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茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・②⓪③話・第十四話 真琴の疲れ、茶々の湯

 秋の終わりが近づくと、人の疲れは顔へ出るようになる。


 夏の疲れのように汗で流れていくものではない。

 冬の前の疲れは、骨の奥へ少しずつ沈み、気づけば声の張りや、茶碗を持つ指の置き方にまで滲んでくる。


 私はそれを、このところの真琴様に強く感じていた。


 安土と大津を行き来し、城のこと、軍のこと、真田幸村の農政のこと、さらに義父・織田信長のもとでの評定まで重なれば、いかにあの方といえども疲れが溜まらぬはずがない。

 しかも真琴様は、自分の疲れを大仰には言わぬ。言わぬまま、軽口で隠し、気づけばまた次の書付を開いている。


 だからこそ、こちらが先に見ておかねばならぬのだ。


 その日の夕刻、私は早めに湯殿の支度を見に行った。


 大津城の湯殿は、もはやただの贅沢ではない。

 雄琴の湯を運び、冷えた体を温め、風の強い城で人が病まずに冬へ向かうための、大事な場になっている。


「梅子、湯加減は」


「少し熱めにございます」


「よろしい。今日の真琴様は、きっと体の芯まで冷えておられます」


 私は湯桶の縁へ手をかざし、湯気の立ち方を見た。

 湯の匂いには、ほのかな温泉の名残がある。

 この匂いを嗅ぐと、真琴様が少しだけ気を緩める顔が浮かぶ。


 次に食事の間へ戻り、今夜の膳を改めさせた。


 重たいものは要らぬ。

 だが軽すぎてもいけない。

 疲れた体へ、無理なく入って、きちんと温まるもの。


 きのこの汁を少し濃いめに。

 焼いた魚は脂の強すぎぬものを。

 飯は新しい米を少し混ぜつつ、腹へやさしく落ちるように。

 それから、塩気のある小鉢を一つ。汗ではなく、頭を使って削れた体には、こういうものがよい時もある。


「桃子、膳は急がせず、でも待たせすぎぬこと」


「はいです」


「桜子、戻られたらまず湯か、茶か、顔色で見て決めます」


「承りました」


 お江がそのやり取りを後ろで聞いていて、ふいに言った。


「姉上様、最近ほんとに“奥方”って感じ」


「最近ではありません」


「いや、前よりもっと」


 お江はけろりとしている。


「真琴が帰ってくる前に、湯とごはんと座る場所まで全部考えてるもん」


 その言い方に、私は少しだけ返事を選んだ。


「それが妻の務めです」


「ふーん」


 お江は頷いたあと、あっさりと続ける。


「お初姉様、さっきから黙ってるね」


 私はそこで、ようやく部屋の隅にいるお初へ目を向けた。


 お初は、湯殿へ回す手拭いや着替えの用意を、いつになく静かに畳んでいた。

 手はちゃんと動いている。

 だが、その静かさが、かえって目につく。


「お初」


「何」


「その白布はそちらではありません。湯上がりの着替えは、もう少し火から遠いところへ」


「あ……」


 お初は一瞬だけ手を止め、それから無言で置き直した。


 以前なら、そう言われれば「わかってるわよ」と先に口を尖らせたはずだ。

 今はそうではない。

 言い返す前に一度止まり、飲み込む。

 その一拍が、この頃のお初には増えていた。


 私はそれを見て、ほんの少しだけ胸の奥がざわつくのを覚えた。


 お初は、この家の中で自分の立ち位置を測っている。

 妹としての近さと、今の立場の重さとのあいだで、以前のようには動けずにいる。

 だからこそ、こういう“妻の仕事”が前へ出る場では、あの子は自然と一歩下がる。


 それは当然のことだ。

 当然のことなのだが――。


 私はそこで、自分の考えを止めた。


 今、感じるべきは勝ち負けではない。

 ただ、自分の役目をきちんと果たすこと。

