茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑥①話・御方様、女の座をひらく
妙にやさしく、妙に気まずい朝が過ぎたあと、私はその日のうちに決めた。
このまま曖昧にしていてはならぬ。
噂というものは、誰かが悪意をもって広げる時よりも、誰も悪いことをしているつもりがない時の方が、よほど厄介に育つ。
「武家として当然」
「家が大きくなれば自然とそうなる」
そのような顔で言われるものは、斬って捨てる相手がおらぬぶん、いつまでも空気の中へ残るのだ。
しかもこの黒坂家は、普通の家ではない。
母上様がおられ、私がいて、お初とお江がおり、桜子三姉妹がいる。
皆、立場は違えど真琴様との距離が近い。近いからこそ、外から勝手な名をつけられれば、いずれ家の内側まで乱れる。
ならば、私が先に座をひらく。
正室である私が、問うべきことを問う。
そう決めてしまえば、あとは早かった。
私は午後の早い刻に、母上様の御殿に近い一室を選ばせた。
広すぎぬ部屋。だが息苦しくはない部屋。女だけで話すのにちょうどよい場所。香は焚かせず、茶だけを用意させる。妙にあらたまるのも違うし、軽すぎるのも違う。
“内々の決め事の相談”という顔を保ちながら、逃げ場のない空気を作る。
我ながら、少し嫌な女になったものだと思わぬでもない。だが、家を治めるとは、時にこういうことでもある。
最初に来たのは母上様だった。
母上様は部屋へ入るなり、私の顔を一目見て、小さく笑われた。
「茶々。今日はただの茶会ではなさそうですね」
「さすが母上様でございます」
「誰を呼んだのです」
「お初、お江、桜子、梅子、桃子。……女人だけです」
母上様はそれだけで大方察したらしい。
座へつきながら、何も止めはなさらなかった。
「良いでしょう。放っておいて、よい話ではなさそうですから」
その一言に、私は内心で少しだけ救われた。
母上様がここにいて下さるだけで、私は“感情だけの娘”ではなく、“家の内をまとめる女”として立ちやすくなる。
次にお初が来た。
襖を開けて入ってきたはよいが、母上様と私の顔を見比べた瞬間に、露骨に嫌そうな顔になった。
「……何よ、この空気」
「座りなさい」
「ろくでもない話ね」
「ええ。だからこそ、あなたも必要です」
そう言うと、お初は口を尖らせながらも座った。
勘は鋭いくせに、こういう時ほど素直に逃げられぬのがこの妹である。
お江は最後まで何も分かっていない顔で入ってきた。
「なに? お菓子ある?」
「ありません」
「えー」
不満そうにしながらも、母上様の横へころりと座る。
こういう無邪気さが、今日はどう転ぶか分からぬ。私は少しだけ頭が痛くなった。
そして、最後に桜子三姉妹が揃って入ってきた。
三人とも、何かを察している顔だった。
察してはいるが、何を問われるのかまでは分からぬ、という顔だ。桜子だけは少し背筋が強張り、梅子はすでに頬が赤く、桃子は「はう」と今にも声に出しそうな顔をしている。
全員が座したのを見届けてから、私は静かに口を開いた。
「今日は、御殿内の決め事について話をいたします」
表向きの言葉を、まずは置く。
だが誰も、それだけで終わるとは思っていない顔だった。
「近頃、城内で妙な噂が立ち始めています。御世継ぎのこと、側室のこと、黒坂家の女たちのこと」
お初がすぐに顔をしかめた。
桜子たちは揃って目を伏せる。
お江だけが、「側室って昨日の?」と口にしかけたので、私は先に視線で止めた。
「私は、曖昧なまま放っておく気はありません」
そこから先は、もう回りくどく言わぬことにした。
私は、一人ひとりの顔を見た。母上様、お初、お江、桜子、梅子、桃子。
「率直に問います」
部屋の空気がぴたりと止まる。
「御主人様に、特別な想いを抱く者はおるか」
――凍った。
見事なまでに凍った。
火鉢の炭が、小さくぱちりと鳴る音だけがやけに大きく聞こえる。
お初は目を見開き、桜子たちは一瞬息まで止めたように見え、お江だけがきょとんと首を傾げた。
やがて最初に崩れたのは、お初だった。
「なっ、何をいきなり言い出すのよ姉上様!」
「いきなりではありません。いずれ問わねばならぬことです」
「だ、だからってそんな真正面から!」
「真正面からでなければ、何が分かるのです」
私が言うと、お初は口をぱくぱくさせた。
その動揺があまりにも分かりやすく、私は逆に冷静になった。
だがそこで、もっと強く反応したのは桜子たちだった。
「御方様!」
桜子がほとんど悲鳴のように言った。
「わ、私どもにそのような……!」
梅子も、桃子も、必死で首を振る。
「違います! 違うのです!」
「そんなつもりはないのです!」
「では、どういうつもりです」
私が静かに返すと、三人はそこで一斉に言葉に詰まった。
ここで誤魔化しては意味がない。
私は少しだけ声を和らげた。
「私は責めるために問うているのではありません。ですが、曖昧な言葉では済ませませんよ」
桜子が、膝の上で手をぎゅっと握った。
