茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・②⓪④話・第十五話 初雪前
その日の朝、大津城の空気は、いつもより一段だけ薄く冷えていた。
湖から渡ってくる風は、ただ冷たいのではない。水の匂いを含みながら、肌の上を撫でるというより、衣の合わせ目を探して入り込んでくるような冷たさである。私は障子を少し開けたところで、それだけで今日の空の機嫌を悟った。
――雪が近い。
まだ降ってはいない。
だが、雪になる前の空気というものは、風の音と、光の色と、鳥の飛び方で分かる。空は高いのに陽が弱く、庭の木々の影が妙に薄い。女たちが運ぶ湯桶の湯気も、今日はいつもより白く見えた。
「桜子」
「はい、御方様」
「火鉢は一つ増やしなさい。食事の間だけでなく、母上様の御殿の控えにも」
「承りました」
「湯殿は早めに。今日は皆、思ったより冷えております」
「はい」
桜子が下がると、私は廊下の先を見た。
朝の支度に動く女たちの足が、自然と少しだけ早い。こういう日は、誰に言われずとも人は温かい方へ急ぐものだ。
食事の間へ入ると、囲炉裏にはもう火が入っていた。梅子が汁の鍋を見ていて、桃子は焼いた小ぶりの魚を盆へ並べている。今日の朝餉は、味噌を少し濃いめに、汁は熱めに、飯は湯気を逃がさぬよう椀へすぐに盛らせた。
そこへ、真琴様が現れた。
毛皮を、着ていた。
以前よりも仕立てを良くした、あの熊の半纏である。肩から背をすっぽり包み、襟元までしっかりと覆っている。朝の光の中で見ると、やはりどう見ても“寒さに備えた人”というより“寒さの中を歩いてきた獣”であった。
「おはようございます」
私が平然と頭を下げると、真琴様は火鉢の前へまっすぐ来て、心からほっとした顔をした。
「おはよう……今日はだめだ。完全に冬の手前のやつだ」
その言い方があまりにも真琴様らしくて、私は少しだけ笑みをこぼした。
「まだ冬ではございません」
「手前が一番つらいんだよ」
そこへお江が入ってきて、真琴様の背中を見た瞬間に吹き出した。
「マコ、朝から熊だ」
「笑うな。今日は必要」
「必要なのはわかるけど、やっぱり熊」
お初も、少し遅れて食事の間へ入ってきたが、真琴様の姿を見るなり眉をひそめた。
「あんた、ほんとにそれ着るのね」
「今日は着る」
「毎回そう言ってる気がする」
「だって寒いから」
その返しに、お初は呆れたように息をついた。
けれど、お初自身も今日はいつもより襟元をきっちり合わせていて、指先が少し赤い。顔に出すのが悔しいだけで、寒いのは同じなのだろう。
母上様もやがて来られた。
お市は寒さを顔へ出さぬ方だが、今日は袖口へ手を入れておられた。そのささやかな仕草だけで、やはり今日はかなり冷えているのだと知れる。
朝餉が始まると、お江は汁をひと口飲んで、あからさまに頬をゆるめた。
「あー、これ好き。今日の味噌汁、あったかい味する」
「味噌汁はいつでも温かいでしょう」
お初がすぐに言い返す。
「そういうことじゃなくて。なんか、雪の前の味」
私はその言葉に少しだけ目を上げた。
「雪の前の味、ですか」
「うん。なんか、絶対体の中まで温めるぞって感じ」
真琴様が火鉢に手をかざしながら言う。
「今日は正しい表現かも」
「でしょ?」
お江は得意げである。
私はその様子を見ながら、ひとまず皆の顔色を確かめた。
母上様は静か。
お江はいつも通り。
お初は口では平気を装うが、寒さに少し機嫌を削られている。
そして真琴様は、明らかに火鉢と汁と湯を必要としておられる。
私は箸を置いて言った。
「今日は城内の冬支度を一段進めます」
「また?」
お江がすぐに聞く。
「“また”ではありません。雪の前は一度で済みません」
「何するの?」
「火鉢の位置を改め、湯殿の湯を多めに回し、夜具を一枚増やします。母上様の御殿は障子の隙も見ましょう」
お江は「いっぱいある」と言ったが、お初は黙って頷いていた。
私はそこへ、お初へ向けるでもなく続ける。
「こういう時は、寒さが来てから動くのでは遅いのです」
「分かってるわよ」
お初は少しだけ尖った声で返した。
だが、その声に以前ほどの刺はない。
最近のお初は、自分の立場にも心にもまだ馴染みきってはいないのに、家の内の務めには逃げずに立とうとしている。そのことが、返ってくる短い言葉の端々から分かるようになっていた。
昼までのあいだ、城の中は思った以上に慌ただしくなった。
火鉢を動かすだけでも、灰をこぼさぬように気を使う。
夜具を増やせば、押し入れの湿りを見ねばならぬ。
湯を多く回すとなれば、薪の減りを今夜のうちに帳面へ移しておかねばならない。
私は桜子と梅子へ細かく指図をしながら、時折、自分でも障子の隙へ手をかざして風の入りを見る。大津城は平城で暮らしやすい。だが湖へ突き出ているぶん、風がある日は本当に容赦がない。
お江は最初こそ「私もやる」と言っていたが、結局は火鉢の近くに置く座布団を選ぶ役に落ち着いた。
