茶々外伝『天正大地震』編・②①①話・第二話 余震の夜、御方様の采配
真琴様が城を出ていかれたあと、夜の大津城には、妙な静けさが一瞬だけ落ちた。
泣き声も、叫びも、女中たちの足音もたしかにあった。
けれどそれらの底に、もっと大きな、息を潜めたような静けさがあった。
皆が、次の揺れを待っているのだ。
来るかもしれない。
今すぐ、また床が波のようにうねり、壁が裂け、棚が倒れ、今度こそ何かが落ちてくるかもしれぬ。
その“かもしれない”が、城の中の空気をぎりぎりに張らせていた。
私は大広間の中央に立ち、ぐるりと見回した。
集められた女中たちは、顔を青くし、互いに袖を掴み合っている。中にはしゃくり上げている者もいれば、逆に泣くことも出来ず、ただ口を開けたまま呆然としている者もいた。
母上様は、その一段上に静かに座しておられる。
お江は母上様のそばで、私の方を見ていた。目の縁はまだ赤いが、先ほどよりは少しだけ落ち着いている。
お初は、広間の出入口のところで人数を数え、まだ来ぬ者の名を小声で女中へ確認していた。
私はまず、息を整えた。
怖い。
正直に言えば、今すぐどこかへうずくまってしまいたかった。
けれど、私が恐怖を顔へ出せば、この広間の空気は一気に崩れる。それくらいのことは、もう分かっていた。
「桜子」
「はい、御方様」
「火の始末は」
「台所の大きな火は落としました。灯りも最小限へ。ですが、炊き出しのための火種だけは確保いたしました」
「よろしい」
私は頷いた。
城が無事でも、火で焼けては意味がない。
だが、すべての火を消せば、今度はこの夜を越せぬ。
真琴様が“必要な火だけを残せ”と最初に命じた意味が、今はよく分かった。恐怖の中ほど、人は極端へ走りたがる。だが城を守るとは、その極端を止めることでもあるのだ。
「梅子」
「はい」
「大広間の隅へ湯を置きなさい。熱すぎぬものを。泣いて息の上がっている者、怪我をしている者へ少しずつ回すのです」
「承りました」
「桃子」
「は、はいです」
「布と灯りを持って、怪我人をもう一度見なさい。割れた器の欠片で切った者がいるはずです。血が出ていても、騒がずに呼びなさい」
「はいです!」
命を飛ばすと、皆の動きが少しずつ揃っていく。
不思議なものだった。
怖さが消えるわけではない。けれど、人はやることを与えられると、少しだけ立ち直る。
私は次に、お初へ目を向けた。
「お初」
「いるわ」
「まだ来ていない者は」
「奥の納戸番が一人と、下の間の女中が二人。探しにはやったけど、勝手に散らせてない」
「よろしい」
私はお初の声を聞きながら、少しだけ胸の内で安堵した。
この妹は、こういう時に強い。
口より先に顔が強張るくせに、いざ動くとなると無駄がない。今も、私が言うべきことを半ば先回りして整えている。
「見つかった者から、怪我の有無を先に。泣いていても構いませんが、余震で動けなくならぬよう壁際へ寄せすぎないこと」
「わかった」
「それと、女中たちの名を帳面に」
「今?」
「今です。あとで混乱します」
お初は一瞬だけ私を見たが、すぐに頷いた。
「……ほんと、こういう時の姉上様は容赦ないわね」
「容赦して崩れるくらいなら、その方が残酷です」
私がそう返すと、お初は少しだけ口元を引き締めた。
「そうね」
その一言が、妙に深く響いた。
余震は、それからも何度か来た。
最初の大きな揺れほどではない。
だが、床の下から細かく伝わってくるびりびりとした震えは、人の心を十分に乱す。
そのたびに、広間の中の何人かが悲鳴を呑み込み、お江がびくりと肩を震わせ、女中たちの息が乱れる。
「そのまま!」
私は声を張った。
「立たない! 走らない! 頭だけ守って!」
お初も、反対側からすぐに叫ぶ。
「聞こえたでしょ! 今動く方が危ないの!」
揺れが収まるたび、広間の空気は少しだけくたびれた。
それでも、最初のような悲鳴には戻らなかった。母上様が動かずに座し、私とお初が声を張り続けていることが、皆にとって一本の柱になっているのだと分かった。
私は広間を回り、怪我人のところへ膝をついた。
手のひらを切った若い女中。
額を柱へ打ってぼんやりしている下女。
器の欠片を踏んで足裏から血を出している者。
どれも命に関わるほどではない。だが、こういう小さな痛みは、恐怖の中では何倍にも大きく感じられる。
「名前は」
私が問うと、女中は泣きながら名を名乗った。
「痛みますか」
「は、はい……」
「ええ、痛むでしょう」
私は布を押さえながら言った。
「ですが、血は止まります。ここにおりますから、声を上げなくてよろしい」
そう言うと、女中は少しだけ呼吸を整えた。
私はその顔を見て、自分の中の怖さが少し別の形へ変わっていることに気づいた。
私はもう、自分だけが怖いのではない。
この広間にいる者たち全員の怖さを、まとめて見ている。
それが、御方様というものなのかもしれなかった。
