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茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・①⑨②話・第三話 母上様は見ている

大津城の朝は、女たちの気配から始まる。


 まだ空の色が薄く、水面の向こうに朝日が上がりきらぬ頃でも、御殿の中ではすでに小さな音がいくつも重なっている。廊下を拭く布の擦れる音。湯殿へ湯桶を運ぶ足音。台所で包丁の当たる乾いた響き。誰かが障子を少しだけ開け、湖風を入れる気配。


 男たちの城というものは槍や具足で立っているように見えるが、実際に人を住まわせているのは、こうした女たちの朝の手であると、私は大津へ移ってから幾度も思い知った。


 その朝、私はいつもより少し早く起きて、まだ人の集まりきらぬ仏間へ向かった。


 母上様――お市は、すでにそこにおられた。


 浅く整えられた花。香の薄い煙。父上様や御祖父様の位牌へ向かい、静かに手を合わせる後ろ姿は、やはりこの城の中で最もよく“芯”を感じさせるものの一つだった。強く声を張るでもなく、政の座に出るでもない。けれど、この方が一人ここに座しておられるだけで、家の内がまっすぐ立つように思える。


 私は音を立てぬよう、少し後ろへ座し、同じように手を合わせた。


 しばらくして読経が終わり、母上様が私へ顔を向けられる。


「早いですね、茶々」


「母上様こそ」


「年を取ると、眠りが浅くなるのです」


 そう仰って、母上様は小さく笑われた。

 笑っておられるが、その目はすでに私の顔色を見ている。いつだってそうだ。私は幼い頃から、母上様の前でだけは、黙っていても黙りきれぬ。


「何かございますか」


 私が先にそう申すと、母上様は少しだけ首を傾げられた。


「そなたの方から聞きますか」


「母上様は、何もない時の顔ではございません」


「そうですか」


 その一言で、母上様はそれ以上言葉を濁さなかった。


 私は、そこでひとつ覚悟をした。

 この方は、もう見ておられるのだ。


 何を。

 それは、申さずとも分かっていた。


 ep.113――あの一件以来、家の中の空気は確かに少し変わった。誰もそれを大きく言葉にしないし、むしろ皆、普段通りに振る舞おうとしている。けれど普段通りに振る舞おうとする時ほど、人は普段と違う。


 お初は、真琴様へ向ける言葉を以前より少し選ぶようになった。

 以前なら勢いのままに「何よあんた」などとぶつけていた物言いが、途中で一瞬止まり、そこで言い直されることがある。

 その一瞬のためらいを、母上様が見逃しているはずがなかった。


「お初のことですね」


 私がそう申すと、母上様は静かに頷かれた。


「ええ」


 それだけで充分だった。


 母上様は仏間から続く小さな控えの間へ移られた。私はその後ろについていき、女中が入れた薄茶を前へ置かせる。


 窓の向こうでは、湖風に朝の光が乗り始めていた。

 水の近い城は、朝が白い。


「そなたは、どう見ていますか」


 母上様が先に問われた。


「どう、と申されますと」


「お初の変わりようを」


 私はすぐには答えなかった。


 見えていないわけではない。

 むしろ、見えすぎるほど見えている。


 お初はまだ自分の立場へ馴染みきってはいない。

 家の中での新しい位置。真琴様との距離。私とのあいだにあるもの。すべてをどう扱えばよいか分からぬまま、それでも以前と同じ顔だけではいられぬことを、あの子自身が一番よく感じているのだろう。


