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茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・②⓪①話・第十二話 不在ではない妹

人の気配というものは、近くにあれば近いほど、かえって見えにくくなることがある。


 それを、私はこの頃よく思うようになっていた。


 お初は今、大津城にいる。

 文の向こうではない。

 障子一枚隔てた廊下の先にいて、湯殿の帰りに髪を拭きながら歩き、食事の間で箸を取り、母上様の御殿へ顔を出し、時に私の机の前へ来て帳面を覗く。


 すぐそこにいる。

 それなのに、私は以前よりも、お初という存在の輪郭を強く意識していた。


 遠い時には、ただ“離れている妹”だった。

 だが近くに戻ってきた今は違う。


 何を言うかより先に、何を言わずにいるかが見える。

 どこへ立つかより先に、どこへ立たぬようにしているかが見える。

 そして何より、視線の置きどころが見える。


 その日の午後、私は表の間の脇にある小机で、蔵から上がってきた帳面と、城下の出入り商人の覚え書きを照らし合わせていた。

 秋も終わりに近づき、味噌と塩の減り、干し魚の回し方、年の瀬の備えまで見ねばならぬ時期である。

 こういう時の帳面は、数字を読むというより、冬の顔つきを先に想像する作業に近い。


 桜子が墨を足し、梅子が書き直すべき箇所へ付箋代わりの細紙を置いていく。

 桃子は、外から届いた反物を奥へ回し終えて、やっと一息ついたようだった。


 そこへ、お初がやって来た。


「姉上様」


「何です」


「母上様が、あとで少し来てって」


「仏間ですか」


「ううん、御殿の方」


 それだけ言えば済むのに、お初はすぐには立ち去らなかった。

 机の端へ目をやり、私の手元の帳面へ視線を落とし、それからまた私を見る。


「何かありますか」


 私がそう問うと、お初は少しだけ眉を寄せた。


「別に。ただ……」


「ただ?」


「よく飽きないわね、そういうの」


 私は思わず少しだけ笑ってしまった。


「帳面にですか」


「ええ」


「飽きる、飽きぬの話ではございません。見ねば冬に困ります」


「姉上様は、そういう返しをすぐする」


「どう返せと申すのです」


「もっとこう……“ほんとは嫌よ”とか、“面倒よ”とか、そういうのないの?」


 私は筆を置いた。


「あります」


 お初は少しだけ目を丸くした。


「あるの?」


「ございます。ですが、嫌でも面倒でも、見ねばならぬものはございます」


「ふうん」


 お初はそこで小さく鼻を鳴らし、それでも帰っていかなかった。

 私はその“帰らぬ”気配を感じていた。


 何か言いたいのか。

 何かを確かめたいのか。

 それとも、ただここへ立っていたいだけなのか。


 私は急かさず、帳面を閉じた。


「あとで母上様のところへ参ります」


「そう」


 返事は短い。

 だが、その“そう”の中に、どこか安堵のようなものが混じった気がした。


 お初はようやく背を向けた。

 その去り際、廊下の向こうから真琴様の声がした。


「お初、ちょっと待って」


 私は顔を上げた。


 真琴様は、安土城へ戻る前に一度だけ屋敷へ寄られたところらしい。

 衣の裾には外気の匂いが残り、片手に書付を持っておられる。


 お初は、その声にぴたりと止まった。

 ぴたり、と止まりすぎるほどに止まった。


「何よ」


 振り返る声は、いつも通りを装っていた。

 だが、装っている時点で、もう“いつも通り”ではない。


 真琴様は、そのことに気づいているのかいないのか、軽い調子で言った。


「昨日、幸村から上がってきた村の名、母上様も見たいって言ってたから、あとで控えの間に置いといてもらえる?」


「……それくらい自分で置けばいいじゃない」


「これから城戻るから」


「ふん」


 お初は不満そうに鼻を鳴らしたが、書付は受け取った。

 そして、その時ほんの一瞬だけ、真琴様の指先とお初の指先が触れた。


 それだけのことだ。

 それだけのことなのに、私は無意識に息を止めていた。


 お初はすぐに書付を引き、真琴様も何事もなかったように「助かる」と笑った。

 おそらく、この方に深い意味はない。

 ないのだろう。


 だが、お初の方は違った。


 書付を持ったまま立ち尽くす、その一瞬。

 目を伏せる、その短い間。

 私はそれを、見なかったことには出来なかった。


 お初はすぐに歩き出した。

 歩き出しながら、途中で一度だけこちらを見た。


 ほんの一瞬だったが、その視線には、気まずさとも、戸惑いとも、少し違うものがあった。

 自分でも持て余しているものを、姉が見ているのではないかと気にしている目である。


