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茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑧⑦話・

その日は、朝から空気の重さが違った。


 春も半ばを過ぎ、安土の町には柔らかな陽が降りているというのに、黒坂屋敷の中にはどこか張りつめたものがあった。

 理由は分かっている。義父・織田信長のもとで、大きな評定が続いているからだ。


 真琴様はいつものように朝早く城へ上がられたが、出がけの顔つきが少し違っていた。

 軽口は叩いておられたし、火鉢の前で「今日は戻り遅くなるかも」とも言われた。けれど、その目の奥には、すでに評定の座へ半分足を踏み入れている者の気配があった。


 私はそれを見送ってから、いつも以上に静かに一日を過ごした。


 台所の指図。

 湯殿の見回り。

 返礼の品の見立て。

 城下から上がる噂の整理。

 どれも大事な仕事ではあるが、今日は手を動かしていても、どこか心の片隅が落ち着かなかった。


 そんな日に限って、お江まで妙におとなしい。


「姉上様、今日の真琴、忙しい顔してたね」


 昼の菓子を前に、お江がぽつりとそう言った。


「ええ」


「なんか、帰ってきてもすぐ寝ちゃいそう」


「その時はその時です。湯を先に使わせ、少しでも食べさせねばなりません」


「ふーん」


 お江は頷いたが、ふだんならそこで「じゃあ甘いもの用意しよう」とか「絵描いておく」とか言い出すところを、今日はそれ以上騒がなかった。

 この子なりに空気を読んでいるのだろう。


 日が傾き、表の庭へ長い影が落ち始めても、真琴様は戻られなかった。

 いつものことだ。いつものことなのだが、待つ側の胸は、いつだって少しずつ固くなる。


 私は夕餉の支度を少し遅らせさせ、湯殿の湯を落としすぎぬように言いつけ、食事の間の灯を一つだけ明るくした。


 そしてようやく、真琴様が戻られたのは、夜の帳がしっかりと下りた後であった。


「ただいま……ああ、疲れた」


 広間へ入るなり、真琴様はそのように言って肩を落とした。

 私は思わず立ち上がる。


「お帰りなさいませ」


「うん。ただいま」


 返事はいつもと同じだが、声に疲れがにじんでいる。

 私は桜子へ目配せし、先に茶を持ってこさせた。


「湯の支度は出来ておりますが、まずは一口どうぞ」


「ありがと」


 真琴様は座へ落ち着くなり、両手で茶碗を包むように持った。

 その仕草を見るだけで、今日の評定がどれほど神経を削るものであったかが少し分かる。


「何かございましたか」


 私が静かに問うと、真琴様は茶を一口飲んでから息をついた。


「信長様が元気」


 私は少しだけ瞬きをした。


「……それは、ようございました」


「よくない時もあるんだよ。元気すぎて皆が大変な方の元気だから」


 私は思わず口元をゆるめた。

 こういう時でも軽口を忘れぬのは、この方の強さかもしれぬ。


「今日は軍の話と、京まわりと、あと伊勢のことまで一度に出たから、頭が少し熱い」


「でしたら、なおさら湯へ」


「うん、その前に少しだけ座らせて」


 私はそれ以上急かさなかった。

 ただ、お茶を飲み終えるまで静かに待つ。そういう間も、夫婦には必要なのだろう。


 すると、ふと真琴様が言った。


「そういえば、大津から文来てた?」


 その問いに、私は机の脇へ置いていた文を思い出した。

 今日の昼に届いていたものだ。母上様からの近況と、末尾にお初の短い追伸が添えられていた。


「ええ、来ております」


「母上様から?」


「はい。それから、お初から少し」


 真琴様は、茶碗の縁へ指をかけたまま「そっか」と頷いた。

 その何でもなさそうな返事が、かえって私の胸へ小さく引っかかった。


 私は文を取り、膝の上へ広げた。


「大津は変わりないようです。母上様もお元気で、お初もよく働いていると」


「うん」


「それから……」


 私はお初の追伸のところを見た。


「安土はどうか、真琴は相変わらず無茶をしていないか、お江は騒いでいないか、と」


 そこまで読むと、真琴様は小さく笑った。


「お初らしい」


 私は文から目を上げた。


「どういう意味です」


「いや、そのまま。自分は心配してない顔するのに、気になることだけはちゃんと書いてくるところ」


 私は、静かに文をたたんだ。


「たしかに、そうです」


「ほんと不器用だよね」


 真琴様は、疲れた声のままそう言った。

 そこに含まれているものは、ごく自然な理解にすぎないのかもしれない。お初という人間の気質を言い当てただけ。

 そう分かっているのに、私はその一言を、少し長く胸の中へ置いてしまう。


「お初、ああ見えて気を回すからなあ」


 さらに真琴様は続けた。


「母上様のそばなら大丈夫だと思うけど、あの子、変に人のこと見すぎるところあるし」


 私は、その言葉にわずかに指先を強ばらせた。


 変に人のことを見すぎる。

 それはお初の一面として、たしかにその通りだ。

 けれど、真琴様はどこまでそれを見ているのだろうか。


「……ようご存じなのですね」


