茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・②⓪⑤話・第十六話 年の瀬の餅、年の瀬の空気
年の瀬が近づくと、城の中の音は少しだけ賑やかになる。
戦の城であれば、冬を前に兵の具足や火縄の具合を見直す音が増えるのだろう。
だが、大津城で私の耳に先に届くのは、そういう固い音よりも、女たちの暮らしの音だった。
障子を外して煤を払う音。
湯殿の桶を運ぶ音。
門松に使う松の枝を選ぶ声。
餅米を研ぐ水音。
そして、どこか浮き立ちながらも、年を納めるための忙しなさを含んだ、人の足音。
その朝も、私はまだ空が薄青いうちから起きていた。
廊下へ出ると、冬の匂いのする冷気が頬を撫でた。
空は晴れているが、光は弱い。こういう朝は、火鉢の炭がやけにありがたく感じられる。
「桜子」
私が声をかけると、すぐに奥から返事があった。
「はい、御方様」
「今日は予定どおり、煤払いと餅の支度を進めます。表の間は午前のうちに。仏間は母上様のお手の空いた後に」
「承りました」
「梅子、餅米は」
「昨夜より水へ。もう上げてよろしゅうございます」
「よろしい。蒸しの加減は、今年は少しやわらかめに。お江がまた丸めながら食べるでしょうから」
奥から、お江の声が飛んできた。
「食べないよ!」
間を置いてから、少し小さな声で付け足される。
「……たぶん」
私は思わず笑ってしまった。
年の瀬のこういう空気は嫌いではない。
忙しく、気を抜けばすぐ乱れる。けれど皆が同じ方向を向き、同じ年の終わりへ向かって手を動かしている気配がある。
その時、向かいの廊下からお初が現れた。
いつもより少し厚めの小袖に、髪はきっちりまとめてある。
寒さに強い顔をしているが、指先は少し赤い。そういうところは昔から変わらぬ。
「姉上様、何からやるの」
「今日は動く気ですか」
「失礼ね。いつも動いてるわよ」
「口もよく動いております」
「それは姉上様もでしょ」
私はその返しに少しだけ笑みを見せた。
「では、お初は奥女中たちの取りまとめを。煤払いは高いところへ登る者と、下で受ける者の息が合わねばなりません」
「わかった」
返事が短い。
だが今のお初は、こういう家の実務へ声をかけると、昔よりもずっと素直に動く。立場が変わり、気持ちが揺れ、それでも“この家の中で何をすべきか”から逃げなくなった。それは、茶々の姉として見れば心強くもあり、女としては少しだけ胸に触れるものでもあった。
けれど、今は年の瀬だ。
余計な心の波は、一旦しまっておくに限る。
朝餉を簡単に済ませると、城の中は一気に動き出した。
表の間では、障子が慎重に外され、長柄の箒が天井へ届く。
ぱたぱた、と乾いた音がして、細かな煤が陽の筋の中へ舞う。
下では桃子が布を持って待ち構え、落ちてくる煤を受けながら「はう、真っ黒です」と目を丸くしていた。
「桃子」
私が声をかける。
「はいです」
「驚くのは構いませんが、口を開けて上を向かないこと」
「えっ」
「入ります」
慌てて口を閉じるその顔がおかしくて、近くにいたお江が吹き出した。
「桃子ちゃん、ほんとにやりそう」
「お江様ぁ……」
「笑っている場合ではありません。お江はその布を持ちなさい」
「はーい」
お江も今日は動く気でいるらしく、珍しく文句を言わずに手を出した。
もっとも、布を持ちながら「煤って思ったよりふわふわ飛ぶんだね」とか、「これ全部去年の汚れ?」とか、口の方はまったく静かではなかったが。
お初は、奥女中たちへ指図をしていた。
「そこ、二人で引っ張ると逆にずれるわよ。片方が支えて、もう片方が拭きなさい」
「はい」
「その桶、置きっぱなしだと足を引っかけるでしょ。壁際へ」
きっぱりしていて、少しきつい。
だが、今のこの場にはそのきつさがちょうどよい。年の瀬の仕事は、人の浮ついた気をいったん揃えねば回らないからだ。
私はその様子を見ながら、母上様の御殿へ向かった。
お市は仏間の前で、すでに古いしめ縄や榊を見ておられた。
年が変わる前に、何を外し、何を残し、どの刻に新しいものへ替えるか。その加減は、やはり母上様に伺うのが一番早い。
「母上様、お手すきの折に仏間も整えます」
「ええ。昼の前には済ませたいですね」
母上様は、ふっと庭の方を見た。
「今年は、大津でも少し落ち着いた年越しになりそうです」
「はい」
私は頷いた。
去年までのように、どこか借り物のような心持ちではない。
この城で、どう餅をつき、どこへ門松を立て、どの女中を里へ返すかまで、ちゃんと“自分たちのこと”として考えられる。
それだけで、城はずいぶん家らしくなるのだ。
「茶々」
「はい」
「そなたがよう働いたからですよ」
母上様は何でもない顔でそう仰った。
私は少しだけ視線を伏せた。
「一人ではございません」
「ええ。ですが、一人でなくするのが御方様の務めです」
その言葉は、静かに胸へ残った。
昼近くなると、今度は餅米の香りが城の中へ広がり始めた。
蒸し上がる餅米の匂いには、ふつうの飯とは違う年の瀬の匂いがある。
甘く、白く、少しだけ浮き立つような匂いだ。
中庭の一角へ臼と杵が据えられ、男衆が準備を整える。
だが、年越しの餅というものは、杵を振るう者だけで出来るものではない。蒸しの頃合いを見て、返し手がつきやすい固さを作り、つき上がった餅を誰がどう丸めるかまで、女の手が要る。
