表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1350/1360

茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・①⑨⑤話・第六話 お初の方、まだ馴染まぬ

人は立場が変わったからといって、すぐに心までその形へ馴染むものではない。


 それを、私はこのところ毎日のように思い知っていた。


 大津城の暮らしは、表向きには何事もなく回っている。

 真琴様は安土と大津を行き来しながら政と軍略を担い、城下では真田幸村の農政が少しずつ土へ効き始め、母上様は変わらず静かに家の芯を支えておられる。お江は相変わらず賑やかで、桜子たちはよく働く。


 そして、お初もまた、ここにいる。


 ただ――その「いる」が、以前とは少し違っていた。


 その朝も、食事の間ではいつものように朝餉が整えられていた。囲炉裏の火は穏やかに赤く、湯気の立つ汁の匂いが木の天井へやわらかく上がっていく。私は母上様の少し下、お江は私の近く、桜子たちは配膳に回っていた。


 真琴様は少し遅れて入ってこられた。


「おはよう。今朝、湖風ちょっと強いね」


 そう言いながら座に着くその姿は、いつも通りだった。

 いつも通り、なのだが――その“いつも通り”に、一人だけうまく足を置けていない者がいた。


 お初である。


 お初はすでに座についていたが、真琴様が入ってきた瞬間、箸を持つ手がわずかに止まった。

 ほんの一瞬だ。

 お江なら気づかぬだろう。

 けれど私は、そういう小さな間を見逃せなくなっていた。


「お初」


 真琴様が自然に声をかける。


「何よ」


 返事の速さは以前と変わらぬ。

 だが、そのあとに続く顔が違う。


 昔なら、そこへさらに一言、「あんた朝から寒い寒いってうるさいわね」だの、「そんな格好で政が務まるの」だのと続いたはずなのだ。

 ところが今のお初は、そこまで勢いよく踏み込めない。踏み込もうとして、心のどこかで一度止まるのだ。


 その止まり方が、なんともお初らしくなくて、私は可笑しくもあり、胸の内が少しざわつくのでもあった。


「……風が強いなら、上着でも増やせば」


 ようやく出てきた言葉は、それだけだった。


 真琴様は少し笑われた。


「うん、そうする」


 それで会話は終わる。


 終わる、ということが、かえって妙だった。


 お江は何も気にせず、焼き魚へ箸を伸ばしながら言う。


「お初姉様、今日ちょっと静かだね」


「うるさいわね」


 即座に返すところは変わらない。

 だがその“うるさい”も、以前ほど勢いよくはない。


 私は汁をひと口含みながら、視線を伏せた。


 まだ馴染まぬ。

 それは、立場か、気持ちか、それともその両方か。


 朝餉のあと、私は表の間で贈答帳を開いていた。


 大津へ来てからも、女の仕事は尽きぬ。

 蔵のこと、台所のこと、来客の覚え、城下から上がる声の整理。真琴様が安土城へ上がる日はなおさら、城の内は私が見ておかねばならない。


 お初は、以前ならこうした机仕事の場へふらりと来ては、「姉上様また帳面?」などと呆れた顔をしたものだが、最近は少し違う。

 来る。

 だが、来たあとでどうすればよいかを測っている。


 その日も、お初は襖のところへ顔を見せたものの、すぐには入ってこなかった。


「何です」


 私が声をかけると、お初は少しだけ眉を寄せた。


「別に。ただ……」


「ただ?」


「母上様が、茶々を手伝えって」


 私はそこで手を止めた。


「それは、ありがたいことです」


「嫌味じゃないわよ」


「存じております」


 お初は、むっとした顔で中へ入ってきた。

 そして机の向かいへ座る。


 そこまでは良い。

 だが、その後どう手を出してよいかが分からぬらしい。帳面を見て、筆を見て、私を見て、また帳面を見る。そうしているうちに、余計にぎこちなくなっていく。


「お初」


「何」


「そんなに構えなくても、帳面は食べません」


「……誰もそんなこと思ってない」


 その返しに、ようやく少しだけ“いつものお初”が戻った気がした。


 私は帳面を一つ、お初の前へ寄せた。


「では、こちらを見なさい」


「何これ」


「城下からの米と塩の出入りです。どの村からどれだけ入り、どこへどれだけ回したか」


 お初は紙を受け取った。

 最初は面倒そうに見ていたが、やがて目の色が少し変わる。


「……これ、同じ村でも、月によって量が違うのね」


「ええ。田の具合も、人手も、天候も一定ではございませんから」


「ふうん」


「“ふうん”ではなく、きちんと見なさい」


「見てるわよ」


 その物言いには、ようやく以前の棘が戻っていた。

 私は内心で少し安堵した。


 お初はそのまま、指先で数字を追う。


「これ、先月より減ってる」


「干し魚へ回した分です」


「こっちは増えてる」


「冬支度へ先に入れました」


「……なるほどね」


 その“なるほど”は、思っていた以上に素直だった。


 私はふと、お初の横顔を見た。

 この妹は、分からぬことに素直に頭を下げるのは苦手だ。けれど、一度“筋”が見えれば、そこからは案外まっすぐ入っていく。


 ただ今は、帳面の筋より別のものの方が、この子を不器用にしているのだろう。


「姉上様」


 お初が、不意に帳面から顔を上げた。


「何です」


「私、前みたいに話してると変?」


 その問いは、思ってもみないほどまっすぐで、私は一瞬言葉に詰まった。


