表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1366/1367

茶々外伝『天正大地震』編・②①①話・第二話 余震の夜、御方様の采配

 真琴様が城を出ていかれたあと、夜の大津城には、妙な静けさが一瞬だけ落ちた。


 泣き声も、叫びも、女中たちの足音もたしかにあった。

 けれどそれらの底に、もっと大きな、息を潜めたような静けさがあった。


 皆が、次の揺れを待っているのだ。


 来るかもしれない。

 今すぐ、また床が波のようにうねり、壁が裂け、棚が倒れ、今度こそ何かが落ちてくるかもしれぬ。

 その“かもしれない”が、城の中の空気をぎりぎりに張らせていた。


 私は大広間の中央に立ち、ぐるりと見回した。


 集められた女中たちは、顔を青くし、互いに袖を掴み合っている。中にはしゃくり上げている者もいれば、逆に泣くことも出来ず、ただ口を開けたまま呆然としている者もいた。

 母上様は、その一段上に静かに座しておられる。

 お江は母上様のそばで、私の方を見ていた。目の縁はまだ赤いが、先ほどよりは少しだけ落ち着いている。

 お初は、広間の出入口のところで人数を数え、まだ来ぬ者の名を小声で女中へ確認していた。


 私はまず、息を整えた。


 怖い。

 正直に言えば、今すぐどこかへうずくまってしまいたかった。

 けれど、私が恐怖を顔へ出せば、この広間の空気は一気に崩れる。それくらいのことは、もう分かっていた。


「桜子」


「はい、御方様」


「火の始末は」


「台所の大きな火は落としました。灯りも最小限へ。ですが、炊き出しのための火種だけは確保いたしました」


「よろしい」


 私は頷いた。


 城が無事でも、火で焼けては意味がない。

 だが、すべての火を消せば、今度はこの夜を越せぬ。

 真琴様が“必要な火だけを残せ”と最初に命じた意味が、今はよく分かった。恐怖の中ほど、人は極端へ走りたがる。だが城を守るとは、その極端を止めることでもあるのだ。


「梅子」


「はい」


「大広間の隅へ湯を置きなさい。熱すぎぬものを。泣いて息の上がっている者、怪我をしている者へ少しずつ回すのです」


「承りました」


「桃子」


「は、はいです」


「布と灯りを持って、怪我人をもう一度見なさい。割れた器の欠片で切った者がいるはずです。血が出ていても、騒がずに呼びなさい」


「はいです!」


 命を飛ばすと、皆の動きが少しずつ揃っていく。

 不思議なものだった。

 怖さが消えるわけではない。けれど、人はやることを与えられると、少しだけ立ち直る。


 私は次に、お初へ目を向けた。


「お初」


「いるわ」


「まだ来ていない者は」


「奥の納戸番が一人と、下の間の女中が二人。探しにはやったけど、勝手に散らせてない」


「よろしい」


 私はお初の声を聞きながら、少しだけ胸の内で安堵した。


 この妹は、こういう時に強い。

 口より先に顔が強張るくせに、いざ動くとなると無駄がない。今も、私が言うべきことを半ば先回りして整えている。


「見つかった者から、怪我の有無を先に。泣いていても構いませんが、余震で動けなくならぬよう壁際へ寄せすぎないこと」


「わかった」


「それと、女中たちの名を帳面に」


「今?」


「今です。あとで混乱します」


 お初は一瞬だけ私を見たが、すぐに頷いた。


「……ほんと、こういう時の姉上様は容赦ないわね」


「容赦して崩れるくらいなら、その方が残酷です」


 私がそう返すと、お初は少しだけ口元を引き締めた。


「そうね」


 その一言が、妙に深く響いた。


 余震は、それからも何度か来た。


 最初の大きな揺れほどではない。

 だが、床の下から細かく伝わってくるびりびりとした震えは、人の心を十分に乱す。

 そのたびに、広間の中の何人かが悲鳴を呑み込み、お江がびくりと肩を震わせ、女中たちの息が乱れる。


「そのまま!」


 私は声を張った。


「立たない! 走らない! 頭だけ守って!」


 お初も、反対側からすぐに叫ぶ。


「聞こえたでしょ! 今動く方が危ないの!」


 揺れが収まるたび、広間の空気は少しだけくたびれた。

 それでも、最初のような悲鳴には戻らなかった。母上様が動かずに座し、私とお初が声を張り続けていることが、皆にとって一本の柱になっているのだと分かった。


 私は広間を回り、怪我人のところへ膝をついた。


 手のひらを切った若い女中。

 額を柱へ打ってぼんやりしている下女。

 器の欠片を踏んで足裏から血を出している者。

 どれも命に関わるほどではない。だが、こういう小さな痛みは、恐怖の中では何倍にも大きく感じられる。


「名前は」


 私が問うと、女中は泣きながら名を名乗った。


「痛みますか」


「は、はい……」


「ええ、痛むでしょう」


 私は布を押さえながら言った。


「ですが、血は止まります。ここにおりますから、声を上げなくてよろしい」


 そう言うと、女中は少しだけ呼吸を整えた。

 私はその顔を見て、自分の中の怖さが少し別の形へ変わっていることに気づいた。


 私はもう、自分だけが怖いのではない。

 この広間にいる者たち全員の怖さを、まとめて見ている。

 それが、御方様というものなのかもしれなかった。


 やがて、奥から母上様付きの年嵩の女が駆け込んできた。


「御方様」


「何です」


「井戸の水が、少し濁っております」


 私はすぐに顔を上げた。


 井戸。

 そうか、と胸の中で何かが繋がった。


 火だけではない。

 水もだ。


「汲むな、と伝えなさい。今夜は城内の蓄えを回します」


