茶々視点外伝『大津城帰還政所”』編・①⑧⑨話・第一話 土を預かる者、城を預かる者
大津城へ戻ってから、朝の空気が少し変わった気がしていた。
安土にいた頃の朝は、どこか張りつめていた。
義父・織田信長の城下に置かれた黒坂屋敷は、息をすることさえ見られているような気配があり、障子を開ける音、湯を運ぶ足音、侍女の一礼の深さまで、すべてがそのまま“家の顔”として外へ伝わるように思えた。
だが大津は違う。
もちろん城である以上、気を抜いてよい場所ではない。
比叡山を睨み、湖を押さえ、城下を抱えたこの城が、ただの住まいで済むはずもない。
それでも、安土とは違い、ここには私たちの暮らしが先に根を下ろしている。湯殿の湯気、食事の間の囲炉裏、庭を渡る湖風、台所から流れる出汁の匂い。そうしたものが、ようやく城の中へ自然に染み込んできた。
私はその朝も、食事の間に早くから入っていた。
囲炉裏にはもう火が入っている。
桜子が朝餉の支度を整え、梅子が湯殿へ回す湯の具合を見に行き、桃子は盆へ小鉢を並べては、少し首を傾げて位置を直していた。
「御方様、お茶を」
桜子がいつも通り静かに差し出してくる。
私は受け取り、湯気の向こうを見た。
真琴様はまだ来ておられぬ。
だが、今日は起きてこられる前から、何やら胸の内で引っかかるものがあった。
昨夜、真琴様は戻りが遅かった。
湯へ入られ、軽く食を口にし、そのまま少しだけ話をしたのだが、その中で義父から新たな役目を命じたという話が出ていた。
――真田幸村を、農政奉行に据える。
その一言が、私の中でまだうまく落ちていなかった。
やがて、廊下の向こうから足音がした。
真琴様である。
「おはよう……大津の朝は、安土よりちょっと湿ってるね」
そう言いながら入ってこられた真琴様は、すでに半ば目が覚めている顔であった。
この方は、寝起きの顔と政の顔のあいだに、ほとんど隙間がない。ふにゃりとしているようでいて、急に話が政へ飛んでもきちんと受けられるから不思議だ。
「おはようございます」
「おはよう、茶々」
真琴様は座につき、出された茶を一口含んでから、少しだけほっとした顔をなさった。
その様子を見てから、私は昨日の話を切り出した。
「真田幸村を、農政奉行に」
「うん」
返事は軽い。
だが軽いのは口ぶりだけで、決して軽く決めたことではないのだろうと分かる。
「正直に申し上げます」
「はい」
「最初に伺った時、少し意外でした」
真琴様は茶碗を持ったまま、こちらを見た。
「幸村が?」
「ええ。武辺者が土を相手にするなどと」
すると真琴様は、小さく笑った。
「武辺者だからだよ」
「……どういうことです」
「兵を動かす前に、まず田を動かせるかが家の力だから」
私はその言葉を、黙って受けた。
真琴様は続ける。
「強い兵が欲しい、鉄砲が欲しい、城を持ちたい――みんなそこばっかり見るけど、結局それって、米があって、人が食えて、来年の種が残って、道が通ってることが前提なんだよ。だから、田畑を見られない武辺者は、本当は半分しか戦を分かってない」
朝の囲炉裏端で語るには、ひどく大きな話であった。
だが、この方はこういう時、妙に分かりやすい。
兵を養う前に、田を養う。
戦を語る前に、土を語る。
それは理としては分かる。分かるのだが、私の中ではまだ少し遠いものでもあった。
農政。田。用水。種籾。
そうした言葉は、これまで私にとって、城の中から見る“外の仕事”であったからだ。
その時、お江が眠そうな顔で入ってきた。
「朝から難しい話してる……」
「起きたなら顔を洗いなさい」
「はーい……で、何の話?」
「田の話です」
「田んぼ?」
お江はすぐに顔をしかめた。
「えー、朝ごはんの時に泥の話やだ」
私は思わず少し笑ってしまった。
真琴様も同じだったらしく、口元をゆるめる。
「泥の話じゃないよ。米の話」
「ごはんの話?」
「そう」
「じゃあ大事」
お江はそれだけで納得したようだった。
こういうところは本当に単純で助かる。
だが私は、お江のその一言に、逆に少し引っかかった。
米の話。
そう、農政とはつまり、ごはんの話でもあるのだ。
城の中の女たちにとっても、台所に立つ者にとっても、蔵を預かる者にとっても、それは決して遠い政ではない。
真琴様は朝餉に箸をつけながら、さらに言った。
「茶々も、蔵の出入りとか台所の見通しとか、前よりよく見てるでしょ」
「見ております」
「それを国全体でやると思って」
私はそこで、少しだけ目を細めた。
「国全体、にございますか」
