茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・第二話 御方様の蔵、お初の視線
大津城の朝は、風の匂いで分かる。
湖から上がる湿り気のある冷たさが、石垣の隙を抜け、廊下の板を伝い、障子の紙をわずかに鳴らす。その風の強さで、その日が湯殿を急がせる日か、火鉢を早めに整えさせる日か、少しずつ判断がつくようになってきた。
その朝、私は食事の間で真琴様を送り出したあと、すぐには帳面机へ戻らなかった。
「桜子、今日は蔵を見ます」
そう告げると、桜子はすぐに顔を引き締めた。
「米蔵からでよろしゅうございますか」
「ええ。米、塩、味噌、それに干物の置き方も。秋の実りが見え始めている今だからこそ、入る前の蔵をきちんと整えねばなりません」
梅子も桃子も、奥で聞いていたらしく、すぐに出てきて頭を下げた。
そこへ、少し遅れてお初が現れた。
「蔵を見に行くの?」
「ええ」
「私も行くわ」
その言い方は以前と変わらず、ややぶっきらぼうだ。
だが私は、そのぶっきらぼうさの奥に、少しだけためらうようなものを感じていた。
ep.113のあの一件以来、お初は以前より一歩引いて物を見るようになった。
それが慎みなのか、戸惑いなのか、あるいはその両方かは、まだ私にも分からない。
「来なさい」
私はただそれだけを言い、立ち上がった。
お江も当然のようについてこようとしたので、私は振り返る。
「お江」
「なに?」
「今日は遊びではありませんよ」
「遊びじゃないもん。蔵、見たい」
「見たい、で済む場所ではありません」
するとお江は頬をふくらませた。
「でも、何がどれくらいあるか知らないと、ごはんのありがたみ分かんないでしょ」
私は思わず少しだけ目を細めた。
その言い方は妙にもっともらしい。
お初が横で鼻を鳴らす。
「あんたにしては、ましなこと言うじゃない」
「“にしては”ってなに」
「そのままよ」
また始まりそうな気配がしたので、私は先に歩き出した。
「二人とも、蔵の中では静かに」
「はーい」
「……わかってる」
返事の質がまるで違う。
だが、それもまたいつものことだった。
大津城の蔵は、城の心臓のようなものだ。
外から見ればただの重い戸のついた建物にすぎぬ。だが一度中へ入れば、そこにはこの城が冬を越すための骨と血が詰まっている。
米俵の積み方、塩の置き場、味噌桶の並び、干した魚の陰干しの具合。
どれか一つが乱れれば、たちまち暮らしに響く。
蔵番の者が戸を開けると、乾いた米の匂いと、木と土の冷えた気配がふっと流れ出た。
私はまず、入口で立ち止まって全体を見た。
この“最初の一目”が大事だ。
細かな数字は帳面で見ればよい。だが蔵そのものの呼吸は、最初に中へ入った時の空気で分かることがある。
「湿りは少ないですね」
私がそう言うと、桜子が頷く。
「ここ数日は風もよく、戸の開け閉めも控えめにしておりましたゆえ」
「よろしい」
梅子はすでに帳面を開き、蔵番の者から数の確認に入っている。
桃子は米俵の結び目などをじっと見ていたが、やがて小さく声を上げた。
「御方様、この俵、少し紐が緩いのです」
私はすぐにそちらへ寄った。
たしかに一本、締めが甘い。
これくらい、と見逃せばそこから崩れる。
「締め直しなさい」
「はっ」
蔵番がすぐに動く。
私はその様子を見届けてから、次に塩の置き場へ向かった。
塩は湿気に弱い。
だが米と違い、近くに置かねばならぬ場面もある。
戦の城である前に、人が暮らす城である以上、こうした実際の置き分けが女の目にも入っていなければならない。
その時だった。
後ろで、お江の声がした。
「こんなにいっぱい要るの?」
振り向くと、お江が米俵を見上げている。
「食べる分だけあればいいじゃん」
私は軽くため息をついた。
「お江」
「なに」
「食べる分だけで足りるなら、城に蔵は要りません」
「でも、こんなにいっぱいあっても、一度に食べられないよ」
「一度に食べぬから、要るのです」
お江は首を傾げた。
