茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・②⓪②話・第十三話 蔵を守る、火を守る
収穫の気配が見え始めると、城の中の空気は少しだけ変わる。
秋の初めには、皆まだ“取れるかどうか”を気にしている。
だが、初穂が上がり、村々から順に穂の具合が届き、蔵へ入る見込みが立ってくると、今度は“どう守るか”の話が前へ出る。
米をどう積むか。
味噌桶をどう置くか。
塩へ湿りを寄せぬには、戸をいつ開け、いつ閉めるか。
そして何より、火をどう扱うか。
蔵を満たすだけでは家は保てぬ。
守って初めて、それは財になる。
私はその朝、まだ真琴様が安土城へ上がる前に、食事の間でそのことを口にした。
「今日は蔵と火の見回りを強めます」
そう申すと、真琴様は汁椀を持ったまま頷かれた。
「いいと思う。秋の終わりって、風が乾いてくるから」
「はい。湿りを恐れるばかりでなく、乾きすぎによる火の回りも見ねばなりません」
お江は、まだ少し眠そうな顔で飯を口へ運びながら言う。
「蔵って、火がいちばん怖いの?」
「火と鼠と油断です」
私がそう答えると、お江は少しだけ目を丸くした。
「油断って、置いとくと燃えるの?」
「燃える時もあります」
「こわ」
横でお初が小さく鼻を鳴らした。
「姉上様の言う油断って、そういう意味じゃないでしょ」
「半分はそうです」
私はお初を見た。
「俵を積んだだけで安心する。味噌桶を並べただけで守った気になる。火鉢を置いただけで暖が足りると思う――そういう油断です」
真琴様は茶を一口含み、少しだけ笑われた。
「茶々、最近ほんとに“守る人”の言い方するね」
「守らねば、冬は越せませんから」
「うん。頼もしい」
その一言が軽く胸へ残ったが、私は顔には出さなかった。
お初は、そうしたやり取りの時だけ、ほんの少し視線の置き場に困るような顔をする。
だから私は、真琴様が出立なさるとすぐに、今日の段取りへ皆の意識を向けた。
「桜子」
「はい」
「蔵番の者へ、今日は私がすべて見ると伝えなさい。米、味噌、塩、炭、それぞれ別に」
「承りました」
「梅子」
「はい」
「帳面を二つ持ちなさい。ひとつは中身、ひとつは置き方と湿りの覚えです」
「はい」
「桃子」
「はう、はいです」
「あなたは戸の開け閉めを見るのです。人の出入りが雑になっていないか、よく見なさい」
「はいです」
そして私は、少し間を置いてからお初へ向き直った。
「お初」
「何」
「今日は、あなたも一緒に見なさい」
お初はすぐには返事をしなかった。
その沈黙には、少し前までなら“面倒”が混じっていた。
だが今のそれは違う。
どういう顔で受ければよいか、ほんの一瞬だけ測っている顔だった。
「……わかった」
その答えは短かったが、逃げてはいない。
私はそれだけで十分だと思った。
最初に見たのは米蔵である。
蔵の戸が開くと、ひやりとした空気の中へ、乾いた米の匂いが流れ出た。
前に蔵を見た時よりも、俵の数はたしかに増えている。まだ満ちるというほどではないが、“空を抱いた蔵”ではなくなってきている気配があった。
私は入口で立ち止まり、まず全体を見た。
俵の高さ。
風の通り。
鼠返しの具合。
そして、火気の気配が混じっておらぬか。
「戸を開ける刻限は、いつも同じですか」
私が蔵番へ問うと、男は深く頭を下げた。
「はい。朝の見回りと、昼の出し入れの折に」
「昼は長く開けすぎてはなりません」
「承知しております」
「承知しているかではなく、実際に守られているかを見ます」
少しきつい物言いになったが、秋の終わりの蔵には、それくらいでちょうどよい。
蔵番はさらに深く頭を下げた。
お江はそのやり取りを見て、少しだけ私へ顔を寄せてきた。
「姉上様、ちょっと怖い」
「蔵を守る時は、少し怖いくらいでよいのです」
「ふーん……」
そう言いながらも、お江はいつものように不用意に奥へ走ったりはしない。
この子もこの子で、蔵の空気が普段と違うと分かっているのだろう。
梅子は帳面へ数字を書きつけ、桜子は俵の間の風通しを見ている。
桃子は戸口と足元ばかり気にしていたが、しばらくして「あ」と小さく声を上げた。
「御方様、この敷き藁、少し湿っております」
私はすぐにそちらへ向かった。
たしかに、戸に近い一角の藁が少しだけ重い。
今すぐ腐るほどではない。だが、ここを見過ごすと、やがて俵の下が湿る。
「替えなさい」
「はっ」
「俵を持ち上げる手は足りますか」
「すぐに呼びます」
「急ぎなさい」
私の横で、お初がその藁へ目を落としていた。
「前は見落としてたかも」
ぽつりとそう言う。
私は顔を上げた。
「何をです」
「こういうの」
お初は、指先で湿った藁の端を少しつまんだ。
「俵の数とか、誰が出入りしたとかは気にしても、下の藁の湿りまでは……」
「ええ」
私は頷いた。
「中身は皆見ます。ですが、下の藁や、戸口の隙や、鼠の走る跡まで見る者は少ないのです」
