茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・①⑨⑥話・第七話 井戸端の秋、城下の耳
秋の気配というものは、木々の色づきより先に、女たちの口へ降りてくる。
それを、私は大津へ来てから覚えた。
庭の楓がわずかに赤みを帯びるより早く、台所では「今年の塩はどうか」「干し魚はもう少し増やすべきではないか」という話が出る。
朝夕の風が冷たくなったと感じる頃には、井戸端では「薪は足りるか」「米は今のうちに少し多く抱えた方がよいか」と声が交わる。
人は、冬を前にすると未来の腹を思う。
そして女は、その未来の腹のことを、男たちより少し早く口に出す。
その朝、私は大津城の表の間で帳面を前にしながら、桜子へ静かに命じていた。
「城下の井戸端の声を拾いなさい」
桜子はすぐに意味を悟ったようで、姿勢を正した。
「米、にございますか」
「米だけではありません」
私は筆を置いて、桜子の顔を見た。
「塩、薪、干し魚、味噌。女たちが何を先に気にし始めたか、それを知りたいのです」
「承りました」
横で聞いていたお江が、すぐに首を突っ込んできた。
「また噂の話?」
「噂と不安は似ておりますが、違います」
「どう違うの?」
「噂は面白がって広がるもの。不安は、黙っていても腹の中で膨らみます」
お江は少しだけ考える顔をした。
「でも、ごはんがちゃんとあるなら大丈夫じゃないの?」
「蔵の中を見て知っているのは城の内の者だけです」
私がそう言うと、お江は「あ」と小さく声を漏らした。
「城下の女たちは、蔵の中までは見えない。見えぬから、少しの話でも気になるのです」
そのやり取りを聞いていたお初が、廊下の柱へ寄りかかったまま口を開いた。
「だったら、見えるようにすればいいじゃない」
私はお初を見た。
「蔵を開いて見せるのですか」
「そこまでは言ってないわよ」
お初は少しだけ眉を寄せた。
「でも、何も知らされないから勝手な話になるんでしょ」
その言葉は、思いのほか的を射ていた。
私はすぐには返さず、ただ頷いた。
「ええ。だから、慌てなくてよいという空気を、どこへどう流すかを考えます」
お江がすぐに言う。
「じゃあ、姉上様がお城の上から『だいじょうぶでーす』って叫べば――」
「却下です」
「早い」
「あなたの案は大抵、最初の一息で却下できます」
お江は頬をふくらませた。
だが私は少しだけ笑った。こういう軽さがあるからこそ、重くなりすぎずに済むこともある。
「桜子、今日は一人で行かず、梅子と桃子も使いなさい」
「三手に分けますか」
「ええ。布屋、湯屋、魚屋。それぞれで、女たちの心配は違うはずです」
「はっ」
桜子は一礼し、すぐに二人を呼びに下がっていった。
私はその背を見送りながら、ふと湖の方へ目をやった。
秋の湖は、夏より少し色が深い。
その深さの分だけ、人の心も先のことを思うようになるのだろう。
昼の前、私は母上様の御殿へ顔を出した。
お市は、女の空気の揺れを読むのが上手い。
それも、ただ城の中の女だけではない。村の女、城下の女、湯屋で袖をまくる女に至るまで、その目線で見ておられるところがある。
仏間に近い座敷で、母上様は花を少し直しておられた。
私が顔を見せると、すぐに気づいてこちらを見られる。
「茶々」
「母上様、少しご相談が」
「米のことですね」
私はそこで小さく息をついた。
「やはり、もうお耳に」
「大津の女たちの口は、秋になると米から始まります」
母上様は静かに花を置き直された。
「真田幸村がよう働いていても、働いていること自体は蔵の中に見えません。見えぬものは、女たちの不安をすぐには鎮めぬものです」
「では、城下はやはり少し」
「少し、です」
母上様は私の方を見た。
「大事になるほどではありません。ですが、“少し”のうちに見ておくのが家の役目です」
私は頷いた。
母上様と話すと、いつも自分の考えが変に膨らみすぎずに済む。
不安を大事と決めつけもせず、かといって軽くも扱わぬ。その間合いが、この方の強さだ。
「何か、流しておいた方がよろしいでしょうか」
「流すなら、“余っている”ではなく“乱れていない”です」
私はその一言を、胸の内で繰り返した。
余っている。
それはかえって人の心をざわつかせる。
あると聞けば欲が出るし、余ると聞けば値が崩れる話まで出る。
だが、乱れていない。
その言い方なら、人は慌てて動かぬ。
「……母上様、やはりお強い」
「強くなければ、女は生き残れません」
静かな声でそう言われると、私は返す言葉がなかった。
午後、桜子たちが戻ってきた。
私は表の間へ三人を呼び、障子を少し閉めさせた。
お江も来たがったが、今日はそのまま座らせた。お江の耳は軽いが、家の中の者として聞いておくべき話でもある。
