茶々視点外伝大津城暮らし編・①⑥⓪話・妙にやさしい朝――昨夜の余韻と城の視線
翌朝、目が覚めたとき、私はしばらく自分がどのような顔をして城の中を歩けばよいのか分からなかった。
障子の向こうはもう明るい。
大津城の朝は早い。台所では桜子たちが湯を沸かし、足軽屋敷では番の交代があり、政所には朝から帳面が積まれる。城は主の心など構わず、いつも通りに動き出す。だからこそ、私もいつも通りに起き、いつも通りに衣を整え、いつも通りに食事の間へ向かわねばならない。
頭ではそう分かっていた。
だが、心の方はそう簡単ではなかった。
昨夜、私は真琴様ときちんと向き合った。
正室として、黒坂家の妻として、そして女として、自分の気持ちを言葉にした。
そのこと自体に悔いはなかった。悔いはないが、だからといって翌朝から涼しい顔でいられるほど、私は出来た女でもない。
鏡の代わりに磨かれた金具へ顔を映し、私は小さく息をついた。
「……よし」
自分へ言い聞かせるように呟き、立ち上がる。
羞恥は胸の内へしまう。今朝の私は黒坂家の御方様でなければならぬ。
そうして食事の間へ向かったのだが――。
襖を開けた瞬間、私は「だめだ」と思った。
空気が、妙にやさしい。
妙に、やさしすぎるのである。
桜子がいつもより半拍早く膝をつき、
「お、おはようございます、御方様」
と、やや裏返った声で言う。
梅子は汁椀を持ったまま、なぜかこちらを見ずに少しだけ横を向いている。
桃子にいたっては飯櫃を抱えたまま、柱の木目を見つめて固まっていた。
私はその場で目を閉じたくなった。
昨夜のことを、何も知らぬ顔で迎えてほしいなどとは思わぬ。思わぬが、ここまで“知っております”“でも触れませぬ”“だから余計にぎこちないです”という空気を出されると、こちらとしてはたまったものではない。
「……おはようございます」
私が言うと、三人は一斉に頭を下げた。
「おはようございます!」
「おはようございます」
「おはようございますです」
揃いすぎていて、逆に怪しい。
私は静かに座へつき、囲炉裏の火を見た。
普段なら落ち着くはずの火が、今日はやけに眩しく思える。
「桜子」
「はいっ」
返事が無駄に良い。
「なぜそのように緊張しているのです」
「き、緊張など……」
「しております」
ぴしゃりと言うと、桜子は口を閉じた。
梅子はますます魚へ集中したふりをし、桃子は飯櫃を抱え直した。
……なんだこの朝は。
そこへお初が入ってきた。
入ってきた、というより、襖のところで一度立ち止まり、こちらを確認してから、仕方なく入ってきた、という方が近い。しかも目が合った瞬間に、あからさまに逸らした。
「おはよう、姉上様」
「おはようございます、お初」
「……うん」
以上で会話終了。
いつもなら何かしら一言二言、余計なことまで付け足す娘が、今日はやたらと短い。
お初のこの分かりやすさには、逆に感心する。
「お初」
「な、何よ」
「なぜこちらを見ないのです」
「見てるわよ」
「見ておりません」
「見てるって」
「では目を合わせなさい」
「……」
お初は一瞬だけこちらを見たが、次の瞬間にはまた魚の方を向いてしまった。耳だけが赤い。
私は頭が痛くなってきた。
せめて真琴様だけでも普段通りでいて下されば、まだ少しは助かるのだが――そう思った時、真琴様が入ってこられた。
そして、やはり少しだけぎこちなかった。
普段なら「おはよう、今日も寒いね」などとまず囲炉裏の温度へ文句を言うのに、今日は入り口で一拍止まり、私と目が合うと、何とも言えぬ顔で咳払いを一つした。
「……おはよう」
「おはようございます」
そこだけは普通に返せた。
だが、その後の座り方がぎこちない。火鉢へ寄りたいが寄ってよいのか分からぬといった風で、結局いつもより妙に姿勢よく上座へ座る。そんなところだけ官位持ちらしくなられても困る。
私は心の内で、もうどうにでもなれ、と思い始めていた。
そして、その空気を完膚なきまでに壊したのがお江だった。
「姉上様、おはよう! 赤ちゃんできた?」
真っ直ぐ。