「……御主人様を、お慕いしております」
その一言で、梅子と桃子が一斉に桜子を見た。
お初は「ほらやっぱり!」と言いたげな顔をしたが、私は手で制した。
「続けなさい」
桜子は、頬を赤くしながらも言葉を選んだ。
「ですが、それは……男と女の、その、取り合うような想いとは少し違います。御主人様は、私たちを拾い、家族として扱い、食べることも眠ることも、みな生きることとして教えて下さいました。だから……慕わずにはいられません」
梅子が続く。
「怖いときに落ち着くのも、困った時に最初に思い浮かぶのも、御主人様です」
桃子まで、必死に言った。
「でも、お方様を差し置いてどうこうなんて、そんなこと考えたことないのです! 御主人様は大好きだけど、でもそれは、お家の主様で……」
「家族なのです!」
三人揃って、ほとんど泣きそうな顔でそう言った。
私はその必死さを見て、少しだけ胸の奥が静かになった。
この子たちは恋しているのではない、と簡単に言い切ることはできぬ。人の想いはもっと混ざりものだ。
だが少なくとも、私を押しのけて取って代わろうなどという黒い欲ではない。それは確かだった。
そこで、お江がのんきに言った。
「好きだよ?」
また空気が壊れた。
お初が振り向く。
「お江!」
「え、だって聞かれたから答えただけじゃん」
「そういう“好き”じゃないでしょう!」
「そうなの?」
お江は本気で分かっていない顔をしていた。
私はもう頭を抱えたくなったが、同時に、この子の一言が時に一番本質を暴くことも知っている。
「お江。どういう意味で“好き”なのです」
「えーっとね」
お江は少し考え、それから指を折りながら言った。
「一緒にいると楽しいし、抱っこしてくれるし、ごはんの時にちゃんと話聞いてくれるし、叱る時も怖すぎないし、あったかいし、好き」
……なるほど。
それは恋というより、甘えと信頼と依存の混ざった“好き”だ。
お江は男として真琴様を見ているのではなく、“自分を受け止めてくれる大きな人”として好きなのだろう。
お初はまだ顔を赤くしていた。
私はそちらへ視線を向ける。
「では、お初」
「な、何よ」
「あなたは」
「私は違う!」
早すぎた。
私は思わず眉を上げた。
「まだ何も聞いておりません」
「聞かなくていい!」
お初は耳まで真っ赤にして怒鳴った。
その過剰反応に、母上様がとうとう袖で口元を隠された。笑っておられる。
「お初、落ち着きなさい」
私が言うと、お初ははっとしたように息を呑み、むりやり座り直した。
「……私は」
少し間を置いて、お初が絞り出すように言う。
「別に、姉上様みたいな意味じゃないわよ」
「“姉上様みたいな意味”とは」
「だ、だから!」
また赤くなる。
この子は、思っていた以上に分かりやすい。
「真琴は、変な男よ」
やがて、お初はふてくされたように続けた。
「寒い寒いってうるさいし、偉いくせに威張らないし、女の扱いも妙に慎重だし、こっちのこと見てるのか見てないのか分からないし……でも、信用はできる」
私は黙って聞いた。
「だから、その……家族として、というか」
「家族?」
「うるさい!」
お初がとうとう顔を覆った。
私は小さく息をついた。
もう、この時点で十分すぎるほど分かった。
桜子たちは、忠義と敬愛と家族愛が混ざっている。
お江は甘えと信頼そのものだ。
お初は……まだ自分でも整理がついていないのだろう。だが少なくとも、軽い気持ちではない。
そして母上様は、最初から静かに見ておられた。
母上様に問う必要はない。母上様の立場は別だ。けれど、その眼差しの奥には、私が問いたかったことの答えがすでに見えていた気がする。
私は一度、全員を見回した。
「よろしい」
その一言で、皆が少しだけ姿勢を正す。
「大体、分かりました」
お江が首を傾げる。
「何が?」
「この家の女たちの心持ちです」
私はそう答えた。
「恋だの色だのと、一言で片づくものではありませんね。敬慕、憧れ、甘え、家族への情……それらが混ざっている」
桜子たちは、まだ不安そうにこちらを見ている。
お初は露骨に目を逸らした。
お江だけが「うん」と頷いた。何に納得したのかは不明だが。
私はその様子を見ながら、胸の内でようやく自分の立ち位置を掴み始めていた。
これをただの“女の争い”として見れば、家は乱れる。
だが、構造として見れば違う。
この者たちは皆、違う形で真琴様へ寄っている。そしてそれを放置すれば、やがて外から勝手な名をつけられる。
ならば私は、嫉妬だけで騒いではならぬ。
正室として、これを整理し、位置を与え、線を引かねばならぬ。
「今日はこれで終わりではありません」
私がそう言うと、お初が露骨に嫌そうな顔をした。
「まだ何かあるの?」
「ええ。次は、どう治めるかを決めます」
その言葉に、部屋の空気がまた少し変わった。
そうだ。
私は今、感情だけで動いているのではない。
黒坂家の内を治めるために動き始めているのだ。
そしてたぶん、それこそがこの“ハーレム問題”に対して、私が取るべき最初の形なのだった。




