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茶々視点外伝 茶々視点・①③②話・元旦、夜明けの大津城

 元旦の朝は、音より先に寒さで目が覚めた。


 布団の中で一度息を吐くと、白くはならないものの、胸の奥がきゅっと縮むような冷たさがある。大津城は安土城より平たく、暮らしやすい造りだが、その代わり琵琶湖から吹き込む風が容赦ない。障子の向こうで、その風がどこかの板戸をかすかに鳴らしていた。


 私は布団の中でしばらく天井を見つめていた。


 真琴様がいない。


 その事実は、夜よりも朝にこそ強く胸へ落ちてくる。眠る前は「留守を預かる」と気を張っていられても、目覚めた瞬間だけは、いつものように廊下を熊の毛皮でうろうろする姿を探してしまうのだ。探してから、いないと気づく。元旦の朝から、我ながら情けない。


 だが、情けなさに浸っている暇はない。


 私は身を起こし、寝間着の襟を合わせると、侍女を呼ぶ前に自ら行灯へ手を伸ばした。昨夜の灯はすでに弱く、芯を少し出して火を整える。橙色の明かりがゆっくりと部屋に広がり、床脇に置いた扇や文箱の輪郭が浮かび上がった。


 「……今日からが、本当の意味での始まりですね」


 誰に聞かせるでもなく呟いてから、私は鈴を鳴らした。


 すぐに襖の向こうから気配がして、桃子が控えめに声をかける。


 「お方様、お目覚めですか?」


 「ええ。皆も起きているの?」


 「はいなのです。桜子姉様と梅子姉様は、神棚と台所の仕度を見ておりますです」


 さすがだ。元旦の朝に寝坊するような者が、黒坂家の台所を預かれるわけがない。私は少しだけ口元を緩めた。


 「湯をお願いします。それと、神棚とお社の様子を見に行きます」


 「はい、お方様」


 着替えを手伝わせながら、私は窓の外を見た。まだ夜と朝の境目で、東の空がほんの少しだけ青みを帯びている。大津城の屋根瓦には、白く霜が降りているようだった。


 身支度を整えて廊下へ出ると、城の朝の匂いがした。

 炭。湯気。磨かれた板。遠くの台所から流れてくる出汁の香り。

 そして、まだ人が大声を出さぬ刻ならではの、静かな足音。


 私はまず神棚へ向かった。


 昨夜奉納した餅は、白さを保ったまま整っている。榊も水気を失っておらず、御神酒の器も乱れはない。私は一つずつ目で確かめ、手を合わせた。


 「本年も、黒坂家をお守り下さいませ」


 それから鬼門と裏鬼門のお社も順に見て回る。城主が不在の折、こうした所がおろそかになっていると、人の心はそれだけでざわつく。神仏を敬うことと、城の空気を整えることは、私の中では同じことだった。


 見回りを終えて御殿へ戻る頃には、東の空が明るく開きはじめていた。私は思い立って、琵琶湖の見える廊下へ出る。


 冬の湖は、夜明け前だけ別の生き物のように見える。黒く、静かで、どこまでも深い。

 その水面の向こう、山の稜線が少しずつ朱に染まり、やがて細い光が差した。


 初日の出。


 その瞬間、思わず背筋が伸びる。

 安土では見えなかった角度の朝日だ。大津に来て初めて迎える元旦。ここが本当に新しい居場所になったのだと、今さらながら胸の奥へしみてくる。


 「お方様」


 後ろから桜子が声をかけた。


 振り向けば、桜子、梅子、桃子の三姉妹が少し離れた所で手をついている。さらにその後ろには、夜番を終えた忍びや、早朝から詰めていた家臣たちの姿もあった。皆、私が日の出を見ているからなのか、声を潜めている。


 「皆も、こちらへ」


 私がそう言うと、一同は少し驚いたようだったが、遠慮がちに廊下へ寄った。


 「元旦の朝日です。真琴様がいらっしゃるなら、きっと皆で拝ませたでしょう。だから今年は、私がそうします」


 自分で言っておいて、少しだけ胸が熱くなる。

 真琴様なら本当にそうしただろう。身分も役目も関係なく、朝日に向かって「今年もよろしく」とでも言いそうだ。


 私は手を合わせた。


 「この大津の城と町に暮らす者たちが、今年も健やかでありますように。黒坂家が、無駄な争いなく役目を果たせますように」


 言い終えると、周りの者たちも一斉に手を合わせた。忍びまできちんと拝むのが少しおかしくて、しかし頼もしい。


 桃子が、小さく言う。


 「御主人様がいたら、きっと長くお願いしてたです」


 「そうね。“ついでに風邪が流行りませんように”とか、“米相場が荒れませんように”とか、“寒さが和らぎますように”とか、たくさん言いそうです」


 私がそう返すと、皆がくすりと笑った。


 笑いが出る。

 それだけで、この城の空気は悪くない。そう思えた。


 「お方様、朝餉の仕度が整っております」


 桜子が告げる。私は頷いた。


 「では、皆もまず温かいものを口にしなさい。元旦だからといって、空腹で働かせるのはよくありません。……これも真琴様なら言うことでしょう?」


 「はい」


 桜子が微笑む。


 食事の間には、すでに囲炉裏の火が起こされていた。

 湯気の立つ雑煮、昨夜の餅、軽く炙った魚、香の物。決して豪奢ではないが、寒い朝には十分すぎるほどありがたい。


 私は上座へではなく、皆の様子が見える位置に座った。城主ではない。だが、城主の留守を預かる者として、まずは自分が落ち着いて座ることが大事だと思ったからだ。


 「お初は?」


 椀を受け取りながら尋ねると、梅子が答える。


 「まだ母上様のお部屋でございます。お江様もご一緒かと」


 「そう……なら、起きたらこちらへ来るように伝えなさい。雑煮が冷める前に」


 「はい」


 私は汁をひと口飲む。出汁が染みた。

 その温かさに、ようやく元旦の朝が自分の中へ入ってきた気がした。


 城主のいない正月。

 だが、城は生きている。人がいて、火があって、湯があって、朝日が差す。


 「……真琴様が戻られる頃には、この城を“落ち着く城”にしておきませんとね」


 思わずそう漏らすと、桜子がすぐに頷いた。


 「はい。御主人様、きっと“やっぱり我が家が一番”って言うです」


 「そして、すぐに“寒い”とも言うでしょうね」


 また、皆が笑った。


 笑いながら、私は胸の内で静かに決める。

 この元旦の夜明けを、良い始まりにする。

 大津城の朝が、ただの“留守番の朝”ではなく、黒坂家が根を張る朝だったと、あとで胸を張って言えるように。


 私は椀を置き、城の奥を見た。

 まだ新しい木の匂いが残る御殿の向こうで、冬の光が少しずつ広がっていく。

 大津城の元旦は、そうして静かに、しかし確かに始まっていた。

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