「はい」


「桜子」


「はい!」


「台所の飲み水はどれだけ残っていますか」


「今夜を越す分は」


「明朝、城下へ回す分も見ねばなりません。今のうちに数を見なさい」


「承りました」


 お初が横から口を挟む。


「城下の井戸も、同じかもしれない」


「ええ」


「じゃあ、朝には水も要る」


「はい」


 私はその返事をしながら、真琴様の言葉を思い出していた。


 領民にひもじい思いだけはさせるな。


 ひもじさとは、米だけではない。

 水も、火も、夜を越えるための場所も、すべて含まれるのだろう。


「母上様」


 私はお市の方へ向き直った。


「朝には、炊き出しだけでなく水も見ねばなりません」


「ええ」


 お市は静かに頷かれた。


「蔵は開けましょう」


 その一言で、私の中の迷いが消えた。


 蔵を開ける。

 銭も、米も、水も、今は惜しんでいる時ではない。

 けれど無秩序に開けば、それはそれで乱れる。

 だからこそ、今この夜のうちに順を決めておかねばならぬ。


 私はすぐに梅子へ命じた。


「紙を持ってきなさい。蔵の鍵の控え、今夜の水の残り、炊き出しに回せる米の量、すべて覚え書きにします」


「はい!」


「桃子、門番のところへ。余震が収まるまで門を開け放つな、ただし助けを求める声は聞き漏らすなと伝えて」


「はいです!」


「お初」


「何」


「下の間の男衆にも、朝まで勝手に城下へ走らせないで。今出れば瓦に打たれます」


「わかった」


 お初はもう、返事と同時に動いていた。


 その時だった。


 広間の隅で、小さな泣き声が上がった。


 見れば、年若い女中が二人、互いにしがみついて震えている。そのそばで、お江が立ち尽くしていた。最初はただ見ているだけだったが、やがてそろそろと二人の前へ膝をついた。


「ねえ」


 お江の声は、いつものような大きさではなかった。

 小さいが、やわらかい。


「まだ怖い?」


 女中たちは、ただ泣きながら頷いた。


「私も怖いよ」


 私は思わず、その言葉に目を向けた。


 お江は、泣きそうな顔をしながら、それでも笑おうとしていた。


「でも、姉上様が大丈夫って言ったから、たぶん大丈夫」


 その言い方は、理屈ではない。

 けれど、今の広間にはそういう言葉の方が効くのかもしれなかった。


「ほら」


 お江は自分の袖を差し出した。


「これ掴んでていいよ。ちょっとだけあったかいから」


 女中の一人が、おずおずとその袖を掴んだ。

 もう一人も、少し遅れて同じようにする。


 その光景を見て、私は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じた。


 お江は、政はできぬ。

 蔵の数も分からぬ。

 けれど、この子にしか出来ぬことがたしかにある。

 それが今、この広間では大事だった。


 お市もそれをご覧になり、わずかに目を細められた。


 夜は長かった。


 余震は何度も来たし、報せもそのたびに増えた。

 外塀にひび。

 石灯籠が一基倒壊。

 奥の納戸は棚が崩れ、中へ入れぬ。

 井戸水はやはり濁り、湯殿の桶もいくつか割れた。


 そのたびに、私は声を出し、帳面へ記し、順をつけた。

 お初は走り、お江は泣く者のそばにいて、母上様は広間の芯として動かずにいてくださった。


 真夜中を過ぎた頃には、恐怖そのものより疲れが先に来始めた。

 女中たちの目は赤く、声は枯れ、私自身も足の裏がじんと重い。


 それでも、まだ朝は来ない。

 そして真琴様は、もう近江のどこかを走っておられるのだろう。


 私はそのことを思うたびに、胸の奥がきりきりと痛んだ。

 けれど、その痛みを抱えたまま、私は広間の中央に立ち続けた。


 ここで私が崩れれば、この夜は持たない。


 だから、私は自分の声だけを守った。


 夜明けが近づく頃、障子の向こうがわずかに白み始めた。


 真っ黒な闇ではなくなっただけで、人の顔つきが少し変わる。

 女中たちも、母上様も、お初も、お江も、皆それに気づいていた。


 私は最後に、広間の中を見渡した。


 泣き疲れて眠っている者。

 肩を寄せ合って座る者。

 まだ火傷や怪我の手当を受けている者。

 そして、静かに目を閉じて気を保っている母上様。


 私は、深く息を吸った。


「朝になったら、炊き出しを始めます」


 自分の声が、思っていたよりよく通った。


「水の手当ても、蔵の見回りも、城下への配りも、順をつけて行います。皆、まだ終わってはおりません。ですが、夜は越えました」


 広間の中へ、ようやく少しだけ、人の気配らしいものが戻った気がした。


 夜は越えた。


 それだけでも、今は十分だった。


 私は胸の中で、真琴様へ小さく告げた。


 ――お言いつけどおりに。

 ――この城は、まだ立っております。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【書籍版案内】 13巻2026年2月25日発売 i1090839 i928698 i533211 533215 i533212 i533203 i533574 i570008 i610851 i658737 i712963 i621522 本能寺から始める信長との天下統一コミカライズ版☆最新情報☆電撃大王公式サイト i533528 i533539 i534334 i541473 コミカライズ版無料サイトニコニコ漫画
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