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茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・②⓪⑥話・第十七話 幸村より、凶作の兆しなし

年の瀬が近づくと、人はどうしても“足りるかどうか”を考える。


 餅米は十分か。

 味噌は春先まで持つか。

 塩の入りは細らぬか。

 薪は、炭は、干し魚は。

 そうしたものを数え始めるのは、女たちの方がいつも早い。


 だからこそ私は、その朝、真田幸村からの報せが届いたと聞いた時、胸の奥でまずひとつ息を止めた。


 大津城の表の間は、冬の光で少し白く見えていた。

 外は晴れているのに、陽の力は弱い。火鉢の炭の赤さばかりが妙に目へ入る。私は帳面机の前で、年越しの支度に関わる覚え書きを見返していたのだが、桜子が障子の脇へ膝をついて、


「御方様。真田殿より」


 と差し出した文を見た瞬間、手を止めた。


 私はすぐには開かず、まず桜子へ問うた。


「顔つきは」


「急ぎの凶報というふうではございませんでした」


 その一言で、ようやく少し肩の力が抜けた。


「……そうですか」


 凶作の知らせというものは、文の言葉を読む前に、持ってくる者の足音や顔色で分かることが多い。

 それがないなら、少なくとも今すぐ城中を騒がせる報せではないのだろう。


 私は封を切った。


 幸村の文は、相変わらず飾り気がない。

 どこの村でどれだけの見込みが立ち、どこは少し薄いが均せば足りること、湖東湖西の入りを見ても大きな凶作の兆しはなく、年を越すにあたり過度に慌てる必要はないこと。

 言い回しは硬く、読みようによっては味気もない。

 だが、その硬さの奥に、ひとつ欲しかった言葉がきちんと置かれていた。


 凶作の兆しなし。


 私はそこをもう一度、ゆっくり目でなぞった。


「御方様……」


 桜子が、慎重に声をかけてくる。


「ええ」


 私は文を膝へ置き、静かに頷いた。


「大きな凶作の気配はないそうです」


 その言葉を口にした時、自分でも分かるほど、声が少しやわらいだ。


 桜子の顔も、梅子の顔も、目に見えてほぐれる。

 台所を預かる者、湯殿の備えを見る者、餅の支度をし、正月の膳を考える者にとって、“足りる”という言葉ほどありがたいものはないのだろう。


 お江は、ちょうどそこへ駆け込んできた。


「何? 何が足りるの?」


「お江、走らない」


「だって気になるんだもん」


 私は思わず少し笑ってしまった。


「今年は、年を越せそうだという話です」


「え、それは毎年そうじゃないの?」


 そのあまりにお江らしい問いに、私はすぐには答えず、少しだけ言葉を選んだ。


「そうであるように見えても、見えぬところでは皆、ちゃんと数えております」


「ふーん」


 お江はよく分かっていない顔のまま頷いたが、少なくとも“よい報せ”だということだけは伝わったらしく、すぐに顔が明るくなった。


「じゃあ、お餅いっぱい食べていい?」


「それとこれとは別です」


 横から、お初が入ってきた。


「ほんと、あんたは最初に食べる方へ行くわね」


「お初姉様だって気にしてるじゃん」


「私は、ちゃんと中身を聞いてからよ」


 その言い方に、私はお初へ文を差し出した。


「なら、読みなさい」


 お初は少し驚いたような顔をしたが、すぐに受け取り、目を走らせた。

 読む時のこの子は、実に真面目だ。言葉の端を拾い、書かれていない行間まで読もうとする。


 やがてお初は、文から顔を上げた。


「……ほんとに、大きな崩れはないのね」


「ええ」


「村ごとの薄い厚いはあるけど、均せば越せる、と」


「そのようです」


 お初は、それ以上何も言わず、もう一度だけ文へ目を落とした。

 その横顔には、はっきりと安堵があった。


 この妹は、口では理屈を言うが、顔の方が先に本音を出す時がある。

 私はそれを見て、心の中で静かに頷いた。


 凶作の兆しなし。

 その一言は、城の蔵だけでなく、人の顔色まで明るくするのだ。


 私はすぐに母上様の御殿へ向かった。


 お市は、年の瀬の細かな支度を女中へ申しつけているところであった。

 榊の替え時、仏間のしめ縄、門松に添える竹の具合――どれも新年の前には欠かせぬことだ。

 だが、その一つひとつの根にあるのは、やはり“無事に年を越せるか”という安心である。


