茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・①⑨⑦話・第八話 真琴の昼餉、幸村の田
その日は、珍しく真琴様が昼に一度だけ城へ戻ると朝のうちから聞いていた。
朝餉の席でも、真琴様は「昼には少しだけ戻る。少しだけ」と念を押しておられたが、その“少しだけ”がどれほど短いものかは、ここしばらくの暮らしでよく分かっている。
おそらく、湯殿に入る余裕などない。
座へ着いて温かいものを口へ運び、二言三言交わせればよい方だろう。
私は朝から、食事の間へ少し手を入れさせた。
囲炉裏の火は弱すぎず、強すぎず。
汁は冷めぬよう土鍋のまま脇へ置き、飯は軽めに、だが腹へ落ちるよう麦を少し混ぜる。
焼き味噌と刻み菜、それに干した魚をほぐして少し添える。
昼に戻る殿の飯は、豪勢さよりも“早く食べられて、ちゃんと身になること”が大事だと、私はもう覚えていた。
お江は朝から、やけにそわそわしていた。
「姉上様、まだ?」
「まだです」
「でも昼って言ってたよ」
「昼にも幅があります」
「真琴の“少しだけ”も幅あるよね」
お江にそう言われると、少し返す言葉に詰まる。
たしかにその通りだ。
お初は、そんなお江を見て呆れたように肩をすくめた。
「あんた、昼餉を待つ子犬みたい」
「お初姉様だって気にしてるじゃん」
「してないわよ」
即座にそう返しながらも、お初の目も時々廊下の方へ流れている。
私はそれを見ても、今は何も言わぬことにした。
この家の中には、まだ名にせぬ方がよい気配というものがある。
それを急いて言葉にすれば、せっかく収まりかけたものまで崩れかねない。
昼の気配が濃くなった頃、外から早足の気配がした。
そして、そのまま襖が開く。
「ただいまー……って、昼だから変か」
真琴様であった。
やはり急ぎの戻りらしく、衣には城の外気が残っている。だが顔色は朝よりむしろ冴えていて、忙しい中にも頭はきちんと働いているのだろうと知れた。
「お帰りなさいませ」
私が立って迎えると、真琴様はそのまま食事の間の囲炉裏脇へ座り込むように落ち着いた。
「ああ、いい匂い」
「少しだけと伺っておりましたので、すぐ食べられるように整えておきました」
「助かる」
その一言がまっすぐで、私は少しだけ胸の内がやわらいだ。
桜子が手早く飯を置き、梅子が汁をよそう。
桃子は言葉を挟まず、湯呑の位置だけをさりげなく直した。
この三人も、こういう“短い昼餉”の扱いに慣れてきたものだ。
真琴様は箸を取ると、まず汁をひと口啜った。
そして、ほっとしたように息を抜く。
「やっぱり城の詰め所で食べるのと違うね」
「何が違うのです」
「んー……落ち着き?」
お江がすぐに身を乗り出した。
「真琴、城だと何食べてるの?」
「急ぎだと握り飯とか、冷めた汁とか」
「やだ」
「やだって言われても」
真琴様は苦笑しながら飯を口へ運ぶ。
その横顔を見ていると、本当に少しの時間しかないのだと分かる。
だから私は、今のうちに聞くべきことを聞くことにした。
「真琴様」
「はい」
「幸村の件、今どうなっておりますか」
真田幸村が農政奉行として動き始めてから、報告は何度も上がってきている。
だが紙の上では見えるものにも限りがある。
実際にその者を使っている真琴様の口から、今の手応えを聞いておきたかった。
「幸村?」
真琴様は焼き味噌を少し飯へのせながら、すぐに頷いた。
「かなり細かく見てるよ。こっちが思ってたよりずっと」
「文でも、そのように見受けられました」
「うん。あいつ、もともと戦の段取りも細かいけど、田んぼ相手でも同じなんだよね」
お初がそこで、少しだけ顔を上げた。
私は気づかぬふりをして、問いを重ねる。
「百姓たちは、ついてきておりますか」
「最初は怖がられてたみたい」
真琴様はあっさり言った。
「やっぱり」
お初が小さく呟く。
真琴様はその声を拾って、少し笑った。
「でも、怖がられてもいいんだよ。最初に“あの人は面倒だ”って思われても、後で“あれでよかった”って言われる方が本物だから」
私は、その言葉を静かに受けた。
怖がられてもよい。
後で“あれでよかった”と言われる方が本物。
それは政だけでなく、家の内にも通じる話のように思えた。
御方様として人を叱る時も、妹としてお江を止める時も、正室としてお初を見守る時も、目の前のやわらかな機嫌を取るだけでは、結局は家が弱くなる。
