茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑦⑤話・第三話 御方様の一日――留守居の政と暮らし
安土の黒坂屋敷で朝が始まるのは早い。
まだ空が白み切らぬうちに台所では火が起こされ、湯殿へ回す湯の仕度と朝餉の下ごしらえが始まる。表の庭を掃く音、門番の小声、桶に水を汲む音――それらが少しずつ重なっていき、屋敷は人の住まう家として息をし始める。
真琴様は、その気配が濃くなりきる前に起き出してしまわれることが多かった。
安土へ戻ってからというもの、義父・織田信長のもとへ朝早く上がり、政務や軍略の相談に入り、昼をまたぎ、時に夕刻すら過ぎてようやく戻られる。花見の余韻など、あの方の周りでは半日も保たぬらしい。
その朝も、私は真琴様が支度を整えるところを見届けていた。
「今日は戻りが少し遅くなるかもしれない」
衣の紐を整えながら、真琴様が何気なく言う。
「少し、ですか。昨日もそのように仰って、夜半近くでございましたよ」
私がそう返すと、真琴様は少し困ったように笑われた。
「信長様の“少し”は、たぶん普通の人の半日くらいなんだよ」
「でしたら、せめて昼のうちに何か口へ入れてくださいませ。夕刻まで空腹のままでは体へ障ります」
「うん。茶々がそう言うなら、ちゃんと食べる」
その返事は軽い。
軽いが、言った以上は守ろうとするところが真琴様らしかった。
私は自ら裾の乱れを直し、桜子に持たせる文と手拭いを確認し、最後に一礼した。
「では、安土の城は義父様へ。屋敷は私が預かります」
「お願い」
それだけ言って、真琴様は出て行かれた。
門の外へ足音が消えると、私は一つ息を吸う。
ここから先、黒坂屋敷の昼は私の仕事になる。
まずは台所を見た。
桜子、梅子、桃子の三人は、すでに持ち場へ散っている。
桜子は朝餉の配膳順を確かめ、梅子は湯殿へ回す湯の量を見、桃子は今日届くはずの贈り物に合わせて菓子皿を選んでいた。
「桜子」
「はい、御方様」
「今日の来客予定を」
「前田家より一件、佐々家より使い一名、あとは今朝のうちに安土城下の商家より季節の菓子が届くとのことにございます」
「わかりました。前田家の使いが来たなら、すぐに記しておきなさい。佐々家の使いは、内容次第で通す間を変えます」
「承りました」
桜子の返事は簡潔で、余計な飾りがない。
こういう時、この娘の落ち着きは本当に助かる。
「梅子」
「はい」
「湯殿は、今日は昼前に一度見せなさい。安土は大津と違い、湯のまわし方にまだ慣れていない者もおります。無駄がないように」
「はい。窯の火も見直しておきます」
「桃子」
「はいです」
「贈答品が届いたら、包みのまま並べず、まず帳面へ。そこから格に応じて仕分けます」
「はう、わかりましたです」
私が一つひとつ言えば、三人はすぐに動く。
だが、その三人を動かす者がいなければ、屋敷というものは途端にただの箱になる。
私は台所の匂いと湯気の中で、そのことを改めて感じた。
朝餉を簡単に済ませたあとは、記録の確認である。
安土の黒坂屋敷には、ただ食べて眠るための場所以上の役目がある。
誰が来て、何を持ち込み、何を持ち帰ったか。どこの家とどのような距離で言葉を交わしているか。どういう噂が城下に流れ、どの名前が誰の口にのぼっているか。
それらは、きちんと記しておかねばならぬ。
私は梅子に昨夕の記録を持ってこさせた。
「……花見のあと、黒坂屋敷は賑やかであるという話が二件。うち一件は好意的、もう一件は“女が多い”を面白がった言い方」
小声でそう読み上げると、桜子が少し眉を寄せた。
「まだ続いておりますか」
「完全には消えません」
私は紙を置いた。
「ですが、前より悪くはない。賑やかであっても乱れてはおらぬ、という印象を積み上げていけば、やがて“面白い家”から“しっかりした家”へ変わります」
自分で言いながら、それはまるで花を生ける話のようだと思った。
どの枝を残し、どの花を立て、どこへ余白を置くか。
家の評判もまた、それに似ている。
昼を少し過ぎた頃、城下の商家から菓子が届き、佐々家から季節の魚が届き、前田家からは反物が一反、さりげなく贈られてきた。
桃子は包みを見て目を輝かせたが、私はまず帳面を先にさせる。
「桃子、見惚れるのはあとです」
「はう、でも綺麗なのです」
「綺麗でもまずは記すのです。どこから、何が、どういう名目で来たか。覚えなさい」
「はいです……」
少ししょんぼりしたが、ちゃんと筆を持つあたり素直ではある。
梅子は横で贈り物の並びを整え、桜子は誰へどの礼を返すべきか、私の言葉を待っていた。
私は一つひとつ見て、指を置く。