「母上様」


「茶々」


 私は一礼し、文を差し出した。


「幸村より。大きな凶作の兆しはないとのことです」


 母上様は、文そのものより先に私の顔を見られた。

 その一瞬で、どれほどの中身かを察したのだろう。


「……そうですか」


 それだけだった。

 だが、その声にははっきりと安堵が混じっていた。


 母上様は文を開き、静かに読み進められる。

 やがて、小さく息をつかれた。


「これで、村々の女たちも少しは落ち着きましょう」


 私は頷いた。


「はい。先日来た女たちも、田の話を家で出来るようになったと申しておりました」


「ええ」


 母上様は、文を膝へ戻し、少し遠くを見るような目をされた。


「女は、年が明ける前に春を数えます。米が足りるか、種が残るか、子らの腹がもつか。ですから凶作の兆しがないというのは、正月の安心だけでなく、春の安心でもあるのです」


 その言葉は、するりと胸へ入った。


 正月の安心だけではない。

 春の安心でもある。


 たしかにその通りだ。

 今、蔵が足りるかどうかだけではなく、年を越した先に“また植えられる”と思えること。それこそが本当の意味での安堵なのだろう。


 夕刻、真琴様が安土より戻られると、私は食事の間へ入る前に、まずその報せをお伝えした。


「幸村より、凶作の兆しなしと」


 真琴様は、外気の残る袖を払う手を止めた。


「そう」


 たった一音に、深い意味があった。


「大きな崩れはなく、均して越せる、と」


「……それならよかった」


 私は、そこでようやく本当に今日の報せが終わった気がした。

 母上様へ伝え、女たちの顔を見て、そして最後に真琴様へ渡して、初めてこの文は家の中へ収まるのだろう。


 真琴様は湯気の立つ茶を受け取りながら、少しだけ笑われた。


「幸村にも、ちゃんと礼を言わないとね」


「はい」


「茶々から見ても、今年は大津の空気、少し変わったでしょ」


 私はその問いに、すぐに頷いた。


「ええ。村から来る女たちの顔が違います」


「顔」


「はい。去年までのように、ただ不安そうなのではなく、“この先をどうするか”を話す顔になっております」


 真琴様は、その言葉を聞いて少しだけ目を細めた。


「うん。それが一番大事」


 私は続けた。


「ですから、幸村へは、私からも礼を。文でも、口伝でも」


「そうだね」


 真琴様は、火鉢へ少し手をかざした。


「幸村は、そういうの表では平気な顔するけど、伝わるとたぶん嬉しいと思うよ」


 その言い方が少し可笑しくて、私はわずかに笑った。


「では、平気な顔を崩さぬ程度に伝えます」


「うん、それがいい」


 お江は横で、まだ半分しか分かっていない顔をしていたが、それでも「じゃあ今年のお餅は安心して食べていいんだね」と言って、すぐにお初に「だからそういう話じゃないでしょ」と叱られていた。


 けれど、そのやり取りすら、今日は少しだけあたたかく聞こえた。


 夜、私は一人で仏間の前へ立った。


 昼に供えた花はまだ崩れておらず、香の匂いも薄く残っている。

 私はそこで静かに手を合わせた。


 凶作の兆しなし。


 たったそれだけの文言で、人はこれほど安堵する。

 蔵の中身だけではない。

 女たちが正月の膳を思い、子らの着替えを思い、春の種籾のことを考えられるようになる。

 そのことの重さを、私は今日しみじみと知った。


 そして同時に、真田幸村という男が、ただ田を見ているのではなく、人の暮らしの先まで支えているのだとも。


 私は明日、真琴様を通して幸村へ礼を伝えるつもりでいた。

 武の功ばかりが人の口にのぼる世で、こういう働きは軽く見られがちだ。

 だが、女たちの顔を変え、年越しの空気を変える政ほど、深く人の命へ入るものはないのかもしれぬ。


 静かな夜だった。

 大津の風は冷たいが、今夜の城の中には、どこかほっとしたぬくもりが残っているように思えた。


 この安堵を、無駄にせずに年を越したい。

 そう胸の内で静かに願いながら、私はそっと仏間を後にした。

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― 新着の感想 ―
茶々の語りという形を取っている以上、自分の母のことを「お市」と呼ぶのは違和感があります。
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