茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・①⑨⑨話・第十話 三人の姉妹、三つの秋
秋が深まると、城の中の音まで少し変わる。
夏の頃は、どこか水気を含んだように聞こえていた足音が、今は板を軽く乾いて打つ。
障子の向こうを渡る湖風も、ただ涼しいのではなく、夜へ近づくごとに少しずつ細く鋭くなっていく。
囲炉裏の火がありがたくなり、湯殿の湯気がいっそう恋しくなり、台所では味噌の匂いが前よりも深く感じられる。
そういう季節になると、人の心もまた、それぞれの形で秋を受け取るのだろう。
その日の夕刻、私は珍しく、三姉妹だけで食事を囲むように手配した。
母上様は仏間へ長くおられ、真琴様は安土城での評定が長引いて戻りが遅くなるという。
ならば今宵は、私と、お初と、お江だけでゆっくり座を囲んでもよいだろうと思ったのだ。
食事の間には、囲炉裏の火が穏やかに入っていた。
秋刀魚を炙った皿、きのこの汁、塩でもんだ菜、少しだけ新しい米を混ぜた飯。
華やかな膳ではない。だが、この時期の女の舌と腹には、こういうものの方がしみる。
お江は座るなり、盆を覗き込んで声を上げた。
「わあ、秋っぽい」
その言い方がいかにもお江らしく、私は思わず笑みをこぼした。
「秋っぽい、とは何です」
「だって、魚も、きのこも、なんか全部“秋です!”って感じだもん」
お初が横で呆れたように言う。
「あんたの語彙は季節になると急に薄くなるわね」
「お初姉様だって、秋刀魚見てちょっと嬉しそうだったじゃん」
「別に」
「別に、って顔じゃないよ」
お初は箸を取る手を一瞬だけ止めたが、すぐに知らぬ顔で汁を口へ運んだ。
私はそのやり取りを見ながら、こうして三人で座るのも久しぶりだと思った。
昔は、三人でいることに特別な意味はなかった。
姉妹なのだから、いて当たり前だった。
けれど今は違う。
私はこの城の御方様として台所と蔵と人の流れを見ている。
お初は、城の中と外、家の空気の歪みや人の視線に敏くなっている。
お江は相変わらず賑やかだが、その賑やかさで場の息を軽くする役を持ち始めている。
同じ秋でも、見ているものがそれぞれ違うのだ。
私は飯を少しよそいながら言った。
「せっかくです。今日は、それぞれの秋の話をなさい」
「それ、何」
お初が怪訝そうに眉を寄せる。
「文字通りです。あなたたちは、この秋、何を見ておりましたか」
「なんか急に難しい」
お江がすぐに顔をしかめた。
「難しくありません。思ったまま申せばよいのです」
私がそう言うと、お江は少し考えるように天井を見て、それから元気よく答えた。
「私はね、匂い!」
「匂い?」
「うん。夏の終わりと違って、秋はごはんの匂いがいっぱいする。焼いた魚とか、お味噌とか、あと新しいお米の匂い」
私は箸を止めた。
なるほど、と思った。
お江らしい答えではあるが、悪くない。
この子は理屈ではなく、まず身体で季節を受ける。だから、季節の変わり目を匂いや腹で知るのだろう。
「それからね」
お江はなおも続ける。
「城の中の音もちょっと違う。夏より静かなのに、みんな忙しい感じ」
お初が、少しだけ目を上げた。
「あんたにしては、ちゃんと見てるじゃない」
「なにそれ。私だって見てるよ」
「どうせごはんと湯殿ばっかりかと思ってた」
「それも大事だもん」
私はその言葉に小さく頷いた。
「ええ。大事です」
お江は、褒められたと思ったのか少し得意げになった。
「姉上様は?」
そう問われ、私は少し考えた。
「私は……」
言葉を選ぶ。
「蔵です」
お江がすぐに笑う。
「姉上様らしい」
「何がおかしいのです」
「だって、お米とか塩とか味噌とか、そういうの考えてる時の姉上様、すごく真剣なんだもん」
お初が、ふっと鼻で笑った。
「ほんとよ。前よりずっと“家の人”になった」
その言い方に、私は少しだけ目を細めた。
「前は違ったと?」
「違った、というより」
お初は箸先で焼き魚の身をほぐしながら言う。
「もっと、人を見てた。今も見てるけど、それに加えて、蔵とか台所とか、そういう“家が黙ってても回るようにするもの”をよく見るようになった」