「どうでした」
私が問うと、まず桜子が口を開いた。
「大きな不満はございません」
「それはよろしい」
「ただし、“今年は黒坂家が大津へ米を回しているらしい”という半端な話が、布屋の女たちのあいだに」
私は眉をわずかに動かした。
「火元は」
「定かではございません。商人の口から商人へ、井戸端へ回ったものと思われます」
次に梅子が帳面を差し出す。
「湯屋では、塩の入りを少し気にする声がございました。ですが、不満というより“冬まで持つか”を案じる程度にて」
桃子は少し緊張した顔で続けた。
「魚屋では、干す魚を今のうちに多めに確保したいと。あと、薪売りの女衆が、“米の噂が本当なら他も値が動くのでは”と」
私は一つひとつ聞きながら、頭の中で線を引いていった。
米が動く。
それが本当でも、動くこと自体は不思議ではない。城の蔵も、村の蔵も、年中同じ量ではない。
けれど、“黒坂家が動けば相場も動く”という話になり始めると、それはただの暮らしの不安ではなく、家の力に結びついた噂へ変わる。
私はお江を見た。
「お江、今の話を聞いて、何がいちばん心配だと思いますか」
「え?」
お江は少しきょとんとしたが、すぐに真面目な顔になった。
「お米がなくなること……かな」
「なぜです」
「だって、みんな最初にごはんのこと考えるでしょ」
私は頷いた。
「その通りです。では、実際にすぐなくなりますか」
「……そこまではわかんない」
「ええ。わからぬから、女たちは井戸端で確かめ合うのです」
お江は少し唇を尖らせた。
「じゃあ、誰かが“なくならないよ”って言えばいいのに」
お初が横からすぐに言った。
「そんな軽く言ったら余計に怪しいわよ」
「なんで?」
「“なくならない”ってわざわざ言うほど危ないのかって思うじゃない」
私は、そのやり取りに目を細めた。
たしかに、その通りだ。
真っ向から打ち消せば、かえって人の耳はそこへ集まる。
ならば必要なのは、否定ではない。
安心の形を、もっと別の言葉で置くことだ。
「お初」
「何よ」
「今のは良い見方です」
お初は少しだけ驚いたように私を見たが、すぐに視線を逸らした。
「別に。そんなの、誰でもわかるでしょ」
「あなたは“誰でも”の中に入っておりません」
「……姉上様、そういう言い方やめて」
お江がくすくす笑った。
その笑いで、部屋の空気が少しだけやわらぐ。
私は三人へ向き直った。
「米が余るとも、足りないとも言ってはなりません」
「では、どう流しますか」
桜子が問う。
「“今年は手当てが早い”と」
私は答えた。
「“手当てが早いから、今のうちに落ち着いて冬支度を進めればよい”――そう聞こえるように」
梅子が頷いた。
「安心はさせるが、油断はさせぬ」
「ええ」
お初が、少しだけ感心した顔をした。
「城の内の女って、そういうことまでやるのね」
「城の内の女だからこそ、です」
私は静かに言った。
「男たちが流れを整えても、その流れが暮らしへどう届くかは、結局女の口と耳を通ります。ですから、そこを見ておかねばなりません」
お初は黙って私を見た。
その目にあったのは、ただの驚きではなかった。
この頃、お初は私を見る時に、ときどき“姉”を見る目と“御方様”を見る目とが重なる。
それが少し気恥ずかしく、けれど避けてはならぬもののようにも思えた。
夕刻、私は城下へ出ることはせず、代わりに大津城へ出入りのある女たちを少しずつ座敷へ通した。
湯屋へ入る年嵩の女。
布屋の内をよく知る者。
魚屋と付き合いのある下女。
そういう者たちへ、茶を出しながら、ごく自然に話を向ける。
「今年は、幸村殿の手当てが早うございますね」
「はい、御方様」
「ならば、慌てて抱え込まずとも、今のうちに支度を進めれば十分でしょう」
そう言うと、女たちはほっとした顔をする。
私が“心配無用”と断じたわけではない。だが、“手当てが早い”という言い方は、城が見ているという安心へ繋がる。
それでいいのだ。
井戸端の不安は、井戸端へ馴染む形で鎮めねばならぬ。
その夜、私は母上様の言葉を思い返していた。
“余っている”ではなく“乱れていない”
たしかに、その通りだった。
米がどれだけあるかを語るより、米の流れが乱れていないことを感じさせる。
それが、大津の女たちを冬へ向かわせるための言葉になる。
私は囲炉裏の火を見つめながら、静かに思った。
農政が土を整えるなら、奥向きは心を整える。
土と心、そのどちらも見えぬところで先に動くものだ。
その先回りこそ、御方様の政なのかもしれない。
井戸端の秋。
城下の耳。
そこへ手を伸ばすことが出来るようになったのなら、私は少しだけ、この大津城の内を預かる者に近づけたのだろう。




