茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑧⑤話・第十三話 黒坂屋敷、春の噂を塗り替える
安土で暮らしていると、噂とは風に似ていると思う。
どこからともなく生まれ、誰が起こしたか分からぬまま広がり、気づけば人の衣の袖や髪へ匂いのように移っている。
しかも、ただ吹き払えば消えるものでもない。風は止められぬ。ならば、その流れを読んで帆を張り、こちらの舟を進めるしかない。
黒坂家は賑やかだ。
女が多い。
常陸様は優しい。
侍女たちは主の身のまわりに近い。
そこへ、お江の奔放さが加わる。
面白がられるには十分な種であった。
だが、種は蒔かれたままでも、芽の出方は変えられる。
私はそう考え、前の茶会よりもう少し小さく、もう少し親しい顔ぶれだけを招いて、再び黒坂屋敷で女だけの座をひらくことにした。
狙いは一つ。
“女が多い家”を、“姉妹の情も、侍女の忠も、きちんと家へ収まっている家”へ見せ直すこと。
先の茶会で土は耕した。
今度は、その土へこちらの印象をしっかり根づかせる。
その日の朝、私は桜子たちを表の間へ集めた。
床の間には、春の終わりと初夏の気配が混じり始めた花を一作だけ。
あまりにも華やかなものではなく、だが寂しすぎぬもの。
白い花を低く置き、上に細枝を抜き、その脇へ若い葉を添える。
賑やかさよりも、整いとやわらかさを先に見せるしつらえだ。
「今日は人数を絞ります」
私が言うと、桜子が頷いた。
「先の茶会に来られた方々のうち、特に口の軽い者ではなく、目の確かな方を、ですね」
「ええ。噂は、軽い口から広がります。ですが、その噂を上書きする印象は、目の確かな方の口から広がる方が強い」
「承りました」
梅子は、茶器を前へ並べていた手を止めた。
「では、今日は華やかさよりも、落ち着きを」
「その通りです」
桃子は少し首を傾げた。
「お江様も、お出になるのですよね?」
「ええ」
私はその返事だけで、桃子の顔がわずかに強張ったのを見た。
無理もない。あの妹君は、いるだけで座の温度を変えてしまう。
「ですが最初からは出しません」
私は続けた。
「茶が一巡し、場の空気がほどけたところで入れます。短く、明るく、だが浮かれすぎぬよう」
「……そこが一番難しそうにございます」
梅子の正直な一言に、私は少しだけ笑った。
「まこと、その通りです」
お江には、前もってきつく言い含めた。
「今日は、あなたに大事な役があります」
「やった」
「ですが、騒げば台無しです」
「えー」
「えー、ではありません」
私はお江の正面へ座り、その顔をまっすぐ見た。
「今日は、黒坂家がどのような家かを見せる日です。あなたは“ただ可愛い妹”として出るのではなく、“この家に陽の気を入れる姫”として出るのです」
お江は、最初は半分も分かっていない顔をしていたが、やがて少しだけ真面目な目になった。
「……明るくするけど、変なことは言わない」
「そうです」
「抱きつかない」
「そうです」
「お菓子も勝手に取らない」
「そうです」
「じゃあ、何をすればいいの?」
私はそこで少しだけやわらかく言った。
「笑って、きちんと挨拶をして、座の空気をやわらかくしなさい」
「……それならできる」
その返事は、思ったより頼もしかった。
客は、約した刻限より少し早く着いた。
前田松は呼ばなかった。
あの方はもう十分にこちらの形を見ている。今は、そこから一歩外れた口々へ印象を渡す方がよい。
来たのは、細川家に縁のある奥方、佐々家へ近しい婦人、それに花見の日には遠くから様子を見ていたが、まだこちらの内へ深く入ってこなかった二家の女たちである。
皆、気さくな顔をして座へ入った。
だが、その目はやはりよく動く。床の間の花、火鉢の位置、侍女の立ち居振る舞い、私の一礼の角度――見ていないようで、何一つ見逃しておらぬ。
「本日はようお越し下さいました」
私が頭を下げると、細川縁の奥方が微笑まれた。
「こちらこそ。先日は楽しいお茶をいただきましたゆえ、またお招きいただけて嬉しゅうございます」
「今日は先日ほど大きな座ではございません。どうぞ、肩の力を抜いて」
そう言って、まずは茶を一巡させた。
桜子の茶の出し方は、今や見ていて安心がある。
急がず、遅れず、相手の話が切れるところへ音もなく入る。
梅子は菓子皿を置く手が正確で、桃子も今日は余計な愛想を出さず、品よく控えていた。
話題は、春の花見の名残から始まった。
安土の桜は見事であったこと。
風が暖かくなってきたこと。
城下の人出が増えていること。
その間にも、相手は探りを入れてくる。
「黒坂屋敷は、花見のあとも何やら賑やかそうですな」
「ええ、たしかに」
私はそう答えた。
「静まり返った家ではございません」
「それもまた、よろしいものです。若い家という感じがして」
