茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑧⑥話・第十四話 安土に根づく妹、大津に残る妹
安土の黒坂屋敷へ戻ってからしばらく経つと、人の足音の響き方まで変わってくる。
移ってきたばかりの頃は、廊下を行き交う侍女の足も、庭へ出る下働きの足も、どこか借りた場所を踏むような遠慮があった。
だが暮らしというものは不思議なもので、同じ場所で湯を使い、同じ台所で飯を炊き、同じ座敷で客を迎え続けているうちに、家は少しずつ人の重さを覚える。
朝、桜子が表の間の障子を開ける音。
梅子が湯殿へ回す湯の加減を確かめる声。
桃子が菓子皿を持って小走りに廊下を渡る気配。
そして、お江がどこかで何かを見つけて、すぐに誰かを呼ぶ明るい声。
それらが重なると、安土の黒坂屋敷はようやく“暮らしている家”の音になる。
私はその朝も、帳面机の前で昨日の来客の記しを見直していた。
茶会のあとの評判は上々で、少なくとも「黒坂家は妙に女ばかりが目立つ」という面白半分の見方は、少しずつ別の言葉に置き換わりつつあるようだった。
そこへ、廊下の向こうからお江の声がした。
「桃子ちゃん、それ違うよ。こっちの花の方が朝っぽい!」
「はう、ですが、それは御方様がまだ見ておられぬ花器にて……」
「姉上様なら大丈夫だよ。きっと『お江、それは勝手です』って言うだけだから」
私はそこで筆を置いた。
「お江」
障子の向こうがぴたりと静まる。
「はい」
「聞こえております」
「少しだけ、勝手だったかも」
「少しではありません」
そう言うと、襖が少し開き、お江が顔だけ覗かせた。
悪びれぬようでいて、こちらの機嫌は気にしている顔だ。
「でも、前よりちゃんと考えてるよ?」
「何をです」
「家にどう見えるか」
私は一瞬、返す言葉を失った。
そうか。
この子はこの子で、この安土屋敷の空気の中で、少しずつ学んでいるのだ。
賑やかなだけでは済まぬこと、見られていること、家の中の物一つにも置きどころがあることを。
「……でしたら、勝手に置かずに先に聞きなさい」
「はーい」
お江はそう言って、今度はきちんと花器を抱えて中へ入ってきた。
その後ろで桃子が、ほっとしたように息をついている。
私は二人を見て、少しだけ笑った。
お江は、安土へ来てからすっかりこの屋敷の空気へ根を下ろしていた。
桜子たちとも勝手知ったる間柄になり、真琴様が不在の昼でも屋敷のどこかに明るい声を落としていく。
そうして空気を動かすことが、もはやこの屋敷では自然になっていた。
そのことを、私はありがたくも思う。
だが同時に、その賑やかさが強くなるほど、大津へ残してきたもう一人の妹の静けさが、かえって胸へ残るようにもなっていた。
その日の昼前、大津から文が届いた。
母上様からのもので、内容は大津城の近況と、城下のこと、それにいつものように家の内の小さな報せがいくつか。
私は表の間でそれを読みながら、自然とお初の名を探している自分に気づいた。
母上様の文には、
「お初はこのところよう働いております。文句は多いが、手もよく動く」
とあった。
目に浮かぶようである。
お初は、安土のお江とは違う。
空気を動かすより、空気の歪みを見つける方の娘だ。
誰かが「これでよい」と言えば、一度は首をかしげる。
だが、本当にやるべきだと分かれば、最後には誰より真面目にやる。
母上様のそばにあって、そうして大津城の内を覚えつつあるのだろう。
「御方様、大津はいかがにございますか」
桜子が茶を置きながら問うた。
「大きな乱れはないようです」
私は文をたたみながら答えた。
「母上様もお初も、変わらず」
「お初様は……」
桜子はそこで少しだけ言葉を選んだ。
「まだ、大津に馴染みきってはおられませぬか」
「どうでしょう」
私は小さく息をついた。
「馴染む、というより、お初はどこへ行っても、まずは少し逆らってからでなければ腰を下ろせぬのでしょう」
桜子が、くすりと笑った。
悪く言っているのではない。むしろ、あの妹らしさを思えばこその物言いだと分かるからだろう。
「ですが、母上様のそばでよう働いているそうです」
「それは、いかにもお初様らしゅうございます」
私は頷いた。
いかにも、らしい。
安土にいるお江が、気づけばこの屋敷の空気になっているように。
大津にいるお初もまた、たぶんあちらで“いかにもお初らしい”根の張り方をしているのだ。
