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茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑥③話・母上様の講義――囲うなら、家にせよ

桜子たちが下がったあとも、私はしばらくその場から動けなかった。


 囲炉裏の火はいつもと変わらず赤く、真琴様もまた、いつもと変わらぬ顔でそこにおられる。

 けれど私の目には、もう以前と同じようには映らなかった。


 この方は、誰かを誘い、誰かを煽り、誰かを争わせようとしているわけではない。

 ただ、寒がれば湯を用意させ、疲れていれば休ませ、腹が減っていれば食わせる。困っていれば手を差し伸べ、居場所のない者へ居場所を与えてしまう。


 それだけのことなのに、女たちは寄る。

 寄ってしまう。

 そして、寄った先があまりにも温かいから、自分でも気づかぬうちにその温もりを手放しがたくなるのだ。


 なんと厄介な男だろう。


 私は胸の内でそう毒づいたが、同時に、それが真琴様の強さなのだとも分かっていた。

 だからなおさら、放っておいてはならぬ。


「少し、母上様のところへ参ります」


 私がそう言うと、真琴様は私の顔を少し見てから、静かに頷かれた。


「うん。茶々、その方がいいかも」


 私もそう思う。

 一人で考えると、私はきっと、正室の誇りと女としての嫉妬を、きれいに分けられぬ。


 母上様の御殿は、夕刻のやわらかな明かりに包まれていた。


 障子越しの光は淡く、香は焚かれていないのに、どこか落ち着いた気配がある。母上様の部屋というのは、不思議といつもそうだ。人の心を鎮める空気がある。


 私は部屋へ入るなり、母上様の前へ座した。


 母上様――お市は、私の顔を見るなり、すぐに微笑を消された。


「茶々。今日は、娘の顔ですね」


 その一言で、私は張っていたものが少しだけゆるんだ。


「母上様」


「話しなさい」


 私は一度、きちんと息を整えた。

 ここで変に取り繕っても仕方がない。母上様には、最初から見抜かれている。


「正室としての誇りはあります」


 言葉にすると、自分の中でもその輪郭がはっきりした。


「私は黒坂家の御方様です。真琴様の正室であり、この城の内を整える立場。そこに迷いはありません」


「ええ」


「ですが……女としては、穏やかではありません」


 そこまで言うと、胸の奥がひどく熱くなった。

 けれど母上様は笑わなかった。慰めるような顔もしなかった。ただ、静かに聞いておられる。


「桜子たちは忠義深い。お初もお江も、それぞれの形で真琴様へ近い。真琴様ご自身は何も企んでおられぬのに、気づけば女たちが集まり、周りは“いずれ側室も”と軽々しく申す。……分かっております。武家の家として自然な話だと。ですが、胸に刺さるのです」


 母上様は、しばらく答えなかった。

 庭の方から小さな鳥の声がして、それが消えてから、ようやく口を開かれた。


「武家の男が女を持つこと自体は、珍しくありません」


「はい」


「ですが、囲い方を誤れば、家が割れます」


 私は思わず顔を上げた。

 母上様の声は静かだったが、その静けさの奥に、実際にそれを見てきた者の重みがあった。


「男が好き放題に女を置けば、女同士が争う。女が争えば、その背後の実家や家臣も動く。子が生まれれば、今度はその子の立場でまた争う。……武家が女で崩れる時は、色事で崩れるのではありません。色事を、家の形へ収め損ねた時に崩れるのです」


 その言葉に、私は息を詰めた。

 まさしく、今の私が恐れていることだった。


「では、私はどうすべきなのでしょう」


 問いながら、私はもう半ば答えを求めていた。

 母上様は私の迷いを見つめ、それから少しだけ目をやわらげられた。


「桜子たちは、ただの侍女ではありませんね」


「はい」


「台所を支え、湯殿を回し、御殿の暮らしを知っている。あの三人は、もう黒坂家の機能そのものです」


「……はい」


「そうした者を、ただ“色事になるかもしれぬ女”として処理してはなりません」


 母上様は、はっきりと言われた。


「欲で囲えば乱れます。だが、秩序で抱え込めば家になります」


 私はその一言を、胸の内で何度も繰り返した。


 欲ではなく、秩序で抱え込む。


「あなたがすべきは、勝つことではありません、茶々」


 母上様が続ける。


「正室として、誰が上で誰が下かを見せつけて溜飲を下げることではない。女たちの想いが、家を乱す刃にならぬよう、家の内へ収めることです」


 私はそこで、ようやく分かった気がした。


 私はずっと、“正室としてどう勝つか”の方で考えていたのだ。

 桜子たちにどう線を引くか。お初やお江の距離をどう測るか。側室の噂をどう潰すか。

 だが、そうではない。


 勝ち負けで考えれば、いずれ誰かが負けて、そこで恨みが残る。

 家は、それでは保てぬ。


「母上様……」


「あなたは、真琴殿の妻であり、この家の女の頂です。それならば、嫉妬を恥じる必要はありません。だが、嫉妬のまま振る舞ってもなりません」


 その言葉に、私は少しだけ視界が熱くなった。

 母上様は、私が嫉妬していることを責めなかった。むしろ、それを当然のものとして受け止め、その上で一段高いところへ立てと教えて下さっている。


「私は……」


 自分でも、声が少しだけ揺れた。


「正室として立ちたいのです」


「ええ」


「ですが同時に、真琴様を独り占めしたいとも思ってしまう」


「それでよいのです」


 母上様は、少しも迷わず言った。


「ただ、その想いだけで家を動かしてはならぬ、というだけのこと」


 私は膝の上で手を握りしめた。

 そうだ。そうなのだ。


 私が今、しなければならぬのは、ハーレムを否定することではない。

 そんなことをしても、真琴様の周りに集まる者たちの想いは消えぬ。

 ならば、その想いを私の支配下へ置き、家の形に変えるべきなのだ。


 私はゆっくりと顔を上げた。


「……腹が決まりました」


 母上様は静かに頷かれた。


「そうでしょう。あなたは、そういう子です」


「皆を集め、決まりを作ります」


「ええ」


「誰がどういう立場にあり、どこまで許され、どこから先は乱れとなるか。曖昧なままにはいたしません」


 そう言葉にしていくほどに、胸の内の熱が形を変えていくのが分かった。

 嫉妬は消えぬ。けれど、それがただの痛みではなく、家を守るための強さへ変わり始めている。


 母上様は最後に、わずかに笑みを浮かべられた。


「茶々。囲うなら、家にせよ」


 その言葉は、短く、重く、美しかった。


 私は深く頭を下げた。


「はい、母上様」


 その返事をした時、私はもう決めていた。

 この先、真琴様の周りに女たちが寄ることを、ただ嘆いていてはならぬ。

 寄るなら寄るでよい。だが、好き勝手にはさせぬ。

 黒坂家の中へ抱え込み、秩序を与え、家の形へ変える。


 それが、正室たる私の役目だ。


 母上様の御殿を出る頃には、外はもうすっかり夕闇に沈み始めていた。

 廊下の先には、灯が一つ、また一つとともっていく。


 私はその灯を見ながら思う。

 次に開く座は、女たちを問い詰めるためではない。

 この家の中で、女たちがどう在るべきかを、私が決めるための座だ。


 “ハーレム”などという軽い言葉で片づけさせぬ。

 黒坂家の女人衆として、家の一部へ組み替える。


 そう腹を括った時、私の足取りは思ったよりも軽かった。

 次に進むべき道が、ようやく見えたのだ。

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