「若いゆえ、整えねばならぬことも多うございます」
返しながら、私は相手の目を見た。
“賑やか”という言葉の奥に、“例の噂”が混ざっているのはよく分かる。だが、それをこちらから掘り返してやる必要はない。
私は茶を置き、自然な流れで言った。
「家の中に人の気配があるのは、悪いことではございません。大事なのは、それがきちんと家へ収まっているかどうかでしょう」
その一言に、何人かの視線がわずかに変わった。
そこへ私は、桜子へ小さく目配せした。
頃合いである。
少しして、お江が入ってきた。
今日は淡い色の小袖に、髪もきちんと結わせてある。
走ってもおらず、きちんと歩いてきたことだけでも十分に褒めてよい。
お江は私の少し後ろで止まり、教えた通りに一礼した。
「お江にございます。姉上様には、いつもお世話になっております」
その最後の一言に、客の奥方たちが一斉に笑みをこぼした。
“姉上様に世話になっている”と妹が言えば、そこにあるのは色めいた気配ではなく、まず姉妹の気安さである。
私は内心で、よし、と思った。
「お江様もこちらでお過ごしで?」
「はい。安土、楽しいです」
お江はにこりと笑った。
「でも姉上様はいつも忙しそうだから、今日は邪魔しないって決めてたの」
その一言で、また場がやわらいだ。
「まあ、健気なこと」
「言いつけをよう守られるのね」
そう言われると、お江は少しだけ胸を張った。
調子に乗りすぎるかと私はひやりとしたが、今日はそこから先へは行かなかった。
「姉上様が忙しいと、屋敷の人も忙しいから」
お江は桜子たちの方をちらりと見た。
「だから今日は、静かにしてる」
桜子が、その視線を受けて少しだけ目を伏せた。
私はそのやり取りを見ながら思った。
これだ。
ただ“騒がぬように”抑えつけた妹ではない。
家の忙しさを見て、空気を読んで、少しだけ静かにしてみせる妹。
そこに姉妹の情が見えれば、先日までの“常陸様へ抱きつく賑やかな姫”の印象は、違う色へ塗り替わる。
佐々家縁の婦人が、穏やかに言った。
「黒坂家は、ようまとまっておられますな」
私はすぐには返さなかった。
相手にもう一言置かせるためだ。
「姉上様を中心に、妹君も、侍女たちも、皆がそれぞれ役を持っておられるように見えます」
私はそこで初めて、軽く頭を下げた。
「ありがたきお言葉。まだ若い家ゆえ、皆で形を覚えている最中にございます」
そう言うと、細川縁の奥方が花を見て微笑んだ。
「同じ花ばかりでは座がもたぬ、と申しますものね」
その比喩に、私は少しだけ目を細めた。
生け花の座を知る方なのだろう。
私は応じる。
「ええ。違う花でも、一座に収まれば春になります」
「なるほど」
その“なるほど”は軽くなかった。
しばらくして、お江は私の目配せで下がった。
去り際もちゃんと一礼したから、今日は満点をやってもよいくらいだ。
お江が去ったあと、場の空気はさらに落ち着いた。
先ほどまで、“賑やかで面白い黒坂家”を見に来ていた目が、今は“賑やかだが、家として整っている黒坂家”を見る目に変わっている。
私はその違いを、はっきり感じ取っていた。
やがて茶が終わり、奥方たちはそれぞれ笑顔で帰っていった。
「本日はようございました」
「黒坂屋敷の空気がよう分かりました」
「またお邪魔いたします」
その言葉の端々に、先日までの面白半分の匂いはもう薄い。
代わりにあるのは、きちんと見て帰る者の言葉だった。
客を見送ったあと、表の間へ戻ると、桜子がようやく息を抜いた。
「……無事に済みました」
「ええ」
「お江様も、今日はよう我慢なされました」
私はそこで少し笑った。
「ええ。思っていた以上に」
すると、その当人がすぐに襖の陰から顔を出した。
「我慢したよ」
「聞いていたのですか」
「褒められてる気がしたから」
まったく、都合のよい耳である。
だが私は今日は叱らなかった。
代わりに、お江を手招きして近くへ来させた。
「今日は、よく出来ました」
そう言うと、お江は一瞬だけ目を丸くし、それからにいっと笑った。
「でしょ?」
「調子に乗るのはまだ早いです」
「えー」
そのやり取りに、桜子も桃子もつられて笑った。
梅子だけは帳面を整えながらも、口元だけは少しやわらいでいる。
私はその光景を見て、静かに確信した。
噂は、ただ否定しても消えぬ。
だが、こちらが見せるべき形を見せれば、人の口にのぼる言葉は変わる。
“女が多い家”から、
“賑やかでも品があり、姉妹の情も、侍女の忠も家の内へ収まった家”へ。
その印象を置けたのなら、この茶会は十分に意味を持った。
守るだけでは足りぬ。
安土では、こちらから形を差し出し、見せたい像を人の目へ置かなければならない。
それが、奥向きの政なのだ。
私は床の間の花を見た。
違う花が、それぞれの位置で一座を成している。
黒坂屋敷もまた、そういう家でありたいと、私は心から思った。