 お初は自分でも問うつもりはなかったのかもしれない。問い終えたあとで、自分の口から出た言葉に少しだけ驚いたような顔をしていた。


 私は筆を置いた。


「変、とは」


「だから……」


 お初は視線を逸らした。


「真琴に、前みたいに何でも言ってると……なんか、変な気がするのよ」


 私は黙って聞いた。


「でも、急によそよそしくするのも違うでしょ。だから、どこまでいつも通りでいていいのか、わかんないの」


 その言葉を聞いた時、私はようやく、この妹のぎこちなさの正体をきちんと見た気がした。


 お初は、お初のままでいようとしている。

 けれど“お初のまま”の中に、今までなかった気持ちが一つ混じってしまった。

 そのせいで、以前の自分の言葉や振る舞いを、そのまま使えなくなっているのだ。


 そして、その不自由さに、一番戸惑っているのはお初自身なのだろう。


「姉上様?」


 お初が少し不安そうに私を見た。


 私はそこで、なるべく穏やかに言った。


「前のままでよいところと、そうでないところがあるのでしょう」


「それが分からないから困ってるのよ」


「ええ」


 私は頷いた。


「ですから、今すぐすべて分かろうとしなくてよろしいのです」


 お初は眉をひそめた。


「そんなの、曖昧すぎる」


「人の心はたいてい曖昧です」


「姉上様は、そういうことをよく平気で言うわよね」


「平気ではありません」


 私は静かに返した。


「ただ、急いで形を決めてしまう方が、あとで余計に苦しいこともあります」


 お初はしばらく何も言わなかった。

 そしてやがて、小さく息を吐く。


「……姉上様、ずるい」


「何がです」


「そうやって、ちゃんとわかってる顔するところ」


 私は思わず少しだけ笑った。


「わかっているのではありません。見えているだけです」


「同じじゃない」


「違います」


 そこまで言うと、お初の口元がほんの少しだけ緩んだ。

 それを見て、私はようやく肩の力を抜いた。


 昼過ぎ、真琴様は安土城へ上がる前に一度だけ食事の間へ寄られた。


 冬前のこの時期は、安土と大津の往復がとくに忙しいらしい。

 茶を一杯飲む間も惜しいような日もあるが、その日は少しだけ時間があった。


「ただいま、って言うにはまだ早いか」


 そう言って座へ着く真琴様へ、桜子がすぐに茶を出す。

 お初は、さっきまで私と帳面を見ていたのに、真琴様が入ってきた瞬間、また少しだけ座り方を直した。


 そのわずかな動きが、いかにも“まだ馴染まぬ”気配を帯びている。


「何してたの」


 真琴様が気軽に問う。


「蔵の帳面を」


 私が答えると、お江がすぐに口を挟んだ。


「お初姉様、ちゃんと見てたよ」


「何その言い方」


「だって、ほんとにちゃんと見てたもん」


 お初は顔をしかめたが、真琴様は少しだけ驚いた顔をされた。


「へえ」


 その“へえ”だけで、お初の耳が少し赤くなるのが分かった。


「なによ、その反応」


「いや、別に悪い意味じゃないよ。ちゃんと見てるんだなって思っただけ」


「最初から見てるわよ」


「うん、そうだね」


 真琴様はそれ以上深く触れなかった。

 その自然さが、かえってお初を助けているのかもしれなかった。


 私はそのやり取りを見ながら思う。


 まだ馴染まぬ。

 だが、馴染まぬから駄目なのではない。

 馴染もうとしている、その途中にいること自体が、今は大事なのだろう。


 家の形が変われば、人の心も少し遅れて形を変える。

 その遅れを無理に詰めようとすれば、どこかが歪む。

 だから今は、このぎこちなさもまた、家の中へ置いておくしかないのだ。


 夕刻、私は一人で廊下を歩きながら、先ほどのお初の問いを思い返していた。


 前みたいに話してると変?


 変か、変でないか。

 そんなこと、本当は誰にも決められない。

 人の気持ちが変われば、以前と同じ言葉でも同じ意味にはならぬ。

 だからお初は戸惑い、私はそれを見て、姉として可笑しくもあり、女として少しざわつきもする。


 だが、それでも。


 お初は逃げてはいない。

 戸惑いながらも、ここにいて、蔵の帳面を見て、真琴様と同じ座敷の空気を吸っている。

 そのことに、私は少しだけ安心していた。


 逃げずに馴染もうとしているなら、あとは時間が要るだけだ。


 私は湖の見える廊下で立ち止まった。

 風は少し冷たくなってきている。

 冬が来る。

 城も家も、また一つ季節を越えねばならない。


 その季節を越える頃には、お初も少しは今の立場へ馴染んでいるだろうか。

 それとも、もっと別の形で、家の中へ波を立てるだろうか。


 今はまだ分からない。

 けれど、分からぬものを急いてはならぬ。


 私はそう自分へ言い聞かせ、大津城の風の中で静かに息を整えた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【書籍版案内】 13巻2026年2月25日発売 i1090839 i928698 i533211 533215 i533212 i533203 i533574 i570008 i610851 i658737 i712963 i621522 本能寺から始める信長との天下統一コミカライズ版☆最新情報☆電撃大王公式サイト i533528 i533539 i534334 i541473 コミカライズ版無料サイトニコニコ漫画
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