そう考えると、不思議な気持ちになる。
浅井の三姉妹は、今や二つの城へ散っている。
私とお江は安土に。
母上様とお初は大津に。
どちらも黒坂家の気配の内側にありながら、そこで果たす役目が少しずつ違う。
お江は近くにいて、人の息を明るくする。
お初は遠くにいて、気づけばこちらがその不在を意識している。
どちらも妹であるのに、その在り方はあまりにも違っていた。
午後、私は庭へ出た。
風はやわらかく、安土の町の方から人の気配が遠く届く。
この屋敷も、今ではずいぶん“こちら側”になってきた。門の開き方、侍女たちの足取り、湯殿へ回る湯の動きまで、もう借りた場所のようではない。
そこへ、お江が追ってきた。
「姉上様」
「何です」
「文、お初姉様のことも書いてた?」
「ええ」
「なんて?」
私は少し迷ったが、そのまま答えた。
「文句は多いが、手はよく動く、そうです」
お江はすぐに吹き出した。
「それ、すごくお初姉様」
「そうですね」
「お初姉様、大津でも絶対ぶつぶつ言ってるよね」
「言っているでしょうね」
私も思わず笑った。
お江はひとしきり笑ったあと、庭の飛び石へ座り込んで空を見た。
「でも、お初姉様が大津で、私がこっちって変だね」
「変ですか」
「うん。前は三人で一緒の方が多かったのに」
私は、その言葉に少しだけ黙った。
前は三人でいることが多かった。
母上様のそばで、お初が口を尖らせ、お江が騒ぎ、私はその間に立つ。
それが自然であった。
けれど今は違う。
家が広がり、城が増え、人が増え、役目も増えた。
その中で、三姉妹がそれぞれ違う場所へ立つことになったのだ。
「姉上様」
「何です」
「お初姉様、こっち来たらまた騒がしくなるかな」
その言葉に、私は庭の先を見たまま答えた。
「ええ。きっと」
「そっか」
お江は満足したように頷いた。
だが私は、その一言を心の中で少し長く抱えた。
もし、お初がこちらへ来るなら。
その時、ただ“騒がしくなる”だけで済むのだろうか。
私は、その問いをそこで言葉にはしなかった。
まだ名にしてはならぬ気配というものが、世にはある。
私はもう、それを知っている。
夕刻近く、真琴様が一度だけ屋敷へ戻り、すぐまた城へ上がる支度をしておられた。
食事の間で軽く茶を飲みながら、私は今日届いた文のことをお伝えした。
「母上様も、お初も変わりないようです」
「そっか」
真琴様は頷いた。
「大津も少しずつ落ち着いてるならよかった」
「お初は相変わらず、文句は多いがよく働くと」
そう言うと、真琴様は少し笑った。
「ほんと目に浮かぶね」
その言い方もまた自然で、私は少しだけ胸の内が動いた。
だが今はそれを顔へ出さぬ。
「お江は安土ですっかり根づきました」
私が話を変えると、真琴様は横で菓子をつまんでいたお江を見た。
「うん。お江がいると、家の中がちょっと軽い感じになる」
「軽いってなに」
お江がむっとする。
「悪い意味じゃないよ。空気が明るくなるってこと」
「ならいい」
お江はすぐ機嫌を直した。
私は、そのやり取りを見ながら思った。
安土に根づく妹。
大津に残る妹。
片やすぐ目の前で空気を動かし、片や遠くにいて気配だけをこちらへ寄越す。
その二人を抱えながら、私は今、黒坂家の二つの城のあいだに立っている。
黒坂家は、もう一つの屋敷、一つの城だけで済む家ではない。
安土と大津。その両方へ人の暮らしがあり、女たちの気配があり、家の形が広がっていく。
そして私は、その結び目の役をいつの間にか引き受けていたのだろう。
それは重い。
だが同時に、少し誇らしくもあった。
夜、私は一人で帳面を閉じたあと、母上様の文をもう一度手に取った。
お初は、大津で働いている。
お江は、安土で笑っている。
そして私は、その二人を心の中で見比べながら、自分の役目を少しずつ知っていく。
お江は近くにいて、分かりやすい。
お初は遠くにいて、だからこそ心へ入り込んでくる。
この違いは、ただ気質の違いだけではないのかもしれない。
私はそう思いかけて、すぐにそれ以上は追わなかった。
今はまだ、ただ、二つの城へ散った妹たちを思えばよい。
そうして、そのどちらも黒坂家の内へきちんと結びとめること。それが姉である私の仕事なのだろう。
安土の夜は、大津より少し乾いている。
けれどその乾いた夜気の中で、私は確かに思っていた。
家が大きくなるとは、人が増えることだけではない。
離れている者まで含めて、一つの流れにしていくことなのだと。




