津城で暮らすうちに、少しずつ私の中へ積み上がった。


 私は頭を上げ、仏間の花を見た。


 安土でも、大津でも、花を活ければその場の気配が少し整う。

 けれど今の私は、花だけでなく、人の気配や、暮らしの流れまで、少しは整えられるようになったのかもしれない。

 もしそうなら、それはこの城が私を御方様にしてくれたのだろう。


 最後に、私は大手門の方へ向かった。


 門松はすでに立っていた。

 松の枝ぶりも、添えた竹の切り口もよい。

 夜番の足軽が私に気づき、慌てて膝をつく。


「よい」


 私がそう言うと、男はほっとしたように頭を下げた。

 年の瀬くらい、無用に人を緊張させたくはない。


 門の向こうには、城下の灯が見えていた。


 大津城下は、安土ほど大きくはない。

 けれど湖を抱き、街道を抱き、人の暮らしの気配が素直に立ちのぼる町だ。

 その灯を見下ろしていると、この城がただ高くあるだけでは意味がないことを、自然と感じる。


 あの灯を守ること。

 あの灯の中で、人が年を越し、春を待てること。

 それが出来てこそ、この城は生きている。


 私は門の外気をひと息吸い込み、ふっと笑った。


 安土でもなく、大津でもなく、と以前は思っていた時もあった。

 どちらにも足をかけ、どちらにも完全には落ち着かず、私はただ流れの中にいるだけのような気がしたこともある。


 けれど今は違う。


 今の私にとって、“家の中心”はここなのだ。


 湯殿があり、蔵があり、食事の間があり、仏間があり、門があり、その内側で母上様が静かに座し、お江が騒ぎ、お初が黙り、真琴様が帰ってくる場所。

 それらすべてを抱いているこの大津城こそが、今の私の立つべき家なのだと、ようやくはっきり思えた。


 年越し前夜。

 城は静かで、しかし確かに息づいていた。


 私は門を離れ、ゆっくりと内へ戻った。


 明日になれば、新しい年が来る。

 その新しい年が、どのような流れをこの家へ運ぶのかは、まだ分からない。

 けれど、今夜の私はもう、ただ流されるだけの者ではない。


 この城の中に積み上げた暮らしの手触りを知る者として、

 この家の女たちと男たちの気配を見失わぬ者として、

 私は新しい年を迎えるのだ。


 そう思うと、冷えた夜気の中でも、胸の内には小さく温かなものが残っていた。

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