茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑦⑥話・第四話 ねね様の視線
前田松が去ってから二日ほど経った頃、私はようやく、安土の黒坂屋敷の空気が少しだけ私の呼吸に馴染み始めたのを感じていた。
朝は真琴様を送り出し、台所と湯殿を見、贈答品の記録を改め、時に城下からの噂を拾わせる。
昼には表の間を確かめ、花の向きを直し、侍女たちの所作を見て、夕刻には翌日の来客に備える。
やることは尽きない。
だが、尽きぬからこそ人は迷わずに済む。手を動かしている間は、余計な不安が差し込む隙も少ない。
そう思っていた矢先だった。
桜子が、普段より一段低い声で言った。
「御方様。羽柴家より、ねね様がお見えにございます」
私は文を読む手を止めた。
ねね様。
羽柴秀吉の正室。
前田松が“気さくに見えてよく見ている”方なら、ねね様は“やわらかく見えて、さらに奥を見ている”方だと聞いている。
笑って話し、相手の懐へすっと入り込みながら、その実、肝心なところは何一つ見落とさぬ女。
私は心の内で一つ息をついた。
「どちらの座敷へ」
「二ノ丸の表の間へお通ししております」
「よろしい。茶は急がず、菓子は軽いものを。ねね様は先に相手の空気を見られる方です。こちらが慌ててはなりません」
「はい」
桜子が下がる。
私は立ち上がり、衣の襟を整えた。
ねね様が来られるということは、羽柴家が単に花見の礼を述べに来た、というだけでは済まぬ。
安土の空気、黒坂屋敷のあり方、そしておそらく――真琴様の評判。
そこを見に来られたのだろう。
表の間へ入ると、ねね様はすでに柔らかな笑みで座しておられた。
前田松が“よく通る刃”なら、ねね様は“薄い絹で包んだ針”のような印象だった。
ふわりとしていて、気さくで、こちらの警戒を解くのがうまい。だが、その笑みの奥にはたしかに目がある。
「茶々様」
「ねね様。ようこそお越し下さいました」
「急にお邪魔してしもうて。花見の礼もまだきちんと申しておりませんでしたし」
「そのようなお気遣い、かえって恐縮にございます」
私は笑顔で座へついた。
最初の言葉は穏やかだった。
花見の席のこと。安土の桜のこと。義父・織田信長の機嫌が良かったこと。
当たり障りのない、春の話。
だが、その“当たり障りのない話”の中で、ねね様はすでにこちらを見ていた。
どの間へ通したか。
控えの侍女は何人か。
茶はどの器で出るか。
菓子は控えめか、華やかか。
こういう方は、会話が本題へ入る前にもう七割方見終えている。
桜子が静かに茶を運んできた時、ねね様は湯気の向こうでふと目を細められた。
「よい侍女をお持ちで」
「黒坂家の者たちがよう支えてくれております」
「よう分かります」
ねね様は茶を一口含み、それから何でもないことのように言った。
「常陸様は、家ではどんな殿です?」
来た。
私は内心でそう思ったが、顔には出さない。
「どんな、と申されますと」
「そうですねえ……外ではあれほど上様に重く使われ、皆が“若き軍師”のように申すでしょう? でも家へ戻ればまた違うお顔もあるのでしょうなと思いまして」
その問いは、軽い。
軽いが、実に多くのことを試している。
私は少しだけ笑みを深くした。
「寒がりでいらっしゃいます」
ねね様の口元がゆるむ。
「まあ」
「火鉢へ寄るのがお早いですし、湯殿の湯加減にも少々うるそうございます」
「ふふ……それは、なんとも人らしゅうてよろしい」
「ですが、家でも家のことを忘れてはおられません。屋敷の者の顔色、食事、湯、城下のことまで、細かなところへ気が回ります」
これは本心だった。
真琴様は、いわゆる“殿然とした威圧”で家を保つ方ではない。だが、むしろその逆で、人の暮らしの細部へ自然と目が向くからこそ、周りが寄っていく。
ねね様は、その答えを興味深そうに聞いておられた。
「なるほどなあ。羽柴のうちの人が、“常陸様は近う寄りやすい”などと申しておりましたが、そういうことやもしれませんな」
「近う寄りやすい、ですか」
「ええ。怖がらせぬのに、雑には扱わせぬ方、と」
私はその言葉に、わずかに目を伏せた。
それは、よい評判でもあり、厄介な評判でもある。
ねね様はそこで、また軽やかに次の言葉を置く。
「ずいぶん女中衆に慕われているとか」
私は茶碗を持つ手を、ほんのわずかだけ止めた。
やはり、そこまで話は届いているのか。
「どちらでそのような」
「安土は狭うございますから」
ねね様は、くすりと笑った。