 私は何も言わなかった。

 ただ、帳面の上に置いた手をそっと握り直した。


 そのあと、母上様の御殿へ向かう廊下で、お江に捕まった。


「姉上様」


「何です」


「今の、見た?」


 私は足を止めた。


「何をです」


「いまの」


 お江は、妙に真面目な顔をしていた。

 子どものくせに、こういう時だけ空気の湿りをそのまま掴む。


「お初姉様、なんか変」


「前から申しているでしょう。軽々しくそのようなことを」


「軽々しくじゃないもん」


 お江は頬をふくらませたが、声は低い。


「近いのに、近くない感じする」


 私は、その言葉に少しだけ目を見開いた。


 近いのに、近くない。


 たしかに、そうだ。

 お初は今、大津城にいる。

 不在ではない。

 だが、以前よりずっと“どう近づくべきか”を分からずにいる。

 だから、同じ座敷にいても、以前より近く感じぬ時がある。


「お江」


「なに」


「それは、今すぐどうこう出来ることではありません」


「うん。でも、なんか苦しそう」


 私は返事をしなかった。


 苦しい。

 その言葉は、お初にも、そしておそらく私にも当てはまるのだろう。


 お江は、そこまで言うと急にいつもの顔に戻った。


「私、余計なこと言ってる?」


「少し」


「やっぱり」


 それだけ言って笑う。

 この妹の軽さには、救われる時と、胸が痛む時がある。


 母上様の御殿では、年の瀬の支度についての話がすぐに始まった。


 仏間のしめ縄をいつ替えるか。

 門松を大手へ立てる刻限はどうするか。

 台所で仕込む餅の数。

 奥女中たちへどこまで休みをやるか。

 話すことは山ほどあり、私はその一つひとつに答えを返していった。


 母上様は、その間、一度もお初の名を出されなかった。

 だが、母上様の沈黙は、何も見ていない沈黙ではない。むしろ、見た上で今は触れぬと決めた沈黙だと、私はもう知っている。


 やがて話が一段落し、女中たちが下がったあと、母上様が静かに言われた。


「お初は、少し揺れておりますね」


 私はその一言に、視線を落とした。


「……はい」


「そなたは、どうするつもりです」


 私はすぐには答えなかった。


 どうするつもりか。

 それはずっと、私自身へも問い続けていることだった。


 正室として線を引くべきか。

 姉として抱き寄せるべきか。

 御方様として、ただ家の形を優先すべきか。


 けれど今の私に分かるのは、一つだけだ。


「今は、問わぬつもりです」


 そう答えると、母上様は小さく頷かれた。


「それがよろしいでしょう」


「近くにいるからこそ、かえって問い詰めてはならぬ気がいたします」


「ええ」


 母上様の声は静かだった。


「不在の相手なら、文でごまかせます。ですが、毎日顔を合わせる相手は、問いかけ一つで逃げ場を失います」


 私は、その言葉を胸の内でゆっくりと繰り返した。


 不在ではない妹。

 だからこそ、逃げ場を奪ってはならない。


 近くにいるということは、いつでも話せるということではない。

 むしろ、近いからこそ、まだ話せぬこともあるのだろう。


「母上様」


「何です」


「私は……見ているしかないのでしょうか」


 その問いに、お市は少しだけ目を細められた。


「見ている、というのは、何もせぬことではありません」


「はい」


「騒がず、急がず、しかし見失わずにいること。それも、女の役目です」


 私は、その言葉に静かに頭を下げた。


 夜、私は一人で廊下に立ち、湖の暗さを見ていた。


 風は冷たく、遠くの水面にはほとんど光がない。

 大津の夜は、安土の夜よりも人の気配が少ない。

 だからこそ、城の中にいる者の息づかいがよく聞こえる。


 どこかで湯桶の音がした。

 どこかで女中が小さく笑った。

 そして、そのどれとも別に、お初の沈黙の気配が、この城の中に確かに存在しているように思えた。


 お初は、もう不在ではない。

 だから私は、文の向こうへ想像するだけで済ませられない。

 目の前で戸惑い、目の前で言い淀み、目の前で視線を置き損ねる妹を、見てしまう。


 それは時に苦しい。

 だが、苦しいからといって、なかったことには出来ない。


 私はそっと息を吐いた。


 今はまだ名にせぬ。

 今はまだ、問いたださぬ。

 けれど、見失いもしない。


 それが今の私に出来ることだと、ようやく少しずつ分かり始めていた。


 近くにいるからこそ、遠い。

 不在ではないからこそ、気配が強い。

 その不思議な距離ごと受け止めることが、この家の姉であり、御方様である私の役目なのだろう。

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