「うん。誰がどれだけ持ってるか、どこが足りないか、どこを先に助けるか。そういうのを、田と人と道で考える。農政って、要するにそういうこと」
それを聞いた時、私は初めて、真田幸村の新しい役目が少しだけ自分の仕事へ繋がるように思えた。
蔵の中身を見て、足りぬものを補い、無駄に減らさぬよう気を配る。
台所の動きを見て、季節が変わる前に塩と味噌の具合を考える。
女たちの暮らしを支えるために、目に見えぬ先回りをする。
それをもっと大きな単位でやるのが、農政なのだと。
その日の昼、大津から一通の文が届いた。
母上様からである。
私は表の間でそれを開いた。
文には、大津近辺の村から上がってきた話がいくつか記されていた。用水の見回りが早くなったこと、種籾の配り方に筋が通っていること、村役人の顔つきが少し変わったこと。
そして母上様らしい静かな筆で、こうあった。
「村の女たちが、ようやく今年の田を語り始めた」
私は、その一文のところで指を止めた。
今年の田を語る。
それは、当たり前のようでいて、当たり前ではないのだろう。
先の見えぬ時には、人は今年の田のことなど語れぬ。ただ目の前の不安をやり過ごすだけで精一杯になる。
だが、“今年はどう植える”“秋にはどうなる”“冬はこう越す”と話せるなら、それだけで暮らしには見通しが戻っている。
私は、文をもう一度最初から読み返した。
数字は少ない。
だが、その一文だけで十分だった。
農政とは、報告の帳面に記される数字だけではない。
村の女たちが、今年の田を語れるようになること。
それが、土を預かる者の仕事の成果なのだ。
「御方様」
桜子が、そっと声をかけた。
「何です」
「大津はいかがにございますか」
「……良い兆しが見え始めているようです」
私はそう答えた。
「村の女たちが、今年の田を語り始めたと」
桜子はその意味を考えるように、少し黙った。
それから、静かに頷く。
「それは、ようございました」
「ええ」
私は文を胸の前で折りたたんだ。
安土にいた頃なら、こうした報せもどこか遠い話として聞いたかもしれぬ。
だが今の私は違う。
蔵の中身が城の暮らしを決めることを知っている。
米の流れが、女たちの顔つきさえ変えることを知り始めている。
その時、障子の向こうからお初の声がした。
「姉上様。母上様から何か」
私は顔を上げた。
お初は入ってくる時の一礼こそ以前より落ち着いたが、それでもまだどこか“入り方”を測っている気配があった。
ep.113で立場が変わってから、あの妹は以前ほど無遠慮ではなくなった。
それが可笑しくもあり、少し寂しくもある。
「大津の村のことが少し」
「真田幸村の、ですか」
「ええ」
お初はそこで、わずかに眉を寄せた。
「あの男、理屈ばかり多そうに見えて、百姓相手にもよう筋を通すと母上様が」
私はその物言いに、少しだけ目を見開いた。
「褒めているのですか」
「褒めてなど」
お初は即座に否定した。
だが、その否定の速さが逆に答えだった。
「ただ、話を聞けば、理だけで押しているわけではないようだと」
「それは、褒めております」
私が重ねて言うと、お初は唇を引き結び、少しだけ視線を逸らした。
「……姉上様は、何でもそうすぐ言葉にする」
「言葉にせねば、分からぬこともあります」
「私は、分かれば十分です」
その返しもまた、お初らしい。
私はお初を見ながら思った。
この妹は今、ただの“妹”でもなく、ただの“お初の方”でもない。
家の中で、新しい立場へ足をかけながら、それでも自分の形をまだ探している最中なのだろう。
そして私は、城を預かる者として、その揺れもまた見ていかねばならぬ。
土を預かる者がいる。
田を整え、人の暮らしの先を支える者がいる。
ならば城の内にも、それに応じて人の心と秩序を預かる者が要る。
私は、自分がその役目を担っているのだと、ようやく少しはっきり感じ始めていた。
その日の夕刻、真琴様が安土城から戻られた時、私は母上様の文のことをお伝えした。
「村の女たちが、今年の田を語り始めたそうです」
そう申し上げると、真琴様は茶を一口含み、静かに笑われた。
「それなら、幸村の仕事はちゃんと土に入ったんだね」
私はその言葉に、ゆっくり頷いた。
土に入る。
たしかに、政はそうでなければ意味がないのだろう。
帳面だけに残るのでなく、土に入り、人の顔に入り、暮らしに入る。
そうして初めて、家も城も支えられる。
私はその晩、食事の間の囲炉裏の火を見ながら思っていた。
真田幸村は土を預かる。
私は城を預かる。
預かるものは違えど、やるべきことの芯は、案外似ているのかもしれないと。