「……戸惑っております」


 私はようやくそう答えた。


「ええ」


「無理もありません。あの子はもともと、気持ちを器用に分けて置ける性分ではございませんから」


 母上様は、茶碗を持つ指をわずかに止められた。


「姉としては、そう見えるのですね」


「はい」


 私は視線を少し落とした。


「妹として見れば、あの子が不器用なのは昔からです。ですが今は、その不器用さがただの可笑しさでは済まぬところへ来ております」


 そこまで言って、私は少しだけ胸の内を整えた。

 母上様の前で取り繕うことは出来ぬ。ならば、あまり曖昧な物言いもしたくなかった。


「茶々」


「はい」


「そなたは、苦しいですか」


 その問いは、驚くほど静かな声でなされた。

 だが静かだからこそ、深く刺さった。


 私はすぐに「いいえ」とは申せなかった。

 苦しくない、と言えば嘘になる。

 だからといって、「苦しいのです」と言い切ってしまえば、それもまた違う。


「……わかりません」


 私は正直に申した。


「時に、胸の奥が少しざわつきます。正室として、姉として、御方様として、どの顔で見ればよいか迷うことがございます」


 母上様は、私の言葉を遮らずに聞いておられた。


「ですが」


 私は続けた。


「だからといって、お初を責める気持ちはございません。あの子は、あの子なりに一生懸命に立っているのだと分かりますから」


「ええ」


「ただ……」


「ただ?」


 私は小さく息を吸った。


「私の中に、やはり“女としての気持ち”がまったくないとは申せません」


 そこまで言うと、部屋が少しだけ静かになった気がした。

 いや、実際に静かになったのではなく、私の中の方がようやくその言葉へ追いついたのかもしれぬ。


 母上様は、少しも驚かれなかった。


「よいのです」


 ただ、そう仰った。


「それを持つことは、恥でも、浅ましさでもありません」


 私はその言葉に、ほんのわずか肩の力が抜けるのを感じた。

 母上様は続けられる。


「家は、感情で壊れもします」


 その一言で、私は背筋を伸ばした。


「ですが」


 母上様の目は静かだった。


「感情を収めれば、家は強くなります」


 私は息を止めた。


 壊れもする。

 強くもなる。


 その両方を、母上様は一言で言ってしまわれた。


 私は母上様の人生を知っている。

 浅井の滅び。信長公の庇護。柴田との婚儀。死別。黒坂家へ預けられるようにして移り住んだ今。

 感情が家を壊すのも、感情を収めた女が家を支えるのも、この方は身をもって知っておられるのだ。


「母上様は……」


 私は問うた。


「私に、どうせよとお考えですか」


 母上様は少しだけ目を細めた。


「何も急ぐな、と申したい」


「急がぬ」


「ええ。お初もまだ、自分の心に名をつけきれてはおらぬでしょう。そなたもまた、どう受け止めるべきかを定めきってはおらぬ。ならば今、無理に言葉で縛れば、皆が無用に傷つく」


 私はその言葉に、静かに頷いた。


 たしかに、その通りだ。

 家の中に生まれたものを、早く整えようとして急に押し込めれば、かえって歪む。

 それは蔵も、人の心も同じなのかもしれない。


「見ていなさい」


 母上様はそう仰った。


「見て、急がず、しかし見失わず。御方様とは、本来そういう役目でもあります」


 私はその言葉を、胸の奥へゆっくりと落とし込んだ。


 その日の昼、お初は食事の間に少し遅れて入ってきた。


 以前なら「なんでそんなところに座るの」などとお江へ真っ先に文句を言うところだが、今は一瞬だけ皆の位置を見て、自分の場所を測るようになっている。

 それが成長とも見えるし、不器用さの現れとも見えた。


「お初」


 私が名を呼ぶと、お初は少しだけ顔を上げた。


「何」


「今日は後で、蔵の帳面を一緒に見ます」


「私が?」


「ええ。大津にいる以上、蔵の流れも知っておきなさい」


 お初は一瞬だけ、何か言い返しそうな顔をした。

 だが、結局はただ「わかった」とだけ言った。


 その返事のあっさり具合に、私は逆に少し意外さを覚えた。

 だがきっと、そうして家の実務の中へ身を置くことが、今のお初には必要なのだろう。


 お江は横からすぐに口を挟む。


「お初姉様、前も蔵見たじゃん」


「見たのと、帳面読むのは違うの」


「姉上様みたいなこと言ってる」


「……うるさい」


 その短いやり取りに、私は思わず少しだけ笑った。


 母上様は食事の間の少し上座から、その様子を何も言わず見ておられた。

 だが、その沈黙が何より雄弁だった。


 見ている。

 急がない。

 けれど、何も見落としてはいない。


 それが、今の母上様だった。


 夕方、私は帳面を前にお初と向かい合った。


 米の入り、塩の残り、味噌桶の熟れ具合、炭の減り。

 お初は最初こそ「細かい」と顔へ書いていたが、次第に黙って数字を追うようになった。


「ここ」


 やがて、お初が指を置いた。


「この前より、塩の出が少し多くない?」


 私はその指先を見た。


「ええ。魚の干し方を少し増やしたからです」


「冬を見越して?」


「そうです」


 お初は、なるほど、と小さく言って黙り込んだ。

 その顔を見ていると、やはりこの妹は“家の内側へ入っていく力”を持っているのだと思う。


 ただ、その力が今どこへ向かうのか、それがまだ定まっていないだけだ。


「姉上様」


「何です」


 お初は帳面を見たまま、ぽつりと言った。


「母上様と、何を話してたの」


 私は手を止めた。


 見られていたのだろうか。

 いや、お初は母上様の顔色を読む。ならば朝の仏間のあと、何かを感じていても不思議ではない。


「家のことです」


 私は、なるべくそのまま答えた。


「家のこと?」


「ええ。家が大きくなるほど、目も手も増やさねばならぬと」


 お初はそこで少しだけ私を見た。


「……そう」


「何かありますか」


「別に」


 その返しは、まことにお初らしい。

 だが私は、その“別に”の奥にあるものを今は追わなかった。


 母上様の言葉が胸の内に残っていたからだ。


 家は感情で壊れもするが、感情を収めれば強くなる。


 今はまだ、見ているべき時なのだろう。


 夜、私は一人になってから、昼間のことを思い返した。


 母上様の静かな声。

 お初の、まだ馴染まぬ気配。

 そして、自分の胸の内に確かにある“女としてのざわめき”。


 それらを無理に否定するのでもなく、かといってすぐ形にするのでもなく、ただ抱えたまま家を見ていくこと。

 それが今の私に出来る最善なのだと、少しずつ分かってきた気がする。


 御方様とは、表で客を迎え、蔵を整え、湯と食事を回すだけの役ではない。

 家の中に生まれる感情まで見て、急がず、だが見失わずに収めていく役でもある。


 それは、想像していたよりずっと難しい。

 だが、だからこそ逃げてはならぬのだろう。


 私は灯の前に座り、静かに思った。


 母上様は見ている。

 そして私もまた、見ていかねばならない。


 家が壊れぬように。

 それでいて、家が強くなる道を失わぬように。


 その難しさごと受け止めることが、今の私に課された役目なのだと、ようやく少しだけ分かり始めていた。

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