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茶々視点外伝『安土屋敷での“御方様仕事”』編・①⑦④話・第二話 最初の来客――前田松、顔を出す

 安土の黒坂屋敷へ戻ってから三日ほどが過ぎた頃、私はようやく、この屋敷の空気が“落ち着いたように見えて、実はまだ落ち着いていない”ものだと分かり始めていた。


 庭は整えた。

 座敷も見直した。

 侍女たちの動きも、安土向きに少しずつ直させている。


 けれど、屋敷というものは、物が整っただけでは本当に整ったとは申せぬ。

 人が来て、その目で見られ、その場の空気をどう受け取られるか――そこまであって初めて、その家の“顔”が決まる。


 その最初の試しのように訪れたのが、前田松であった。


 昼過ぎ、表の間へ桜子が少し早足で来て、私へ告げた。


「御方様、前田松様がご来訪にございます」


 私は手元の文を閉じた。


「ご一人ですか」


「はい。供は最小にて、気軽なご様子にございます」


 気軽なご様子――そう聞いて、私は内心で小さく息をついた。


 松殿は、気軽な顔で訪れる時ほどよく見ている。

 ただの礼だけで済む相手ではないと、私はもう知っていた。


「通しなさい。茶は急がず、いつもの二ノ丸の座敷へ」


「はい」


 桜子が下がると、私は一度、衣の襟元を正した。

 花見の礼、近況伺い。名目はいかようにも立つ。だが、今の松殿が見に来るのは、花見そのものではなく、花見のあとに黒坂家がどう息をしているか、その一点であろう。


 私は表の間へ出た。


 松殿は、相変わらず柔らかな笑みを浮かべておられた。

 柔らかい。だが、その目はやはり鋭い。

 前田利家の正室であり、前田家の内を長く支えてきた女である。愛嬌の裏に、家を見る目がある。


「茶々様」


「松殿、ようこそお越し下さいました」


「花見のあとでお疲れでしょうに、急に押しかけてしまって」


「そのようなことはございません」


 私は笑みを返し、座敷へ案内した。


 その間にも、私は分かっていた。

 松殿の視線が、何気ない顔をして屋敷の中を見ていることを。


 廊下の掃き清め具合。

 控えの侍女がどの位置に控えるか。

 座敷へ入る前の一礼の深さ。

 床の間に置いた花の格。

 すべて、見ている。


 そして、案の定、座に着いてからも松殿の“気軽さ”は続いた。


「安土へ戻られてから、少しはゆっくりなされました?」


「いえ。花見の余韻に浸る間もなく、真琴様は城へ上がっております」


「まあ。相変わらず重用されておりますのね」


 口調は穏やかだった。

 だがその一言には、確認の意味が含まれている。

 織田信長が真琴様をどれほど使っているか。家の外から見ても、そこは評判に直結する。


「ありがたきことにございます」


 私は短く返した。


 松殿は、そこで茶を一口含まれた。

 そして、まるで思いついたような顔で言う。


「今日は常陸様は?」


「城にございます」


「お戻りは遅く?」


「ええ、たぶん」


「そうですか」


 それだけのやり取りだ。

 だが、その“そうですか”の中に、いくつもの意味がある。


 殿が不在がちであること。

 それでも屋敷がきちんと保たれていること。

 奥方が夫の不在をどう受け答えするか。

 そうしたものを、一つの返答で見られている。


 私は、気を抜かずに言葉を選んだ。


「安土では、どうしても城の御用が多くなります。ですが、屋敷を空にしているわけではございませんので」


 松殿の目が、少しだけ細まる。


「ええ、よう分かります。座敷もよく整っておりますし、侍女たちも落ち着いておられる」


 その言葉は褒め言葉のようでいて、やはり見定めたうえのものだった。


 私は笑みを崩さぬまま返した。


「まだまだ整えねばならぬことばかりにございます。安土は、大津と違って気の張り方が変わりますゆえ」


「そうでしょうね」


 松殿は頷いた。


「大津では城を根づかせる気苦労がある。けれど安土では、根づく前に見られる気苦労がある」


 私は、その言葉に内心で小さく感心した。

