茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑧⑧話・第十六話 まだ名にならぬもの
安土の黒坂屋敷での暮らしも、ようやく形になってきた。
そう思えたのは、ある朝、表門のところで下働きの女たちが交わしていた何気ない言葉を耳にした時だった。
「黒坂屋敷は賑やかでようございますな」
「ええ、でも不思議と落ち着いております」
「御方様がよう見ておられるからでしょう」
たったそれだけの言葉である。
けれど私には、それがこの安土で積み重ねてきたものへの答えのように聞こえた。
“女が多い家”でもなく、
“殿が甘い家”でもなく、
“賑やかだが乱れていない家”。
そこへ、ようやく辿り着いたのだと。
もちろん、何もかもが思い通りに整ったわけではない。
真琴様は相変わらず安土城へ詰める日が多く、戻りも遅い。お江は日によっては相変わらず騒がしく、桃子は時折まだ余計な愛嬌を見せようとし、桜子と梅子は真面目すぎて疲れを顔へ出すことがある。
だが、それでも家の空気は定まってきていた。
何かが起きても、誰がどう動くかが分かる。
誰かがはみ出せば、どこでどう収めるかも分かる。
それは、城や屋敷が“暮らす場所”になったということなのだろう。
その日、私は朝から表の間の花を替えさせ、返礼の品の最終確認をし、前日届いた文をまとめていた。
年若い使いの者へ口頭で伝えるもの、帳面へ記すもの、あとで真琴様へだけ見せるもの。
そうして分けていると、桜子が静かにやって来た。
「御方様」
「何です」
「大津より文が」
私は自然と顔を上げた。
大津からの文は、もう珍しいものではない。
母上様からも、時にお初からも、折々に届く。
だが今日の私は、文を差し出す桜子の手元を見た瞬間、なぜだか胸の奥が少しだけざわついた。
封を切ると、いつものように母上様の静かな筆で、大津の近況が記されていた。
城のこと。
湯殿のこと。
城下の者たちのこと。
どれも変わりない。よく保たれている。
そして最後に、母上様らしいごく短い追伸があった。
「お初が近頃、そなたらのことをやけに気にする」
その一文を見た時、私はしばらくその先を読めなかった。
もっと長い説明があるわけではない。
母上様は、あえて多くは書いておられない。
だが、その短い言葉だけで十分だった。
やけに気にする。
それは、どこまでを指すのだろう。
姉である私のことか。
お江のことか。
それとも――真琴様のことか。
私はそこで、自分がその最後の問いへ、ごく自然に思い至ってしまったことに気づいた。
そして気づいた瞬間、少しだけ苦く笑った。
もう、誤魔化せないのかもしれぬ。
お初はただの“遠くにいる妹”ではなくなりつつある。
まだ何も起きてはいない。
まだ言葉にもなっていない。
それでも、何かの流れが確かにこちらへ寄ってきている。
そんな気配だけは、もう見ぬふりが出来なかった。
「母上様、なんて?」
いつの間にか、お江が私のすぐ横まで来ていた。
「お江、足音を立てなさい」
「ごめん。で、なんて?」
私は文をたたみながら答えた。
「お初が、こちらのことを気にしていると」
「やっぱり」
お江は、まるで前から知っていたことを確認したように頷いた。
「やっぱり、とは何です」
「だって、お初姉様ってそういうとこあるもん」
「そういうところ、とは」
「素直じゃないくせに、気になることだけはずっと気にするところ」
私はその言葉に、少しだけ目を細めた。
お江は、お初のことをよく見ている。
姉妹だから当然でもあるが、時に私よりもずっと率直に、その本質を掴んでいることがある。
「姉上様」
「何です」
「もしお初姉様がこっち来ても、追い返したりしないでね」
その一言に、私はゆっくりとお江を見た。
お江の顔は、いつになくまっすぐだった。
ふざけてもおらず、軽くもない。
だからこそ、その問いは思っていた以上に重く響いた。
「どうして、そのようなことを申すのです」
「なんとなく」
お江は、少しだけ肩をすくめた。
「なんとなく、そういう日が来そうな気がするから」
子どもの勘、と言ってしまえばそれまでだ。
だが私は、この妹の“なんとなく”が、時として人の心の奥を先に触れることを知っている。
私はすぐには答えなかった。
追い返すか。
追い返せるのか。
仮に、そういう流れが本当に来た時、私は姉としてどう動くのか。御方様としてどう収めるのか。正室としてどこまで受け止めるのか。
それらはまだ、何ひとつ定まっていない。
定まっていないが、考えぬわけにもいかなくなっていた。
「姉上様?」
お江が、少しだけ不安そうな声で呼ぶ。
私はそこでようやく、静かに息を吐いた。
「来るなら、その時に受け止めます」
「ほんと?」
「ええ」
私はお江の顔を見た。
「今、無理に名をつけても仕方ありません。まだ何も決まっておりませんし、たぶん、あちらも分かっておらぬでしょう」
お江は、ふうん、と頷いた。
それでどこまで分かったのかは怪しい。けれど、それ以上は問わなかった。
私はその素直さに少しだけ救われた。
夕刻、真琴様は比較的早い刻限に戻られた。
湯へ入られる前、食事の間で少しだけ茶を差し上げると、あの方は疲れの残る顔でありながらも、いつものように「ただいま」と言って笑われた。
私はその顔を見て、胸の内のざわめきをすべて今ここで話すことは出来ぬと思った。
まだ早い。
まだ何も起きていない。
ただ、気配があるだけだ。
「今日は少し静かだね」
真琴様がそう言った。
「お江が少し大人しいだけです」
「それは珍しい」
「私もそう思います」
そう返しながら、私は目の前の茶碗へ視線を落とした。
真琴様は、私が何か考えていることに気づいたかもしれない。
けれど、あえて問わなかった。
それもまた、この方の優しさなのだろう。
私はその沈黙に甘えることにした。
今はまだ、自分の中でも形になっていないものを、言葉へするには早すぎる。
夜、皆が静まったあと、私は一人で廊下へ出た。
安土の夜は、大津の夜とは違う。
湖風の匂いはなく、代わりに城下の遠いざわめきが、もう眠りかけた町の底から微かに上ってくる。
灯の数も多い。
人の気配も濃い。
その中で、黒坂屋敷は今、たしかに一つの家として立ち始めている。
賑やかだが乱れていない。
人が多いが、誰も勝手には歩いていない。
女たちの気配も、侍女たちの忠も、妹の明るさも、すべてが黒坂家の内へ収まり始めている。
そう思った時、私はようやく少しだけ落ち着いた。
もし、この先また誰かの想いがそこへ加わるとしても。
もし、それがお初であるとしても。
私は、もうただ驚くだけではいられぬ。
正室として。
姉として。
御方様として。
来るなら、その時に受け止める。
それは、諦めではない。
逃げでもない。
家が大きくなっていく流れの中で、自分が立つ場所を見失わぬための覚悟だった。
文の向こうにいるお初。
不器用で、強がりで、だが一度気にしたことから目を逸らせぬ妹。
あの娘の心がどこへ向かうのか、今はまだ分からない。
けれど、その気配はもう、たしかに黒坂家の流れの中へ入ってきている。
私は廊下の先の闇を見つめながら、小さく息を吐いた。
まだ名にならぬもの。
だが、名を持たぬからこそ、目を逸らさぬでいたい。
そう胸の内へ静かに置いた時、私はようやく、この安土屋敷で積み重ねてきた日々が、一つの終わりへ着いたのだと感じた。
ここから先は、たぶんまた別の話になる。
そしてその話の中心に、お初の名が浮かぶのだろう。