「これは礼として返します。こちらはまず様子見。前田家の反物は受けるだけ受け、急がず礼を返しましょう」
「急がず、でございますか」
「ええ。松殿は“こちらがどう受けるか”も見ておられます。軽く受けすぎても、重く返しすぎてもなりません」
「承りました」
こうしていると、私の一日はあっという間に過ぎていく。
台所、湯、贈答、座敷、侍女の采配、城下から上がる噂の整理。
大津にいた頃も忙しかった。だが安土では忙しさの質が違う。暮らしそのものを立ち上げる忙しさではなく、整えた暮らしを“見られても崩れぬ形”に保つ忙しさなのだ。
午後もだいぶ傾いた頃、ようやく一息つこうとしたところへ、桜子が一通の文を持ってきた。
「御方様。大津より文が」
その一言で、私の胸の奥が少しやわらいだ。
「母上様からですか」
「はい」
私はすぐに封を切った。
母上様の文字は、やはり美しかった。線が静かで、少しも乱れぬ。その文字を見ただけで、どこか背筋が正される。
文にはまず、大津の近況が記されていた。
城の風はまだ冷たいこと。
湯殿の湯は変わらずよいこと。
足軽たちもようやく大津の暮らしに馴染み始めたこと。
そして、そこから先は、いかにも母上様らしい家族の報せであった。
お初は相変わらず素直でない。
私の読み方ではなく、母上様の文にはもっと婉曲に書かれていたが、意味はそういうことである。
「茶々がいないので、何事にも一度は不満を申す」とある。
目に浮かぶようで、私は思わず笑ってしまった。
次に、お江は湯殿で相変わらず騒がしいとある。
湯加減がどうだの、花を浮かべたいだの、湯上がりの菓子が欲しいだの、毎日何かしら言っているらしい。
これもまた、お江らしい。
さらに、大津城の女たちも、茶々不在で少し寂しそうだと書いてあった。
そこに桜子三姉妹の名は出ていない。だが“女たち”という一言の中に、おそらくあの三人も含まれているのだろう。
私は文を読みながら、気づけば口元に笑みが浮かんでいた。
安土にいる私は、こうして朝から晩まで屋敷のことを整え、黒坂家の顔を支えている。
だが同時に、大津には大津の家があり、母上様と、お初と、お江と、あの賑やかな城の暮らしがある。
私は今、その二つの家の間に立っているのだ。
嫁いだ先としての黒坂家。
生まれた家の残り香を抱えた母と妹たち。
大津で根を張る暮らしと、安土で見られる家の格。
どちらか一つではなく、どちらも私の役目になっている。
「御方様」
桜子が、そっと私の顔を覗き込んだ。
「大津より、何か」
「ええ」
私は文をたたんだ。
「母上様も、お初も、お江も、相変わらずのようです」
それだけ言うと、桜子が少し安心したように笑った。
この娘もまた、大津の空気を恋しがっているのだろう。
「御方様がお戻りになられぬ間、あちらも少し寂しいのやもしれません」
「こちらも同じです」
私がそう返すと、桜子は静かに頭を下げた。
寂しい。
その言葉を口にしてしまうと少し弱くなる気がして、私は普段あまり使わぬ。
だが、今日は認めてもよい気がした。大津も、安土も、どちらも黒坂家であり、どちらも私にとって家になりつつあるのだから。
夕刻が近づき、屋敷の灯の支度が始まる頃、私はその日の記録を見直していた。
来客三件。
贈答品四件。
城下の噂二件。
大津からの文一通。
それらを帳面へ落とし込んでいくと、一日が形を持つ。
忙しさの中に埋もれていたものが、「今日はこれだけ動いたのだ」と見えるようになる。
私は筆を置いて、しばし庭を眺めた。
安土の夕暮れは、大津とはまた違う。
琵琶湖の気配が近い大津に比べ、こちらは城下の人の気配が濃い。城の大きさ、町のざわめき、権の中心に近い場所の張りつめた空気。
そこで黒坂屋敷がどう息をするかを整えるのが、今の私の仕事なのだ。
真琴様は、今もまだ城におられるだろう。
義父・織田信長のもとで、また何か大きな話をされているに違いない。
ならば私は、この屋敷で家を守る。
真琴様が帰ってきた時、湯があり、食事があり、記録が整い、贈り物が仕分けられ、噂の火元がどこにあるか分かるようにしておく。
それが、留守居の政であり、暮らしであり、奥方の仕事だ。
私は大津からの文をもう一度手に取った。
母上様の静かな文字。
お初の素直でない様子。
お江の騒がしさ。
それらを思い浮かべながら、私は小さく笑った。
二つの家の間に立つというのは、思っていたより忙しく、思っていたより重い。
だが、その重さの中に、確かな手応えもある。
私はもうただ嫁いできた娘ではない。
黒坂家の中で、暮らしを整え、人を結び、家を形にしていく側へ回っている。
そう思うと、夕暮れの安土屋敷の静けさは、少しだけ誇らしく感じられた。