私は食事の間の脇からその様子を見ていた。
「最初の蒸し、上げます!」
梅子の声が飛ぶ。
湯気の立つ籠が運ばれ、臼へ白い餅米が落ちる。
最初の杵が入ると、お江が目を輝かせた。
「わあ、始まった!」
「少し下がりなさい」
「わかってる」
言うだけなら立派だが、つい前へ出ようとするのがこの妹である。私は袖を軽く引いて下がらせた。
お初は、杵を振るう男衆よりも、丸める女たちの手元を見ていた。
「姉上様」
「何です」
「今年はずいぶん人数がいるのね」
「ええ。城の守りを最低限にして、里へ返している者もおりますから、残る者には少し手厚く」
「餅を持たせて?」
私は頷いた。
「そうです」
お初は、それを聞いて少し黙った。
やがて、小さく言う。
「……真琴が好きそうなやり方ね」
私はお初の横顔を見た。
その一言の中には、呆れも、理解も、そしてどこか少し柔らかいものも混じっていた。
「ええ。あの方なら、“年の瀬くらい家で餅を食べろ”と申すでしょう」
お初は、ふっと笑った。
「言いそう」
その笑いが、思ったよりも穏やかで、私は少しだけ胸がゆるんだ。
お江はすでに丸める台の近くへ移っていた。
「私もやる!」
「やるのはよいですが」
私は釘を刺した。
「口へ入れるより先に、手を動かしなさい」
「わかってるよ」
そう言いながら、最初の小さな餅をつまみそうになる。
私は無言で見る。
お江は私の目に気づき、渋々手を引っ込めた。
「……あとでね」
その小声に、お初が吹き出した。
「ほんとわかりやすい」
けれど、お江の手つきは思っていたより悪くなかった。
少し歪ではあるが、それもまた年の瀬らしい。女中たちもそれを見て笑い、場の空気がやわらぐ。
私はその光景を見ながら思った。
去年までの私たちは、こうして“来年も同じように餅をつける”と当たり前に思える立場ではなかった。
城も、暮らしも、人の縁も、どこか宙に浮いていた。
だが今は違う。
この城で餅をつき、この城で煤を払い、この城の神棚へ供える。
それを自然に出来るようになったこと自体が、黒坂家という家の根の深まりなのだろう。
餅つきがひと段落した頃、真琴様が安土より戻られた。
大名の殿が餅つきの最中に帰ってくるなど、少し滑稽でもある。だが黒坂家では、そういう滑稽さがいつの間にか日常になっていた。
「うわ、間に合った」
真琴様は庭の臼と、丸められていく餅を見て、少しだけ子どものような顔をした。
「間に合った、ではありません」
私は一歩進み出た。
「戻られるなら、もう少し早く知らせてくださいませ」
「ごめん。評定が思ったより早く切れた」
「そういうことではなく」
言いながらも、戻られたこと自体には少し安堵している自分がいる。年の瀬のこういう時間くらい、夫にも家の匂いの中にいてほしいと思ってしまうのは、きっと私もただの御方様だけではないのだろう。
お江がすぐに餅をひとつ持って走ってくる。
「マコ、見て。私の」
「お、ちゃんと丸い」
「でしょ!」
「ちょっと歪だけど」
「今、褒めたのにすぐ下げた」
お初が横で呆れたように言う。
「あんた、褒められるとすぐ調子乗るからでしょ」
真琴様は、そのやり取りを見ながら笑った。
「いいじゃん。年の瀬なんだから」
その“年の瀬なんだから”という言い方に、私は思わず目を細めた。
そうだ。
年の瀬なのだ。
少しくらい賑やかでも、少しくらい形が歪でも、同じ場所で同じ餅をついていること自体が尊い。
母上様もやがて庭へ出てこられた。
お市が庭へ立たれると、女中たちの背が自然と伸びる。けれど、その口元にはわずかに笑みがあった。
「よい餅になりましたね」
「母上様、御神前へ供える分は別にしております」
「ええ。では、その後に里へ返す者たちにも持たせなさい」
「はい」
お初は、その言葉を聞いて真剣な顔になった。
「帰すの、今日のうち?」
「ええ。明朝は城内が立て込みます」
「じゃあ、私も包むの手伝う」
私はその申し出に、すぐに頷いた。
「頼みます」
お初は、もう何も余計なことは言わなかった。
ただ、きちんと自分のするべきことを見つけた顔だった。
日が傾き、城の中へ年越し前の静けさが少しずつ戻ってきた頃、私は一人で表の間を見回っていた。
煤は払われ、花は新しくなり、餅は供える分と配る分に分けられ、門松の支度も整った。
廊下の空気まで、どこか年の終わりらしく澄んでいる。
お江はさっきから何個餅を丸めたかを真琴様へ自慢し、お初はその横で「私の方がきれいだった」と張り合っている。母上様はその賑やかさを少し離れたところから見ておられた。
私は、その全部を見ながら思った。
この城は、もう“与えられた城”ではない。
黒坂家が、自分たちの手で暮らしを入れ、季節を入れ、家族の気配を入れてきた城なのだ。
去年の年の瀬より、ずっと家らしい。
それはたぶん、蔵や火鉢や餅の数だけではなく、人の心が少しずつこの場所へ根を下ろしてきたからだろう。
お初も、お江も、母上様も、真琴様も。
皆がそれぞれ違う形で、この大津城を“帰る場所”にし始めている。
私は囲炉裏の残り火を見つめながら、小さく息をついた。
年の瀬の餅。
年の瀬の空気。
それは、家が家として年を終えようとしている証なのかもしれない。
そう思うと、この賑やかさも、この忙しさも、少しだけ愛おしく思えた。