 そう心へ言い聞かせる。


 日が沈んでしばらくしてから、ようやく真琴様が戻られた。


 廊下の向こうから足音が近づくだけで、私は今日の疲れの深さが少し分かった。

 軽い時は、足取りまで軽い。

 重い時は、音がわずかに長く残る。


「ただいま……」


 襖が開き、真琴様がそう言って入ってこられた時、私はすぐに立ち上がった。


「お帰りなさいませ」


 真琴様は笑おうとなさったが、その前に小さく息をつかれた。

 やはり、今日はかなり削れている。


「湯の支度が整っております」


 私がそう申すと、真琴様は少しだけ目を細めた。


「助かる……今日は先に湯、かな」


「ええ。先に体を温めてくださいませ。夕餉はそのあとに」


「うん」


 その返事を聞いた瞬間、私は少しだけ肩の力を抜いた。

 こういう時に無理をして先に書付へ向かわせぬこと。それもまた、御方様の務めだ。


 お初が、少し離れたところから言った。


「真琴、そのまま座ったらまた動けなくなるわよ」


 私はその声に、ほんのわずかだけ横目を向けた。


 言い方は以前に近い。

 けれど、近いからこそ、その中の揺れも見えてしまう。

 真琴様は気づいておられるのかどうか、いつもの調子で笑った。


「うん、わかってる。お初、ありがと」


「別に」


 その“別に”は、もう何度聞いたことだろう。

 それでも、その一つひとつが今は前より少し重い。


 私はすぐに梅子へ目配せし、湯殿へ案内させた。


 真琴様が出ていかれると、食事の間には一瞬、奇妙な静けさが残った。

 お江はその空気を察したのか、珍しく口を挟まず、ただ私とお初の顔を見比べている。


「お江」


 私は穏やかに言った。


「湯上がりの膳を運ぶ前に、火を少しだけ見ておきなさい」


「……うん」


 お江は素直に頷いて下がった。

 こういう時だけ、この子は妙に空気が読める。


 残ったのは私とお初だけになった。


 お初は、まだ手元の布を整えていた。

 それはもう整っている。整いすぎるほど整っている。

 だが、手を止める理由を失いたくないようにも見えた。


「お初」


「何」


「手拭いは十分です」


「そう」


 お初はそれでもすぐには手を離さなかった。

 私は一歩だけ近づく。


「あなたが用意してくれたのですね」


「……たまたま目についたからよ」


「そうですか」


 私はそれ以上、深くは問わなかった。

 問えば、たぶんお初はすぐに引く。

 引かせる必要はない。

 ただ、私が見ていることだけ伝われば、それでよかった。


 お初はようやく布から手を離した。

 その横顔は、少しだけ強張っていた。


「姉上様」


「何です」


「……よく、そこまで気が回るわね」


 その言葉は、刺のあるものではなかった。

 むしろ、驚きと、少しばかりの感心が混じっているように聞こえた。


 私は静かに答える。


「見ているだけです」


「見てる、だけであそこまで出来ないでしょ」


「見ていれば、分かることもあります」


 私は少しだけ間を置いた。


「真琴様は、自分で疲れたと仰る前に、次のことを考えてしまわれます。ですから、その前に湯を用意し、食を整え、少しでも体を楽にしておかねばなりません」


 お初は黙って聞いていた。


 私は続ける。


「それが妻の務めです」


 その一言を口にした時、自分でもそれが少し重く響いたのを感じた。

 妻。

 立場として当然の言葉だ。

 けれど、今のお初の前で口にすると、そこには線を引く意味もどうしても含まれる。


 お初はほんの少しだけ視線を落とした。

 その顔にあるものを、私は見ようとしたが、見すぎぬようにもした。


「……そうね」


 返ってきたのは、それだけだった。


 短い。

 けれど、その短さの中に、この子なりの飲み込み方があるのだろう。