「大きなことほど広がりにくく、小さなことほど面白がって広がるものにございます。常陸様のまわりは賑やかだ、と」
賑やか。
なんと穏当な言い方であろう。
“女が多い”“奥が騒がしい”“人たらしだ”――そういう言葉の角をすべて丸めて、賑やかと言う。
だが、丸められているからこそ、かえって刺さる。
私は笑顔のまま返した。
「黒坂家は、たしかに静かな家ではございません」
「でしょうなあ」
「ですが、乱れてはおりません」
ねね様の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「ほう」
「桜子たちは家を支える者たちですし、妹たちもまた家の内におる者です。気配が濃いのは事実ですが、それがそのまま乱れではございません」
私は言葉を慎重に選んだ。
ここで慌てて否定すれば、“何かある”と自白するようなものだ。
かといって笑って流しすぎれば、“なるほどその通り”と受け取られる。
だから、事実の輪郭だけをそのまま置く。
賑やかだが乱れてはいない。
それが、今の黒坂家を外へ向けて言い表すもっともましな形だった。
ねね様は、その答えをしばらく味わうように黙っておられた。
やがて、小さく頷く。
「なるほど。よう締めておられる」
その一言で、私は分かった。
ねね様は、今のやり取りで黒坂家の“奥の空気”を見たのだ。
気さくで柔らかい家。
だが、ただ緩いだけではなく、奥方がきちんと中心に立っている。
そう見せられたなら、まずは上出来であろう。
しかしねね様は、そこでは終わらなかった。
「茶々様」
「はい」
「常陸様ほどのお人は、外で働けば働くほど、家ではいろいろと人が寄ってきましょう」
その言葉に、私は静かに耳を澄ませた。
「怖い殿なら、人は表では従うても、家では近づきません。けれど、良い殿は違う。侍女も、小姓も、家臣も、女も、皆どこかで寄ってしまう」
ねね様は、笑っておられた。
だが、その笑みは軽くなかった。何十という目を見てきた女の、重みのある笑みだ。
「良い殿ほど、奥方が手綱を握るものですよ」
帰り際、その言葉を残してねね様は立たれた。
私は、その場ですぐには返せなかった。
手綱。
女たちの距離も、家臣の寄り方も、侍女の親しみ方も、すべてを“好きにさせぬが、近づけすぎぬでもない”ほどよい加減で握る。
それが、良い殿の妻に求められる手腕なのだという。
「肝に銘じます」
私がようやくそう答えると、ねね様は笑って頷かれた。
「ええ。茶々様なら、ようお分かりになるはず」
見送ったあと、私はしばらく表の間に立ち尽くしていた。
ねね様の笑み。
軽やかに核心へ触れる物言い。
そして、“女中衆に慕われている”という、外から見た黒坂家の像。
安土では、もう真琴様の評判だけが独り歩きしているのではない。
そのまわりにいる女たちとの距離感まで含めて、すでに“常陸様という家”として見られているのだ。
それは時に強みになる。
だが一歩違えば、弱みにもなる。
私はゆっくりと息を吐き、座敷の花を見た。
花見の前に大津で学んだ花のしつらえは、こういう時にも不思議と心を落ち着かせる。場を整えるとは、見た目のためだけではないのだろう。
「御方様」
桜子がそっと声をかけてきた。
「はい」
「ねね様は……」
「ええ。柔らかく見えて、よくご覧になる方でした」
私はそう答えた。
「そして、安土では私たちのことも、すでに見られている」
桜子が少し顔を上げる。
「私たちも、ですか」
「ええ。真琴様のお姿だけではなく、そのまわりがどうなっているかまで」
桜子は静かに頷いた。
この娘なら、それだけで十分通じる。
私は心の中で、ねね様の最後の一言を繰り返した。
良い殿ほど、奥方が手綱を握るもの。
それは、甘やかして好きにさせることではない。
きつく締め上げて、誰も近づけぬようにすることでもない。
寄ってくる者を見極め、立場を与え、乱れぬよう握ること。
つまりは、花を生けることに似ている。
何を残し、何を引き、どこへ置くか。
それを間違えれば、座はたちまち崩れる。
安土では、奥方同士もまた政治である。
そしてその政治は、笑顔と茶の向こうで行われる。
私は今日、ねね様の視線を通して、外から見える黒坂家の形を知った。
そのことは、少なからず私の胸へ重く残ったが、同時に次へ進むための目も与えてくれた気がした。
真琴様の人たらしは、もはや屋敷の内だけの話ではない。
安土でも、それは語られ、見られ、値踏みされている。
ならば私は、それを正面から受け止め、形を与えるしかない。
そう静かに胸へ刻みながら、私は次の来客に備えて、もう一度座敷の空気を整え直した。




