茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・①⑨⑧話・第九話 初穂の報せ、女たちの顔
その朝、大津城の空気はいつもより少しだけ澄んでいた。
湖から吹いてくる風は冷たくなり始めているのに、不思議と胸の奥まで冷やすような寒さではない。水を渡ってきた風の中に、土の匂いと、刈り取りを待つ田の乾いた香りが混じっているからかもしれなかった。
私は朝餉を終えると、すぐに表の間へ向かった。
前夜のうちに、村から初穂が上がると知らせが来ていたのである。
量はまだわずか。
本格の収穫には早い。
けれど、最初の穂が城へ届くということは、それだけで意味を持つ。
桜子たちは、もうその意味をよく分かっているらしかった。
「御方様、床の間の花は控えめにいたしました」
そう言って桜子が見せたのは、白い野菊を低く置き、その脇へ稲穂を二、三本だけ添えた、秋の入口のような一作であった。
私はその前に立ち、少しだけ首を傾ける。
「よろしいですね。稲を出しすぎぬところが」
「はい。あまり前へ出すと、祝いが先に立ちすぎるかと」
「ええ。今日は華やかさより、静かな安堵です」
桜子は小さく頭を下げた。
私はその言葉を口にしてから、自分の中でもその感覚がしっくり来るのを感じていた。
安堵。
初穂とは、まさにそれなのだろう。
どれほど見事な豊作であろうと、まだ蔵が満ちるわけではない。
だが、土が今年も人へ返事をよこした、という確かな知らせではある。
そこへ、お江が走り込んできた。
「姉上様、まだ?」
「まだです」
「初穂って、ほんとに一番最初のだけ?」
「ええ」
「じゃあ、すごく大事なんだね」
朝から妙に素直だと思ったが、次の言葉でいつものお江へ戻った。
「それって、あとで食べるの?」
私は少しだけ額へ手を当てた。
「まず最初に出るのがそれですか」
「だって気になるんだもん」
「あなたはいつでも腹が先です」
横から、お初が静かな顔で入ってきた。
「お江に難しいことを言っても無駄よ。食べる話に変えた方が早いわ」
「お初姉様だって気になるくせに」
「別に」
お初はそう言ったが、その目はすでに表の方へ向いていた。
私はその横顔を見て、ほんの少しだけ笑みをこぼした。
「二人とも、来たらきちんとご挨拶なさい」
「はーい」
「……わかってる」
返事はやはり対照的である。
初穂は、城下近くの村から、年嵩の女と若い嫁、それに村役の男が一人ついて運んできた。
母上様――お市も、すでに仏間へ移っておられた。
私は、お江とお初を連れてそこへ向かった。
仏間はいつもと変わらず静かで、香の煙が細く上がっていた。
父上様や御祖父様の位牌の前で、お市はきちんと背を伸ばしておられる。
その姿を見ると、どれほど城が賑やかでも、家の芯はここにあるのだと分かる。
村の女が、深く頭を下げて言った。
「今年最初の穂にございます」
差し出された束は、まだ完全な黄金色ではなかった。
少し青みの残る穂先が、秋の日差しを含んでひっそりと光っている。
母上様は、その束を両手で受け取られた。
「よう持ってきてくれました」
それだけだった。
けれど、その一言に、村の女の肩から力が抜けたのが分かった。
私は、その様子を見ながら思う。
人は褒め言葉より、きちんと受け取られた時の方が安堵することがある。
初穂は仏前へ供えられた。
母上様が静かに手を合わせ、私もそれに倣う。
お初はいつもより少し長く頭を垂れ、お江は珍しくふざけずにじっとしていた。
祈りの後、母上様が女たちへやわらかく声をかけられる。
「村の様子はいかがです」
年嵩の女が、少し緊張しながら答えた。
「はい。今年は、ようやく家の中で田の話が出来るようになりまして」
私は、その言葉に思わず目を向けた。
「田の話を?」
私が問い返すと、女は深く頷いた。
「去年までは、水が足りるか、種が来るか、そればかりで……。先のことを話す余裕など、とても。ですが今年は、用水の見回りも早く、どの田を先に見るかも前もって知らせがありました」
若い嫁も、おずおずと口を開いた。
「女手の多い家へは、苗代の順まで先に教えてくださると聞きまして……。だから、今年はどこへどれだけ植えるかを、家でちゃんと相談できました」
私は息を止めるような気持ちで、その話を聞いていた。
今年はどこへどれだけ植えるかを、家でちゃんと相談できた。
それは、何でもない言葉のようでいて、まるで違う。
不安しかない年には、人は“今”をしのぐことしか出来ぬ。
けれど、植える田のことを家の中で話せるというのは、春の間にもう秋までの流れを見通せているということだ。
母上様は静かに頷かれた。
「それはようございました」