私は黙って聞いた。
お初は、やはり人をよく見ている。
言葉はきついが、そこに嘘は少ない。
「秋になると、何が足りないかがよく見えるんです」
私は静かに言った。
「米だけではありません。塩、味噌、薪、炭、干し魚。それに、女たちの手も」
「手?」
お江が首を傾げる。
「ええ。冬になる前は、誰にどれだけ仕事が偏るかも見ておかねばなりません。台所が忙しければ湯殿の手が足りなくなるし、蔵を開ければ火の番も増える。そういうものを整えておかねば、城は冬を越せません」
お江は「ふーん」と言いながらも、前よりはちゃんと聞いている顔だった。
それから私はお初へ向き直った。
「では、あなたは」
お初は少しだけ間を置いた。
「私は……目、かしら」
「目」
「うん」
お初は、自分でも少し言いづらそうにしながら続けた。
「城の中の女中たちの顔とか、城下の人の歩き方とか、兵の空気とか。秋になると、皆ちょっと先のこと考えるでしょ。そうすると、顔に出る」
私はその答えに、思わず心の中で息を呑んだ。
お初はやはり、そこを見ているのだ。
この妹は、物の数より先に、人の顔に出る綻びや不安を見る。
「たとえば?」
私が促すと、お初は少しだけ囲炉裏の火を見た。
「兵たちも、秋の終わりになると家のこと考える顔になる。城下の女も、米や薪の話になると声の出し方が違う。で、そういう時に、城の中が落ち着いてるかどうかで、人の安心って変わる気がする」
その言葉は、思っていた以上に重かった。
お江は少しわからない顔で言う。
「それって、顔でわかるの?」
「わかるわよ」
「私はわかんない」
「あんたはすぐ“お腹すいた顔”しかしないから」
「ひどい」
私は思わず笑ったが、すぐにその笑いの奥で、お初の見ている秋の深さを思っていた。
私は蔵を見る。
お初は、人の顔を見る。
お江は、匂いと音で季節を見る。
皆、見ているものが違う。
けれど、そのどれもが、この城には必要なのだろう。
「姉上様」
お江が急に言った。
「何です」
「じゃあ、黒坂家には三人とも要るってこと?」
私はその問いに、すぐには答えなかった。
黒坂家に。
その言葉が、お江の口から自然に出たことに、まず少しだけ胸が動いた。
この子の中でも、もう大津城は“ただいる場所”ではなく、“自分たちの家”になりつつあるのだ。
「ええ」
私ははっきりと頷いた。
「要ります」
「私も?」
「あなたもです」
「お初姉様も?」
「もちろんです」
お初は、そこで少しだけ視線を伏せた。
その沈黙の中にあるものを、私は見ぬふりはしなかったが、あえて言葉にもしなかった。
お初は今、ただの妹ではない。
この家の中で、以前より重い位置に立っている。
だからこそ、私もまた、答える言葉を軽くしたくはなかった。
「あなたは、人の顔を見ております」
私は静かに言った。
「私は蔵と台所を見、お江は空気を動かす。違うからこそ、今の黒坂家には三人とも要るのです」
お江はそれを聞くと、なぜかひどく嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、私は“空気を動かす係”ね」
「勝手に係にしないで」
お初がすぐに突っ込む。
「でも、たしかにそれっぽい」
「お初姉様まで!」
そのやり取りに、私はまた笑った。
こうしていると、本当に昔と変わらぬ三姉妹のようにも思える。
だが、変わっていないわけではない。
私はその違いをちゃんと知っている。
お初も、おそらく知っている。
それでも今夜こうして、三人の見ている秋を言葉に出来たことは、何かひとつ、この家の中で大事なことだったように思えた。
囲炉裏の火が、ぱち、と小さく鳴った。
私はその音を聞きながら、静かに思った。
三人の姉妹が、同じ秋を違う目で見るようになった。
それは、離れていくことではない。
むしろ、それぞれが役を持って、ようやく一つの家を支え始めたということなのかもしれない。
私は飯をひと口口へ運び、温かな湯気の向こうに二人の妹の顔を見た。
賑やかで、素直でなくて、不器用で、けれどちゃんとこの家の中にいる。
それが、今の黒坂家の秋なのだと、私は少しうれしく思っていた。




