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茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・①⑨③話・第四話 真田幸村の報告、村女たちの顔

真田幸村から上がってくる文は、実に面白みがなかった。


 私は最初の数通を前にした時、正直に言って、少しだけ眉をひそめたほどである。


 どの村の用水をどれだけ見回ったか。

 どの田に水が足りぬか。

 種籾の配り方をどう改めたか。

 村役人の申す見積もりと、実際の人手にどれほど差があるか。

 年貢の取り立てを早めれば次の植え付けに響くゆえ、どこを均し、どこを急がせるべきか。


 どれも大事なことなのだろう。

 だが、花のような華やぎもなければ、軍の評定のような高ぶりもない。ただひたすらに、土と水と人の手の数ばかりが記されている。


 私はその朝も、食事の間の脇に置いた帳面机で、その報告を読み返していた。


「御方様、お茶を」


 桜子がそっと置いた湯呑から、やわらかく湯気が立つ。

 私は一口含み、それからまた文へ目を落とした。


 湖西筋三村、用水見分。

 下手より水入れ急がせると上手の田が痩せるゆえ、堰を二つに分ける。

 種籾は去年と同じ割りでは足りぬ村あり。

 女手の多い家には苗代の手順を先に教え置くべし――。


 私はそこでふと手を止めた。


「女手の多い家には、苗代の手順を先に教え置くべし……」


 思わず声に出してしまうと、桜子が少し首を傾げた。


「何か気になる文言がございましたか」


「ええ」


 私は文を持ち上げた。


「幸村は、男衆の数だけを見ているのではないようです」


 桜子は一歩近づき、私の手元を覗き込む。


「女手、にございますか」


「はい。村では、男が水路を見に出れば、その間、残る者が苗代を保たねばなりません。ですから、そこまで見越して手順を先に教える、と」


「細ようございますね」


「細かい、とも申せます」


 私はそう答えたが、その“細かさ”がどこまで本気なのか、まだ私には測りきれていなかった。


 その時、廊下の向こうからお初の声がした。


「姉上様、母上様がお呼び」


 私は顔を上げた。


 お初は襖の外に立っていたが、以前のように無造作に中へ踏み込んではこない。

 声の調子はいつも通りでも、立ち位置に、ほんのわずかな慎みが残る。私はそれを見て、やはりあの子もまだ、自分の新しい位置を探っているのだと思った。


「母上様が?」


「ええ。村の女たちが城へ来てるそうよ」


 私はそこで文をたたんだ。


「村の女たち?」


「なんでも、今年の田のことでお礼だか願いだか、そういう話らしいわ」


 お初の言い方はぶっきらぼうだったが、興味がないわけではないことは分かる。

 私は立ち上がった。


「参りましょう」


「私も?」


「あなたが呼びに来たのでしょう」


「そうだけど」


 お初は少しだけ口を尖らせたが、結局は私の隣へ並んだ。

 こうして歩くと、背丈はもうだいぶ近い。幼い頃には、私の後ろを追ってばかりいた妹が、今では同じ城の同じ空気を背負うようになっているのだから、不思議なものである。


 母上様は、広間の一つを開けておられた。


 そこには村から来たらしい女たちが三人、少し緊張した顔で座していた。皆、きれいに洗ってはいるが、手の節や爪の先に土仕事の跡が残っている。

 城の女たちとは違う。

 だが、だからこそ、その顔色や目の動きが、この春の暮らしをそのまま映しているように見えた。


 母上様は私たちを見ると、静かに手を招かれた。


「茶々、お初。こちらへ」


 私は一礼し、少し下座へついた。

 お初も隣へ座る。


 村女たちは、私たちが入ってきたことでさらに背を固くしたが、母上様がやわらかく言葉を添えると、少しずつ口を開き始めた。


「今年は……ようやく田の話が出来るようになりまして」


 年嵩の女が、そう言って深く頭を下げた。


「去年までは、水がどう来るか、種がいつ届くか、そればかりで、春になっても気が急いておりました」


 別の若い女も続ける。


「でも、今年は先に村役へ手順が下りて、女手の家へも苗代の仕方を教えてくださると聞きまして」