それでも本人は真剣で、「この厚いのは母上様」「こっちは姉上様」「真琴はこれでもいいや」と言って、お初に「なんであんたが決めるのよ」と叱られていた。
お初は、その日は妙によく動いた。
母上様の御殿の障子を見て回り、夜具を増やす手伝いをし、湯殿へ運ぶ手拭いを整え、女中が寒さで手を止めていると「そこで止まると余計寒いわよ」と声までかけていた。
私はその様子を少し離れたところから見ていた。
この妹は、やはりこういう時になると“ただの妹”ではなくなる。
顔に出さぬだけで、家の中の寒さや人の動きをよく見ていて、必要な時には案外きちんと手が出る。
夕刻前、私は廊下でお初とすれ違った。
「お初」
「何」
「今日はずいぶん動いておりますね」
「だって寒いもの」
お初はそれだけ言ったが、私は少し笑った。
「寒いから、ですか」
「寒いと皆、余計に機嫌悪くなるじゃない。だったら先に動いた方が早いのよ」
その言い方が、なんともお初らしい。
「なるほど」
「何よ、その返し」
「いえ。あなたらしいと思っただけです」
お初は少しだけ口元をしかめたが、悪くは思っていない顔だった。
日が傾く頃、空の色が朝よりさらに薄くなった。
雲は低くない。
けれど光が弱く、風がすうっと細くなる。
私は廊下へ出て空を見上げた。そうしていると、真琴様が安土城から戻られた。
「ただいま……あ、茶々も見てた?」
「ええ。雪が近い空です」
真琴様は、熊の半纏の襟を少し直しながら頷いた。
「うん。今日の夜、もしかしたら少し来るかも」
お江がその声にすぐ反応した。
「雪!?」
「まだ、もしかしたら」
「積もる?」
「そこまでは分からない」
「でも見たい!」
お江は一気に元気になった。
お初は、そんな妹を見て少し呆れた顔をしたが、自分もまた廊下の先の空を見ていた。
私は真琴様の顔色を見た。
昼よりは戻っている。
だが、城での仕事と寒さで、やはり肩のあたりに疲れが残っていた。
「湯をすぐ用意させます」
「助かる」
その返事を聞いて、私はすぐに梅子へ湯殿の火を強めるよう命じた。
冬が近づくほど、湯と火は家そのものになる。
その夜の夕餉は、皆少しだけ早く集まった。
雪が気になるのだろう。食事の間の戸はしっかり閉めているのに、誰もが外の空の気配を気にしている。
お江は何度も「まだ?」と障子の方を見る。
お初は「まだ降るわけないでしょ」と言いながら、自分も時折耳を澄ませる。
母上様は静かに汁を口へ運び、真琴様は火鉢へ足を寄せながら「今日は早めに寝た方がいいかも」と言われた。
「雪と寝るの、何か関係あるの?」
お江の問いに、真琴様は少し笑った。
「雪の前って、体の方が先に“寒いの来る”って知るから、思ったより疲れるんだよ」
「へえ」
「だから、湯に入って、よく温まって、早く寝る」
私はその言葉に頷いた。
「今夜はそれがよろしいでしょう」
お初が、そこでぽつりと言った。
「……あんた、こういう時だけ妙に言うことがまともよね」
「こういう時“だけ”じゃないよ?」
「どうだか」
その軽いやり取りに、私は少しだけ安堵した。
お初の中にもまだぎこちなさはある。けれど、こういう季節の気配の前では、それが少しだけ薄まる。寒さも雪も、人の心の線引きを少し曖昧にしてくれるのかもしれなかった。
夕餉のあと、私は城内を一回りした。
火鉢の具合。
障子の閉まり。
湯殿の湯気。
夜具の重なり。
どれも朝の指図どおりに整っている。
お江は「雪が降ったら起こして」と勝手なことを言って下がり、お初は「子どもじゃないんだから」と呆れながら、それでも少し楽しみそうな顔をしていた。
私は最後に天守へ続く廊下の端へ立ち、湖の方を見た。
風が、ぴたりとやんだ。
その静けさの中に、冬の戸口のようなものを感じる。
初雪前夜――。
まだ降ってはいない。
だが、空も城も人も、皆どこかでそれを待っている。
大津城へ来てから、私はこの城を“戦の城”としてだけでなく、“人が季節を越していく家”として見るようになった。今日一日、それをまた強く思い知らされた。
火鉢を増やすこと。
湯を多く回すこと。
夜具を一枚足すこと。
それらは小さなことのようでいて、人の顔つきや、翌朝の機嫌や、家の中のぬくもりに確かに繋がっている。
そして、お初も、お江も、母上様も、真琴様も、そのぬくもりの中でそれぞれ違う冬を迎えようとしている。
私は空を見上げた。
白いものは、まだ見えない。
けれど今夜この城へ訪れる寒さを、もう誰も軽くは見ていないだろう。
それでよいのだと、私は思った。
雪は待つものではある。
けれど、待つだけでは越せぬ。
その前に湯を整え、火を守り、誰がどこで寒さに震えるかを見ておくこと。それが、家を預かる者の冬支度なのだ。
私は冷えた廊下でそっと息を吐き、静かな大津城の夜へ耳を澄ませた。
今夜の終わりか、明け方か。
そのうち、きっと最初の白が落ちてくる。
その時この城が、きちんと“迎える準備の出来た家”であるように――
そう願いながら、私は足を返した。