 私は、そこで初めて胸の内に二つの感情が並んでいることをはっきり知った。


 ひとつは、妻としての誇り。

 真琴様の疲れを読み、先に湯を用意し、膳を整え、誰より近くで支えることの、静かな誇り。


 もうひとつは、その姿を少し離れたところから見ているお初への、どうしようもなく複雑な思い。


 勝った、負けた、ではない。

 けれど、境目はたしかにある。

 私はその境目の上に、自分がきちんと立っていなければならないのだと感じていた。


 しばらくして、真琴様が湯から戻られた。


 湯気をまとったその顔は、戻られた時よりたしかにやわらかくなっていた。

 私はそれを見て、今日の段取りは間違っていなかったと知る。


「やっぱり湯って大事だね」


 そう言って真琴様が座につかれる。

 桜子が膳を置き、梅子が汁をよそい、私は飯を少し近くへ寄せた。


「今日は少し塩気を足しております」


「ありがと」


 真琴様はまず汁をひと口飲み、それからほっとしたように息をつかれた。


「生き返る……」


 お江がすぐに笑う。


「さっきまで半分死んでたもんね」


「そこまでじゃない」


「でも熊みたいだった」


「それもまだ言うの」


 その軽口に、部屋の空気がやわらぐ。

 お初はその少し外側で、静かに座っていた。


 私はその様子を見ながら思う。


 お初との境目は、こういう時にはっきりする。

 私は膳を置き、湯加減を見て、真琴様の疲れへ手を伸ばす位置にいる。

 お初は、その少し外側から、その様子を見ている。


 それは残酷なことではない。

 ただ、立場の違いというだけだ。

 けれど人の心は、立場の違いだけで割り切れるほど、いつも素直ではない。


 だからこそ私は、余計に自分の役目を曖昧にしたくはなかった。


 食事が進むにつれ、真琴様の顔色は少しずつ戻っていった。

 私はその変化を見ながら、静かに膳の小鉢を足し、湯呑を替えた。


「茶々」


「はい」


「今日も助かった」


 その一言は、いつも通りの軽さだった。

 けれど私は、その軽さごと胸へしまった。


「お役目にございます」


 そう返すと、真琴様は少し笑われた。


「うん。……でも、ありがとう」


 私はそれに答えず、ただ小さく頭を下げた。

 言葉を重ねれば、かえってこの場の何かが崩れる気がしたからだ。


 夜が更け、皆がそれぞれの部屋へ下がったあと、私は一人で湯殿の前に立った。


 少し前まで真琴様を温めていた湯は、まだ湯気を残している。

 湯桶、布、火鉢、そして食事の間へ運ばれた膳。

 どれも、妻である私の手が最も自然に届く場所だ。


 そのことを、私は誇らしく思っていた。

 同時に、その誇りが、お初の前では境界を示すことになるのだとも、今日はよく分かった。


 けれど、だからこそ曖昧には出来ない。


 私は妻として、真琴様の最も近くに立つ。

 それは譲れぬし、譲るべきでもない。

 そして、お初がその事実に少しずつ馴染んでいくのを待つこともまた、姉である私の役目なのだろう。


 湯殿の扉に手を置きながら、私は静かに思った。


 家を保つとは、ただ優しくすることではない。

 立場の違いをきちんと見せ、それでも壊れぬよう人の心を支えることだ。


 秋は終わりに近づいている。

 やがて冬が来る。

 その冬を越す頃には、お初もこの境目を自分の足で受け止められるようになるだろうか。


 私はそこまで考えて、小さく息を吐いた。


 急いではならない。

 急げば、かえって人は冷える。


 だから今は、湯を絶やさぬように。

 火を絶やさぬように。

 そして、自分の立つ場所を曖昧にせぬように。


 そう胸の内へ言い聞かせながら、私は静かな夜の大津城をゆっくりと歩き出した。

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