女たちは、今度はもっと深く頭を下げた。
誰も大声で礼を言わぬ。
だが、その頭の下がり方に、村の空気が少し軽くなったことがよく表れていた。
女たちが下がったあと、私は仏間の脇で母上様と少し言葉を交わした。
「“家の中で田の話が出来るようになった”……」
私がそう呟くと、お市は細く笑われた。
「よい言葉でしょう」
「はい」
「政がよく働く時、人はまず蔵の数字でなく、家の話しぶりでそれを知るものです」
私は、その言葉を胸の中で反芻した。
たしかにそうだ。
帳面の上で米の入りがどう動いても、家の中で女たちが“この冬をどう越すか”“どこへどれだけ植えるか”を落ち着いて話せなければ、政が届いたとは言えぬのかもしれぬ。
そこへ、お初がぽつりと言った。
「真田幸村……百姓相手にもずいぶん細かく見てるのね」
私はすぐにそちらを見た。
「意外でしたか」
「少し」
お初は、ほんのわずか眉を寄せた。
「もっと、武辺者らしく大きなことしか見ないのかと思ってた。けど、女手の多い家まで見て手順を回すなら……」
「なら?」
私が問うと、お初は少しだけ視線を逸らした。
「……まあ、嫌いじゃないわ」
お江がそこで吹き出した。
「それ、すごい褒めてるやつだよ」
「褒めてない!」
「褒めてるよ」
「うるさい!」
そのやり取りが、妙に可笑しかった。
私は思わず口元を押さえた。
お初はお初で、こういうところが本当に素直ではない。
だが、その不器用さがあるからこそ、言葉の裏にあるものがかえってよく見えることもある。
私はふと、真田幸村の顔を思い浮かべた。
あの男はたぶん、自分の仕事がこうして村の女や城の奥の話題になることなど、あまり気にしていないのだろう。
ただ、筋を通し、手を回し、抜けがないように動いているだけだ。
けれど政というものは、そうして静かに動いたものほど、あとで女たちの顔に表れるのかもしれない。
初穂の一部は、その日のうちに台所へ回した。
量はわずかだから、炊いて腹を満たすためではない。
香りを見るため、今年の米の若い気配を確かめるためのものだ。
桜子が、小さな土鍋でほんの少しだけ炊いた飯を、夕刻前に食事の間へ持ってきた。
「御方様、こちらを」
盆の上の白い飯は、まだ粒が若く、香りも青い。
私は箸でほんの少しだけ取り、口へ運んだ。
まだ幼い味だった。
ふっくらと熟れきった米ではなく、秋の入口そのものを食べるような、若い、青い、しかし確かな実りの味。
「どう?」
お江がすぐに聞く。
「まだ若いです」
「お米にも若いとかあるの?」
「ございます」
私が言うと、お初も少しだけ箸を伸ばした。
ひと口食べ、少し黙る。
「……たしかに、若い味」
その感想があまりに真面目で、今度はお江が笑った。
「人みたいだね」
「何がよ」
「お米も、お初姉様も」
「は?」
お初が睨む。
だが私は、そのやり取りに思わず笑みを深くした。
若い味。
たしかに、今のこの城も、この家の女たちも、まだどこかそうなのかもしれない。
形は整い始めている。けれど、まだ熟れきってはいない。
その若さを抱えたまま、これから冬を越え、また次の年を迎えていくのだろう。
夕刻、真琴様が安土城から戻られた時、私は今日のことを最初にお伝えした。
「初穂が上がりました」
そう申すと、真琴様はすぐに顔を上げられた。
「そう」
「村の女たちが、“ようやく家の中で田の話が出来るようになった”と」
私はその一言を、なるべくそのまま渡した。
余計な飾りをつけてはならぬ気がしたのだ。
真琴様は、しばらく何も言わなかった。
やがて、静かに息を吐く。
「それなら、幸村の仕事はちゃんと土に入ったんだね」
私は頷いた。
「ええ。帳面の上でなく、女たちの顔へ届いたようにございます」
真琴様は少しだけ笑った。
「それが一番大事」
お江がそこで元気よく言う。
「初穂、食べたよ!」
「おお、どうだった?」
「若かった」
真琴様が吹き出した。
お初は少しむっとしつつも、先ほど自分も同じようなことを言った手前、何も言えないらしい。
私はそんな二人を見ながら、静かに思った。
初穂の報せとは、ただ収穫の始まりを告げるだけではない。
城の女たちの顔に、ようやく先の暮らしを考える余裕が戻ってきたという報せでもあるのだ。
人が、今年の田を語る。
女が、冬の支度を少し落ち着いて考えられる。
それは、蔵に積まれる米俵より前に現れる、政の成果の顔なのだろう。
私は囲炉裏の火を見つめながら、今日会った村の女たちの顔を思い返した。
深く頭を下げた時の安堵。
田の話が出来るようになった、と言った時のやわらいだ口元。
あの顔を見たからこそ、私はようやく、農政とは何を支えるものなのかを自分の言葉で掴めた気がしていた。




