茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・①⑨⑤話・第六話 お初の方、まだ馴染まぬ
人は立場が変わったからといって、すぐに心までその形へ馴染むものではない。
それを、私はこのところ毎日のように思い知っていた。
大津城の暮らしは、表向きには何事もなく回っている。
真琴様は安土と大津を行き来しながら政と軍略を担い、城下では真田幸村の農政が少しずつ土へ効き始め、母上様は変わらず静かに家の芯を支えておられる。お江は相変わらず賑やかで、桜子たちはよく働く。
そして、お初もまた、ここにいる。
ただ――その「いる」が、以前とは少し違っていた。
その朝も、食事の間ではいつものように朝餉が整えられていた。囲炉裏の火は穏やかに赤く、湯気の立つ汁の匂いが木の天井へやわらかく上がっていく。私は母上様の少し下、お江は私の近く、桜子たちは配膳に回っていた。
真琴様は少し遅れて入ってこられた。
「おはよう。今朝、湖風ちょっと強いね」
そう言いながら座に着くその姿は、いつも通りだった。
いつも通り、なのだが――その“いつも通り”に、一人だけうまく足を置けていない者がいた。
お初である。
お初はすでに座についていたが、真琴様が入ってきた瞬間、箸を持つ手がわずかに止まった。
ほんの一瞬だ。
お江なら気づかぬだろう。
けれど私は、そういう小さな間を見逃せなくなっていた。
「お初」
真琴様が自然に声をかける。
「何よ」
返事の速さは以前と変わらぬ。
だが、そのあとに続く顔が違う。
昔なら、そこへさらに一言、「あんた朝から寒い寒いってうるさいわね」だの、「そんな格好で政が務まるの」だのと続いたはずなのだ。
ところが今のお初は、そこまで勢いよく踏み込めない。踏み込もうとして、心のどこかで一度止まるのだ。
その止まり方が、なんともお初らしくなくて、私は可笑しくもあり、胸の内が少しざわつくのでもあった。
「……風が強いなら、上着でも増やせば」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
真琴様は少し笑われた。
「うん、そうする」
それで会話は終わる。
終わる、ということが、かえって妙だった。
お江は何も気にせず、焼き魚へ箸を伸ばしながら言う。
「お初姉様、今日ちょっと静かだね」
「うるさいわね」
即座に返すところは変わらない。
だがその“うるさい”も、以前ほど勢いよくはない。
私は汁をひと口含みながら、視線を伏せた。
まだ馴染まぬ。
それは、立場か、気持ちか、それともその両方か。
朝餉のあと、私は表の間で贈答帳を開いていた。
大津へ来てからも、女の仕事は尽きぬ。
蔵のこと、台所のこと、来客の覚え、城下から上がる声の整理。真琴様が安土城へ上がる日はなおさら、城の内は私が見ておかねばならない。
お初は、以前ならこうした机仕事の場へふらりと来ては、「姉上様また帳面?」などと呆れた顔をしたものだが、最近は少し違う。
来る。
だが、来たあとでどうすればよいかを測っている。
その日も、お初は襖のところへ顔を見せたものの、すぐには入ってこなかった。
「何です」
私が声をかけると、お初は少しだけ眉を寄せた。
「別に。ただ……」
「ただ?」
「母上様が、茶々を手伝えって」
私はそこで手を止めた。
「それは、ありがたいことです」
「嫌味じゃないわよ」
「存じております」
お初は、むっとした顔で中へ入ってきた。
そして机の向かいへ座る。
そこまでは良い。
だが、その後どう手を出してよいかが分からぬらしい。帳面を見て、筆を見て、私を見て、また帳面を見る。そうしているうちに、余計にぎこちなくなっていく。
「お初」
「何」
「そんなに構えなくても、帳面は食べません」
「……誰もそんなこと思ってない」
その返しに、ようやく少しだけ“いつものお初”が戻った気がした。
私は帳面を一つ、お初の前へ寄せた。
「では、こちらを見なさい」
「何これ」
「城下からの米と塩の出入りです。どの村からどれだけ入り、どこへどれだけ回したか」
お初は紙を受け取った。
最初は面倒そうに見ていたが、やがて目の色が少し変わる。
「……これ、同じ村でも、月によって量が違うのね」
「ええ。田の具合も、人手も、天候も一定ではございませんから」
「ふうん」
「“ふうん”ではなく、きちんと見なさい」
「見てるわよ」
その物言いには、ようやく以前の棘が戻っていた。
私は内心で少し安堵した。
お初はそのまま、指先で数字を追う。
「これ、先月より減ってる」
「干し魚へ回した分です」
「こっちは増えてる」
「冬支度へ先に入れました」
「……なるほどね」
その“なるほど”は、思っていた以上に素直だった。
私はふと、お初の横顔を見た。
この妹は、分からぬことに素直に頭を下げるのは苦手だ。けれど、一度“筋”が見えれば、そこからは案外まっすぐ入っていく。