 私は、その言葉にわずかに目を上げた。

 先ほど文で見た一文と重なる。


「それで、今年はどこへどれだけ植えるか、ようやく家の中で話が出来ましてございます」


 その一言を聞いた時、私はようやく、幸村の文の意味が少しだけ腹へ落ちた気がした。


 今年はどこへどれだけ植えるか。

 ただそれだけの話ではない。

 それを家の中で話せるということは、先の見通しを持てるということだ。

 見通しがあるから、春の間に何をし、秋にどう備えるかを決められる。

 人は、不安に呑まれている時には“今年の田”など語れぬ。

 語れるということは、それだけで暮らしに安堵が戻っているのだ。


 母上様は、その女たちの話を穏やかに受け止めながら、ただ一度も大仰なことを仰らなかった。


「それはようございました」


 それだけである。

 だが、その一言の重みを、私はよく知っていた。

 余計に恩を着せぬ。

 手柄話にせぬ。

 暮らしが回り始めたことを、ただそのまま受け取る。

 これが母上様の強さだ。


 私はその横顔を見ながら、城の奥を預かる女とはこういうものかと、改めて思った。


 村女たちが去ったあと、部屋にはしばし静けさが残った。

 外では湖風が障子をわずかに鳴らしている。


「姉上様」


 お初が先に口を開いた。


「何です」


「あの真田、百姓相手にも理屈を通すのね」


 私は少しだけ目を細めた。


「褒めておりますか」


「別に」


 即座にそう返すあたりが、いかにもお初である。

 だが、その後の言葉が続いた。


「ただ、武辺者って、力で押せば人は動くと思ってる者も多いでしょう。でも、今の話を聞くと、あれはそうじゃないみたい」


 母上様が、わずかに口元をやわらげられた。


「お初」


「何よ、母上様」


「それを、世の人は“褒める”と申すのです」


 お初は少しむっとした顔をしたが、言い返さなかった。

 私はその横顔を見て、思わず少しだけ笑みをこぼした。


「でも」


 お初は、なおも続けた。


「理屈ばかり並べるのではなく、ちゃんと村の手を見ているのは……まあ、嫌いじゃないわ」


 今度こそ、私ははっきりと笑った。


「十分に褒めております」


「姉上様がそう言うなら、もういい」


 お初はそっぽを向いたが、耳だけ少し赤い。

 母上様は何も言わず、ただ静かにお茶を口へ運ばれた。


 その日の夕刻、真琴様が安土城から戻られると、私はすぐに今日のことをお伝えした。


「村の女たちが城へ来たのです」


「へえ」


「今年はようやく田の話が出来るようになった、と」


 真琴様は、その一言で少しだけ顔つきを変えた。


「……それなら、幸村の仕事はちゃんと土に入ったね」


 私は、その表現にまた少しだけ心を引かれた。


 土に入る。

 帳面の上で止まらず、人の手と田の水に落ちていく。

 そうして初めて、政は意味を持つ。


「幸村の文は、相変わらず数字ばかりで面白みはありません」


 私がわざとそう申すと、真琴様は笑われた。


「うん、あいつの報告はたぶんそうなる。面白みより先に、抜けがない方を選ぶから」


「ですが」


 私は続けた。


「今日、村女たちの顔を見て、少し分かった気がいたします。農政とは、数字を整えることではなく、人が今年の田を語れるようにすることなのですね」


 真琴様は、そこで静かに頷いた。


「そう」


 それだけだった。

 だが、その短い肯定が、妙に嬉しかった。


 私はそこでようやく、自分の中で農政という言葉が、遠い“男の外仕事”ではなくなっていることに気づいた。

 蔵の米、台所の味噌、村の苗代、女たちの顔。

 それらは皆、一本の線で繋がっている。


 真田幸村は土を預かる。

 ならば私は、この城の内を預かる。

 預かるものは違っても、守ろうとしているものの形は、案外よく似ているのかもしれない。


 そう思いながら、私は食事の間の囲炉裏の火を見つめた。

 火は静かに、しかしたしかに燃えていた。

 城もまた、そうであらねばならぬのだろう。

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