横でお初が、少し呆れた顔で口を挟む。
「あんた、冬って知ってる?」
「知ってるよ」
「雪が降ったり、風が強かったり、船が出しにくかったりするの。そういう時に“今日食べる分だけ”じゃ済まないのよ」
お江は、むう、と唇を尖らせた。
「……じゃあ、未来のごはんがここにあるってこと?」
私はその言葉に、少しだけ感心した。
「ええ。そう思いなさい」
「未来のごはん」
お江はそれを口の中で転がすように言い、少し真面目な顔になった。
この子は、難しい理屈より、こういう言い方の方がよく入る。
私は米俵へ手を置きながら思った。
たしかに蔵とは、未来のごはんを守る場所なのだ。
そしてそれは同時に、未来の暮らしを守る場所でもある。
味噌蔵へ移ると、今度はお初の方がよく見ていた。
「去年より桶の並びが揃ってる」
「気づきましたか」
「前に見た時より、無駄な隙間がない」
私はお初の横顔を見た。
この妹は、こういうところを案外よく見る。
表向きは興味がないような顔をしていても、目はきちんと働いている。
「味噌は冬を越える力になります。だから、置き方にも無駄があってはなりません」
「そうね」
お初は頷いたあと、少しだけ言いにくそうに続けた。
「……姉上様、前よりこういうの、よく見るようになったわね」
私はそこで、少しだけ笑った。
「大津で暮らすようになってからです」
「安土にいた頃から、帳面は見ていたじゃない」
「帳面と蔵は違います」
私は味噌桶の木肌を指先で軽く叩いた。
「帳面では数しか見えません。でも蔵へ入れば、匂いも、湿りも、詰まり方も見える。家を預かるというのは、数字の上だけでは済まぬのです」
お初は私の言葉を聞いて、少し黙った。
その沈黙の中に、以前のような反発はない。
かといって、完全に素直でもない。
だが今のその間合いが、かえってお初らしくもあった。
「……なるほどね」
そう呟く声は、珍しく静かだった。
私はそれ以上何も言わなかった。
今は、教え諭すより、同じ蔵の中で同じ空気を吸うことの方が大事な気がしたからだ。
ひと通り見回りを終え、最後に炭と薪の置き場へ移った時、私は三人の妹たち……いや、桜子たちも含めた“女の目”の違いを改めて感じていた。
桜子は全体の流れを見る。
梅子は数字と整いを見る。
桃子は細かな綻びを見つける。
お江は暮らしの感覚で問う。
そして、お初は、無駄や歪みを見抜く。
同じ蔵を見ていても、皆、違うところへ目が行く。
それが今の大津城の奥を支えているのだと思えば、少し胸があたたかくなった。
見回りが終わって外へ出ると、湖風が頬を撫でた。
お江は大きく息を吸い込み、
「なんか、おなかすいた」
と言った。
私は思わず笑ってしまった。
「未来のごはんを見たからですか」
「うん。あれだけ見たら、なんか食べたくなる」
お初が横で呆れたように言う。
「あんたってほんとに単純」
「でも食べたくならない?」
お江がそう返すと、お初は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……少しは」
その返事があまりにもらしくて、今度は私が声を立てて笑いそうになった。
桜子たちまで顔を見合わせ、少しだけ口元を緩めている。
その時、私はふと思った。
蔵を守ることは、物を守ることだけではない。
こうして女たちが同じものを見て、同じ先の暮らしを考える、その空気を守ることでもあるのだと。
そして、お初が今やその輪の外にいるのではなく、ちゃんと内側へ入ってきていることを、私ははっきり感じていた。
以前の妹のままではない。
まだ新しい立場へ馴染みきってはいない。
けれど、家の中を預かる側へ、少しずつ足を踏み入れている。
私は湖の方を見た。
大津城の暮らしは、こうして土の匂いのする蔵の中からも作られていく。
そしてその暮らしの中へ、私も、お初も、お江も、それぞれの形で組み込まれていくのだろう。
そう思うと、この朝の蔵見は、ただの見回り以上の意味を持っているように感じられた。