ただ今は、帳面の筋より別のものの方が、この子を不器用にしているのだろう。
「姉上様」
お初が、不意に帳面から顔を上げた。
「何です」
「私、前みたいに話してると変?」
その問いは、思ってもみないほどまっすぐで、私は一瞬言葉に詰まった。
お初は自分でも問うつもりはなかったのかもしれない。問い終えたあとで、自分の口から出た言葉に少しだけ驚いたような顔をしていた。
私は筆を置いた。
「変、とは」
「だから……」
お初は視線を逸らした。
「真琴に、前みたいに何でも言ってると……なんか、変な気がするのよ」
私は黙って聞いた。
「でも、急によそよそしくするのも違うでしょ。だから、どこまでいつも通りでいていいのか、わかんないの」
その言葉を聞いた時、私はようやく、この妹のぎこちなさの正体をきちんと見た気がした。
お初は、お初のままでいようとしている。
けれど“お初のまま”の中に、今までなかった気持ちが一つ混じってしまった。
そのせいで、以前の自分の言葉や振る舞いを、そのまま使えなくなっているのだ。
そして、その不自由さに、一番戸惑っているのはお初自身なのだろう。
「姉上様?」
お初が少し不安そうに私を見た。
私はそこで、なるべく穏やかに言った。
「前のままでよいところと、そうでないところがあるのでしょう」
「それが分からないから困ってるのよ」
「ええ」
私は頷いた。
「ですから、今すぐすべて分かろうとしなくてよろしいのです」
お初は眉をひそめた。
「そんなの、曖昧すぎる」
「人の心はたいてい曖昧です」
「姉上様は、そういうことをよく平気で言うわよね」
「平気ではありません」
私は静かに返した。
「ただ、急いで形を決めてしまう方が、あとで余計に苦しいこともあります」
お初はしばらく何も言わなかった。
そしてやがて、小さく息を吐く。
「……姉上様、ずるい」
「何がです」
「そうやって、ちゃんとわかってる顔するところ」
私は思わず少しだけ笑った。
「わかっているのではありません。見えているだけです」
「同じじゃない」
「違います」
そこまで言うと、お初の口元がほんの少しだけ緩んだ。
それを見て、私はようやく肩の力を抜いた。
昼過ぎ、真琴様は安土城へ上がる前に一度だけ食事の間へ寄られた。
冬前のこの時期は、安土と大津の往復がとくに忙しいらしい。
茶を一杯飲む間も惜しいような日もあるが、その日は少しだけ時間があった。
「ただいま、って言うにはまだ早いか」
そう言って座へ着く真琴様へ、桜子がすぐに茶を出す。
お初は、さっきまで私と帳面を見ていたのに、真琴様が入ってきた瞬間、また少しだけ座り方を直した。
そのわずかな動きが、いかにも“まだ馴染まぬ”気配を帯びている。
「何してたの」
真琴様が気軽に問う。
「蔵の帳面を」
私が答えると、お江がすぐに口を挟んだ。
「お初姉様、ちゃんと見てたよ」
「何その言い方」
「だって、ほんとにちゃんと見てたもん」
お初は顔をしかめたが、真琴様は少しだけ驚いた顔をされた。
「へえ」
その“へえ”だけで、お初の耳が少し赤くなるのが分かった。
「なによ、その反応」
「いや、別に悪い意味じゃないよ。ちゃんと見てるんだなって思っただけ」
「最初から見てるわよ」
「うん、そうだね」
真琴様はそれ以上深く触れなかった。
その自然さが、かえってお初を助けているのかもしれなかった。
私はそのやり取りを見ながら思う。
まだ馴染まぬ。
だが、馴染まぬから駄目なのではない。
馴染もうとしている、その途中にいること自体が、今は大事なのだろう。
家の形が変われば、人の心も少し遅れて形を変える。
その遅れを無理に詰めようとすれば、どこかが歪む。
だから今は、このぎこちなさもまた、家の中へ置いておくしかないのだ。
夕刻、私は一人で廊下を歩きながら、先ほどのお初の問いを思い返していた。
前みたいに話してると変?
変か、変でないか。
そんなこと、本当は誰にも決められない。
人の気持ちが変われば、以前と同じ言葉でも同じ意味にはならぬ。
だからお初は戸惑い、私はそれを見て、姉として可笑しくもあり、女として少しざわつきもする。
だが、それでも。
お初は逃げてはいない。
戸惑いながらも、ここにいて、蔵の帳面を見て、真琴様と同じ座敷の空気を吸っている。
そのことに、私は少しだけ安心していた。
逃げずに馴染もうとしているなら、あとは時間が要るだけだ。
私は湖の見える廊下で立ち止まった。
風は少し冷たくなってきている。
冬が来る。
城も家も、また一つ季節を越えねばならない。
その季節を越える頃には、お初も少しは今の立場へ馴染んでいるだろうか。
それとも、もっと別の形で、家の中へ波を立てるだろうか。
今はまだ分からない。
けれど、分からぬものを急いてはならぬ。
私はそう自分へ言い聞かせ、大津城の風の中で静かに息を整えた。