お初は黙って頷いた。
その横顔は、いつもの意地っ張りより少し真面目で、私は心の中で少しだけ安堵した。
この妹は、ちゃんと見ようとすれば見られる。
今はまだ、自分の立場にも心にも揺れがある。だが、家の中を守る目そのものは持っているのだ。
次に味噌蔵と塩蔵を見た。
味噌桶は、ただ並べればよいものではない。
寒すぎても駄目、暖かすぎても駄目、湿りがこもれば蓋が傷む。
私は桶の並びと、蓋の縁の乾き具合をひとつずつ見た。
「梅子、この桶、前より色が深くなっておりますね」
「はい。秋を越えて、ようやく落ち着いてまいりました」
「順を違えずに出せるよう、札をもう一度打ち直しなさい」
「承りました」
お初が、味噌桶の前で小さく言った。
「味噌って、なんか家の匂いがする」
私はその言葉に、少しだけ笑った。
「ええ。切れれば、すぐに家の空気が変わります」
「そんなに?」
「汁が変われば、朝の顔つきが変わります」
お江が横から元気よく言う。
「それはわかる!」
「あなたは分かりすぎです」
塩蔵では、塩俵の積み方と湿りを改めた。
塩は目に見えて減るよりも、じわりと湿る方が厄介だ。
表面だけならまだしも、底へ湿りが入れば、冬の干物も台無しになる。
私はしゃがみ込み、俵の底へ手を差し入れて確認した。
冷たい。だが湿ってはいない。
「今のところはよろしい」
そう言うと、蔵番の顔がわずかに緩んだ。
私はすぐに釘を刺す。
「ですが、“今のところ”です」
「はっ」
「冬が深まれば、戸を開けるたびに風が変わります。そこで緩めば、一月も持ちません」
その物言いに、お江が小声で呟いた。
「やっぱり姉上様、ちょっと怖い」
私は聞こえぬふりをした。
最後に炭蔵と火の回りを見た時には、もう日がだいぶ傾いていた。
炭蔵は、蔵そのものより、そこから先へどう回すかが大事である。
火鉢へいく分。
台所へいく分。
湯殿へいく分。
病人が出た時に余計に要る分。
ただ積んであるだけでは意味がない。
冬の火は、人の生きる速さと同じ速さで減っていくからだ。
「ここは、表向きには静かな場所です」
私がそう言うと、蔵番たちが顔を上げた。
「ですが、この静かさの中に、一番大きな油断が潜みます」
お初が、少しだけ私を見た。
私は続ける。
「火鉢に炭を足す時、“このくらいでよいだろう”と思う。湯殿の釜へ薪をくべる時、“少し開けたままでよいだろう”と思う。人の暮らしは、その“よいだろう”で崩れます」
その言葉を口にしながら、私は自分でも気づいていた。
これは蔵や火の話だけではない。
家の中の人の心もまた、“このくらいでよいだろう”と曖昧に扱えば、いずれどこかが焦げる。
お初はそのことに気づいたかどうか分からない。
だが、私の横顔を見るその目に、少しだけ別の色が混じっていた。
「姉上様」
蔵を出たあと、お初がふいに言った。
「何です」
「……こういうの、私も覚えた方がいいのね」
私は足を止めた。
風が少し強くなり、炭の匂いが微かに流れていく。
「覚える気があるなら、覚えなさい」
私はそう答えた。
「城の内は、知っておいて損はありません」
「損は、って」
お初は少しだけ眉を寄せたが、それでも続けた。
「私、前はこういうの、姉上様の仕事だと思ってた」
「今は?」
「……家の仕事なんだと思った」
私は、その答えに静かに息をついた。
家の仕事。
そうだ。
正室の仕事でもあり、御方様の仕事でもある。だが同時に、家にいる者皆が、どこかで預かるべき仕事なのだろう。
「ええ」
私は頷いた。
「そうです」
お初はそれ以上何も言わなかった。
けれどその沈黙は、前のような戸惑いばかりの沈黙ではなかった。
少しずつ、家の内側へ自分の足を置き始めた者の沈黙だった。
夜、真琴様が安土城から戻られると、私は今日の見回りのことを手短にお伝えした。
「湿った藁が一か所、塩は今のところ乱れなし、炭の回しは少し改めさせました」
「いいね」
真琴様は茶を一口含み、素直にそう言われた。
「お初も一緒に見てたの?」
「はい」
「そっか」
その一言は、それ以上深くは続かなかった。
けれど私は、その“そっか”の軽さに少しだけ救われた。
今はまだ、それでよいのだろう。
囲炉裏の火が、小さく鳴った。
私はその火を見つめながら、今日一日のことを思い返した。
蔵を守ること。
火を守ること。
それは、ただ物を守ることではない。
この城で冬を越す人々の暮らしを守ることであり、ひいては家そのものを守ることなのだ。
そして今日、お初もまた、その“守る側”へ少し足を踏み入れた。
まだぎこちない。
まだ完全には馴染まぬ。
だが、だからこそ見守りが要る。
私は火の明かりの中で静かに思った。
秋が終われば冬が来る。
冬を越えねば春はない。
そのあいだに、蔵も、人の心も、火も、きちんと守っていかねばならぬ。
それが今の私の役目であり、きっと、この家の女たちに少しずつ分かち合っていくべき役目なのだろう。