あまりにも真っ直ぐ。
私は汁を吹き出しそうになり、お初は盛大にむせ、桜子たちは三人揃って固まり、真琴様はちょうど持ち上げた茶碗を落としかけた。
「お江!」
私とお初の声が重なる。
「何よぉ、だって気になるじゃない」
「気になるのと、朝一番に聞いてよいことかは別です!」
「えー」
お江はまるで分かっていない顔をした。
この子だけは本当に空気を読まぬ。だが、読まぬからこそ、場が妙に救われることもある。今は救われるというより、全面的にひっくり返されたのだが。
真琴様は額を押さえながら言った。
「お江、その話題は少なくとも朝餉の最初に出すものじゃないかな……」
「じゃあ最後ならいいの?」
「そういう話じゃなくて」
私は深く息をついた。
このままでは、今日一日この空気をずるずる引きずる。どこかで切らねばならぬ。
「お江、まずは座りなさい。話はそれからです」
「はーい」
元気な返事が腹立たしいほど可愛い。
お江が座ると、ようやく朝餉が始まった。
だが、気まずさが完全に消えたわけではない。
桜子たちはやはり妙に丁寧で、お初は魚を食べることへ集中しているふりをしているし、真琴様は真琴様で、囲炉裏の火を見ながら何か考え込んでいる。
その中で、私は少しずつ平静を取り戻していた。
――この気まずさは、そのうち薄れる。
――だが、今朝から漂い始めた別の気配は、放っておいてはならぬ。
それは朝餉の終わり頃、宗矩が政所へ出仕する前の挨拶に来た時、はっきりと形になった。
「御大将、御方様」
宗矩はいつもの無表情で頭を下げた。
だが、そのあとにほんの一拍、言葉を選ぶような間があった。
「城内の下々まで、黒坂家の御世継ぎへの期待が広がっております」
私は箸を置いた。
やはり来た、と思った。
真琴様は気まずそうに咳払いをしたが、宗矩は構わず続けた。
「めでたきことと申す声が多うございますが……それに伴い、いささか軽々しい噂も」
「……側室、ですか」
私が先に言うと、宗矩は静かに頷いた。
「悪意というより、武家として当然という物言いにございます」
それが一番厄介なのだ。
悪意があれば怒れる。
敵意があれば斬れる。
だが、“当然”という顔で言われるものは、正面からはね返しても、別の口からまた出てくる。
家が大きくなれば、世継ぎが求められる。
世継ぎが遅れれば、側室という話が出る。
武家の常識。
分かっている。分かっているが、それを頭で分かることと、胸へ刃のように感じることとは別だった。
私は、朝とは違う種類の熱が胸へ差し込むのを感じた。
桜子たちは、いっそう小さくなった。
お初は露骨に顔をしかめ、お江だけが「側室って何?」と聞きそうな顔をしていたので、私は先に視線で止めた。
真琴様が、宗矩に向かって低く言った。
「軽々しく広げないように」
「はっ」
宗矩は短く答え、下がっていった。
その背を見送りながら、私は胸の内で静かに考えていた。
これは、もう私一人の恥や嫉妬の話では済まぬ。
正室としての立場、黒坂家の形、この城の女たちの距離――そうしたものすべてに関わる話になり始めている。
桜子三姉妹は真琴様に近い。
お初も、お江も、真琴様へ向ける距離が近い。
母上様でさえ、黒坂家の内側に深く入っておられる。
この家は、普通の家よりずっと女が多く、しかも皆が同じ男の周りで自然に息をしている。
そこへ“側室”という言葉が落ちれば、いずれ何かが乱れる。
私はゆっくりと立ち上がった。
「御方様?」
桜子が不安そうに呼ぶ。
私は三人を見た。お初も、お江も見た。
そして真琴様にも目を向けた。
「……このままでは駄目です」
自分でも驚くほど、声は静かだった。
「茶々?」
真琴様が問う。
「この話は、きちんと座を設けて整理いたします」
そう言った時、私は初めて自分の中に、羞恥とは別の熱を感じていた。
逃げてはならぬ。
怒って散らしてもならぬ。
ならば――正室である私が、主導権を取るしかない。
気まずい朝は、そこで終わった。
だが同時に、黒坂家の“ハーレム問題”の火も、そこではっきりと灯り始めたのだった。