やがて、奥から母上様付きの年嵩の女が駆け込んできた。
「御方様」
「何です」
「井戸の水が、少し濁っております」
私はすぐに顔を上げた。
井戸。
そうか、と胸の中で何かが繋がった。
火だけではない。
水もだ。
「汲むな、と伝えなさい。今夜は城内の蓄えを回します」
「はい」
「桜子」
「はい!」
「台所の飲み水はどれだけ残っていますか」
「今夜を越す分は」
「明朝、城下へ回す分も見ねばなりません。今のうちに数を見なさい」
「承りました」
お初が横から口を挟む。
「城下の井戸も、同じかもしれない」
「ええ」
「じゃあ、朝には水も要る」
「はい」
私はその返事をしながら、真琴様の言葉を思い出していた。
領民にひもじい思いだけはさせるな。
ひもじさとは、米だけではない。
水も、火も、夜を越えるための場所も、すべて含まれるのだろう。
「母上様」
私はお市の方へ向き直った。
「朝には、炊き出しだけでなく水も見ねばなりません」
「ええ」
お市は静かに頷かれた。
「蔵は開けましょう」
その一言で、私の中の迷いが消えた。
蔵を開ける。
銭も、米も、水も、今は惜しんでいる時ではない。
けれど無秩序に開けば、それはそれで乱れる。
だからこそ、今この夜のうちに順を決めておかねばならぬ。
私はすぐに梅子へ命じた。
「紙を持ってきなさい。蔵の鍵の控え、今夜の水の残り、炊き出しに回せる米の量、すべて覚え書きにします」
「はい!」
「桃子、門番のところへ。余震が収まるまで門を開け放つな、ただし助けを求める声は聞き漏らすなと伝えて」
「はいです!」
「お初」
「何」
「下の間の男衆にも、朝まで勝手に城下へ走らせないで。今出れば瓦に打たれます」
「わかった」
お初はもう、返事と同時に動いていた。
その時だった。
広間の隅で、小さな泣き声が上がった。
見れば、年若い女中が二人、互いにしがみついて震えている。そのそばで、お江が立ち尽くしていた。最初はただ見ているだけだったが、やがてそろそろと二人の前へ膝をついた。
「ねえ」
お江の声は、いつものような大きさではなかった。
小さいが、やわらかい。
「まだ怖い?」
女中たちは、ただ泣きながら頷いた。
「私も怖いよ」
私は思わず、その言葉に目を向けた。
お江は、泣きそうな顔をしながら、それでも笑おうとしていた。
「でも、姉上様が大丈夫って言ったから、たぶん大丈夫」
その言い方は、理屈ではない。
けれど、今の広間にはそういう言葉の方が効くのかもしれなかった。
「ほら」
お江は自分の袖を差し出した。
「これ掴んでていいよ。ちょっとだけあったかいから」
女中の一人が、おずおずとその袖を掴んだ。
もう一人も、少し遅れて同じようにする。
その光景を見て、私は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。
お江は、政はできぬ。
蔵の数も分からぬ。
けれど、この子にしか出来ぬことがたしかにある。
それが今、この広間では大事だった。
お市もそれをご覧になり、わずかに目を細められた。
夜は長かった。
余震は何度も来たし、報せもそのたびに増えた。
外塀にひび。
石灯籠が一基倒壊。
奥の納戸は棚が崩れ、中へ入れぬ。
井戸水はやはり濁り、湯殿の桶もいくつか割れた。
そのたびに、私は声を出し、帳面へ記し、順をつけた。
お初は走り、お江は泣く者のそばにいて、母上様は広間の芯として動かずにいてくださった。
真夜中を過ぎた頃には、恐怖そのものより疲れが先に来始めた。
女中たちの目は赤く、声は枯れ、私自身も足の裏がじんと重い。
それでも、まだ朝は来ない。
そして真琴様は、もう近江のどこかを走っておられるのだろう。
私はそのことを思うたびに、胸の奥がきりきりと痛んだ。
けれど、その痛みを抱えたまま、私は広間の中央に立ち続けた。
ここで私が崩れれば、この夜は持たない。
だから、私は自分の声だけを守った。
夜明けが近づく頃、障子の向こうがわずかに白み始めた。
真っ黒な闇ではなくなっただけで、人の顔つきが少し変わる。
女中たちも、母上様も、お初も、お江も、皆それに気づいていた。
私は最後に、広間の中を見渡した。
泣き疲れて眠っている者。
肩を寄せ合って座る者。
まだ火傷や怪我の手当を受けている者。
そして、静かに目を閉じて気を保っている母上様。
私は、深く息を吸った。
「朝になったら、炊き出しを始めます」
自分の声が、思っていたよりよく通った。
「水の手当ても、蔵の見回りも、城下への配りも、順をつけて行います。皆、まだ終わってはおりません。ですが、夜は越えました」
広間の中へ、ようやく少しだけ、人の気配らしいものが戻った気がした。
夜は越えた。
それだけでも、今は十分だった。
私は胸の中で、真琴様へ小さく告げた。
――お言いつけどおりに。
――この城は、まだ立っております。