 自分でも思っていたより低い声が出た。


「え?」


「お初のことを」


 真琴様は、そこでようやく私の顔を見た。

 少しだけ不思議そうな顔をしている。


「だって、これまでずっと一緒にいたでしょ。大津でも、雄琴でも、なんだかんだで」


「そうですね」


「茶々?」


 私はそこで、自分の声がわずかに硬くなっていることに気づいた。

 いけない。これはただの会話だ。問い詰めるようになってはならぬ。


「いえ」


 私はすぐに顔を和らげた。


「ただ、義妹のことをそこまで見ておられるのだなと、少し思っただけです」


「見てるっていうか……」


 真琴様は、少しだけ考えるように視線を落とした。


「お初、強そうに見えるけど、たぶん巻き込まれると逃げるの下手だから」


 その一言が、また胸へ落ちた。


 巻き込まれると逃げるのが下手。


 何気ない。

 ひどく何気ない言い方だった。

 けれど、それはお初を“ただの賑やかな義妹”としてではなく、もっと一段深く見ている言葉でもあった。


「巻き込まれると、ですか」


「うん」


 真琴様は、やはり何でもないことのように言う。


「家のことでも、人のことでも、自分が一度そこへ入ったら最後まで気にしちゃうタイプでしょ。だから変にこっちのややこしい流れへ入れたくないんだよね」


 私は、そこで一度だけ視線を落とした。


 ――入れたくない。


 守ろうとしているのだ。

 そう頭では分かる。


 だが、守りたいと思う相手の範囲は、人によって違う。

 真琴様のその言い方は、あまりに自然で、あまりに軽く、だからこそ私の胸を静かに波立たせた。


 これは嫉妬なのだろうか。

 それとも、まだ名にならぬ予感に対する警戒なのだろうか。

 自分でも、うまく分からない。


 その時、廊下の向こうからお江の声がした。


「入っていい?」


 あまりにちょうどよい間である。

 私は少しだけ救われる気持ちで「どうぞ」と返した。


 お江は入ってくるなり、真琴様の顔を見て言った。


「うわ、疲れてる」


「そう見える?」


「見える。ちょっと熊みたい」


「それは褒めてる?」


「半分」


 その“半分”という返しに、私は危うく吹き出しそうになった。

 真琴様も苦笑する。


 お江はそのまま私の横へ座り、文を見つけた。


「またお初姉様から?」


「ええ」


「なんて?」


「安土はどうか、真琴は無茶していないか、お江は騒いでいないか」


「えー、お初姉様ってほんとわかりやすい」


 お江はけろりと言った。

 私は、それにすぐには答えなかった。


 すると、お江は何を思ったのか、真琴様を見てから私を見て、もう一度真琴様を見た。


「真琴、お初姉様のこと気にしてるよね」


 私は心臓を一つ強く打たれたような気がした。


「お江」


 真琴様の方が先に名を呼ぶ。

 だが、お江はまったく悪気のない顔で続けかけた。


「だってさっき――」


「そこまで」


 今度は私が止めた。


 部屋が、少しだけ静かになる。

 私は、あまり強く言いすぎぬように気をつけながら、お江へ向き直った。


「お江。そのようなことは、軽々しく口にしてはなりません」


「……はい」


 お江は、さすがに空気の変化を感じたらしく、小さくなった。


 真琴様も、それ以上は何も言わなかった。

 だが、その沈黙のせいで、逆に先ほどの一言が私の中へ深く残る。


 真琴様は、お初を気にしているのか。

 その問いへ、すぐに答えを出してはならぬと分かっている。

 ただの義兄としての気遣いかもしれぬ。

 それ以上でも、それ以下でもないのかもしれぬ。


 だが、もしそうでないなら。

 もし、何かがまだ名を持たぬまま、その手前にあるのだとしたら。


 私はその先を、今は考えぬようにした。

 考えれば、家の中の空気まで変わってしまいそうだったからだ。


 少しして、真琴様は湯へ向かわれた。

 お江は気まずそうに、でも最後には「ごめん」とだけ残して下がっていった。


 私は一人、食事の間へ残った。


 灯はやわらかく、火鉢の火が小さく鳴る。

 先ほどまで三人いた場が急に静まり、かえって胸の内のざわめきだけがはっきり聞こえるようだった。


 私は大津からの文をもう一度手に取った。


 お初の短い文字。

 不器用な気遣い。

 安土にいる私たちのことばかり気にする文。


 そのすべてが、今夜は以前より少しだけ重く見えた。


 お初は、安土にはおらぬ。

 大津にいて、母上様のそばにいて、ここにはいない。

 それなのに、私の中では存在が近づいてくる。


 不在だからこそ近づく、というのも、妙な話ではある。

 だが、人の気配とはそういうものかもしれない。


 私は文をそっとたたんだ。


 まだ何かが決まったわけではない。

 まだ誰も、何も、名づけてはいない。

 けれど今夜、真琴様の何気ない一言は、私の胸の中へ小さな火種を置いていった。


 それは今すぐ燃え上がるものではない。

 だが、風が向けば、いずれ形を持つやもしれぬ。


 私はその気配だけを、静かに胸へしまった。

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