「姉上様?」
お江が不思議そうに私を見る。
「どうかしましたか」
「ううん。真剣な顔してる」
私はそこで少しだけ笑みを戻した。
「真琴様の話が、思ったより重かったのです」
「幸村って、そんなに大変なの?」
お江が今度は真琴様を見る。
「大変だよ」
「田んぼ見てるだけじゃないの?」
「お江」
私はたしなめたが、真琴様は先に答えた。
「見てるだけなら誰でもできる。問題は、誰がどこで困ってて、どこを先に直すか、どう言えば人が動くか、そこを決めること」
「ふーん」
「しかも、間違えると秋に全部返ってくる」
「うわ」
お江は顔をしかめた。
その“うわ”が、妙に本質を表している気もする。
私は茶を少し口へ運びながら、問いを変えた。
「幸村殿は、百姓相手にどのように話しておられるのです」
「んー……筋を通しすぎるくらいには通してる」
真琴様は苦笑した。
「去年より水の流れが悪いのに去年と同じ年貢はおかしい、とか、女手が多い家に同じ手順を押しつけても無理が出る、とか。そういうのを、一つずつ理屈で詰めていく感じ」
その説明を聞いて、お初がぽつりと言った。
「百姓相手にも、あのまんまなのね」
真琴様は少し目を細めた。
「お初、何か言った?」
「別に」
お初はすぐに視線を逸らした。
だが、その反応に私は内心で少し笑った。
お初はもう、幸村のやり方を完全に嫌ってはいない。むしろ、筋を通すところに少し感心すらしている。それが分かる言い方だった。
真琴様はそこを深追いせず、汁をひと口飲んでから私を見た。
「茶々は、幸村の文どう読んでる?」
私は少し考えてから答えた。
「最初は数字ばかりで味気ないと思っておりました」
「正直だね」
「ですが今は、数字の向こうに村の顔があるのだとわかります。田を見ているようで、あれは結局、人の手と腹と冬の暮らしを見ているのですね」
真琴様は、その答えを聞いて静かに頷いた。
「うん。それが分かれば十分だと思う」
そう言ってから、少しだけ箸を休める。
「茶々も似たようなことしてるし」
「私が、ですか」
「そう。蔵見て、女たちの空気見て、城下の井戸端の声まで拾ってるでしょ。あれも結局、“人が冬を越せるか”を先回りして見てるんだから」
私はその言葉に、一瞬だけ返せなかった。
たしかに私は、蔵を見、井戸端の声を拾い、奥方たちとの会話の端で安心の向きを作ろうとしている。
だが、それを真琴様にこうもあっさり言い当てられると、妙に気恥ずかしい。
「……それは、御方様の務めです」
「うん」
真琴様は素直に頷いた。
「茶々はもう、ちゃんと城持ちの奥だよ」
その言い方は軽い。
けれど、軽いからこそ胸へ入った。
私は思わず少しだけ視線を落とした。
お江は何も気づかず「姉上様えらいね」と笑っている。
お初は黙ったままだが、横顔が少しだけやわらいで見えた。
ほんの短い昼餉だった。
真琴様は、食を終えるとすぐに立たねばならなかった。
安土城へ戻り、また評定と書付と人の出入りの中へ身を置かねばならぬ。
私は立ち上がり、湯呑を下げる桜子の動きを横目で見ながら、真琴様の衣の襟を整えた。
「どうか、今夜は少しでも早くお戻りください」
「努力はする」
「努力だけでなく、戻ってください」
「……はい」
その返事に、お江が笑い、お初が小さく鼻を鳴らした。
けれどその一瞬、たしかにこの大津城の食事の間には、家のぬくもりのようなものが満ちていた。
真琴様が出て行ったあと、私はしばらく囲炉裏の火を見つめていた。
怖がられても、後で“あれでよかった”と言われる方が本物。
その言葉は、真田幸村だけでなく、私自身へも向けられたもののように思えた。
御方様として、家の内を回す。
ただ優しくあればよいのではない。
ただ厳しくあればよいのでもない。
先を見て、今ここで少し嫌われても、あとで“あれでよかった”と思えるよう整えること。
私はようやく、農政と奥向きの実務が、別のものではなく一つの根から伸びているのだと分かり始めていた。
土を預かる者がいる。
ならば、私はこの城の暮らしを預かる。
その違いだけで、やるべきことの芯は、たぶんあまり変わらないのだろう。
囲炉裏の火は静かに燃えていた。
その火を見ながら、私は次に来る秋の深まりと、その先の冬を思った。
その季節を越すために、今この城で出来ることを、私はまだまだ学ばねばならぬのだ。