 やはりこの方は、家を守ってきた方だ。外からの視線が、ただの見物ではなく、家を値踏みする刃になることをよく知っている。


「松殿は、そうしたことをよくご存じでいらっしゃる」


「知りたくて知ったわけではありませんよ」


 松殿は、少しだけ笑った。


「ただ、前田の家に入って長いですから。気づけば、誰が何を見て、何を噂に変えるかが、自然と分かるようになっただけ」


 その“だけ”が厄介なのだ。


 私は茶を口に運びながら、松殿を観察した。

 この方は、こちらの受け答えだけを見ているのではない。

 どの部屋に誰が控え、誰が茶を出し、誰が途中で出入りするか。そうした“屋敷の動き”そのものを見ている。


 実際、桜子が茶を替えに来た時、松殿はごく自然に視線を向けられた。


「この方が桜子さんでしたか」


「はい」


 私が答えるより先に、桜子が深く頭を下げる。


「御方様付きの桜子にございます」


 落ち着いた名乗り。余計な言葉はない。

 よろしい、と私は心の中で頷いた。


 松殿は桜子の所作を見てから、さりげなく言われた。


「よい侍女をお持ちで」


「黒坂家の柱の一つにございます」


 私はそう返した。

 侍女はただの下働きではない。屋敷の格は侍女の動きに出る。だからこそ、ここで謙遜しすぎるのはかえって家を軽く見せる。


 松殿はその返答に、ほんの少しだけ満足そうな顔をなさった。


 その後も話は軽やかに続いた。


 花見のこと。

 安土の春のこと。

 大津の風のこと。

 大きな政の話をするわけではない。だが、その間にも松殿はきっちりと探っている。


 私がどこまで口を開くか。

 真琴様の不在をどう受け止めているか。

 黒坂家の内に、緩みがあるかどうか。


 私は、それに気づいていた。

 気づいていたからこそ、笑顔のまま一歩も譲らぬよう言葉を置いた。


 そうして一刻ほど話したのち、松殿は立たれた。


「今日は、花見の礼と、茶々様のお顔を見たかっただけにございます」


「その“だけ”が、重うございますね」


 私が少しだけ笑って申すと、松殿も笑われた。


「それだけで済まぬのが、奥方というものですから」


 そして、帰り際。

 座敷の外へ出るところで、松殿はふと足を止められた。


「茶々様」


「はい」


「安土では、奥方の手腕がそのまま殿の評判になります」


 その一言は、静かで、そして重かった。


 私は背筋を伸ばした。


「承知しております」


「なら、よろしい」


 松殿は深くは言わなかった。

 だが、その短い言葉の中にあるものは十分すぎるほど伝わった。


 真琴様がどれほど信長公に重用されようと、安土にある黒坂屋敷が緩んでいれば、「あの家は足元が弱い」と見られる。

 逆に、殿が不在でも屋敷が静かに整い、奥方が揺るがず立っていれば、それはそのまま殿の格になる。


 奥方同士のやり取りとは、笑顔の裏で家の値を測るものなのだ。

 そこに剣も槍も要らぬ。

 要るのは、目と、言葉と、崩れぬ姿勢だけ。


 松殿を門まで見送ったあと、私はしばらく庭に立っていた。


 風はまだ少し冷たい。

 だが、胸の内は妙に冴えていた。


 最初の来客。

 その一度で、私はもう十分に思い知らされた。


 安土では、奥方同士もまた政治である。


 この屋敷に誰をどう通し、どのように受け、どのように返すか。

 そこへ、黒坂家の評判も、真琴様の格も、そして私自身の値も乗ってくる。


 花見のあとの静けさは、ただの余韻ではなかった。

 それは、こうした見えぬ戦が始まる前触れでもあったのだ。


 私はゆっくりと屋敷へ戻った。


 桜子がすぐに近寄ってくる。


「御方様」


「何です」


「前田松様は……」


 私は小さく息をついた。


「ええ、よう見ておられました」


 桜子は神妙に頷いた。

 私もまた、もう一度心の中で言い聞かせる。


 安土では、大津以上に目が多い。

 ならば、その目の前で崩れぬ家であり続けねばならぬ。


 それが、真琴様の留守を預かる私の役目だ。

 そう改めて胸へ刻みながら、私は次の来客に備えて、屋敷の空気をもう一段、引き締めようと決めた。

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