茶々視点外伝 茶々視点・①③③話・年賀の客人――前田正虎、初登城
正月二日の大津城は、元旦の張り詰めた空気より、わずかに柔らかかった。
城のあちらこちらに飾られた門松は朝霜を受けて白く縁取られ、台所からは雑煮の出汁と焼いた魚の香が流れてくる。城主たる真琴様は上洛中。ゆえにこの城を預かるのは私だが、元旦を無事に越えたことで、家臣たちの顔にもほんの少しだけ余裕が戻っていた。
私は居間で桜子の煎れた茶を飲みながら、今朝届いた城下の報告書に目を通していた。年始の施し餅は滞りなく配られ、町人地でも大きな揉め事はなし。門番の交代も問題なし。そうした細かな文字の並びを追っていると、障子の向こうで控えていた桃子が、少し弾んだ声で告げた。
「御方様、前田家より年賀の御使者が参っておりますなのです」
「前田家から?」
私は筆を置いた。
前田家といえば、慶次がすでに黒坂家の家老職としてこちらに深く関わっている。わざわざ年賀の使者を立てるとなれば、利家殿か松殿の意向が強いのだろう。
「どなたです?」
「前田正虎様と名乗っておりますです」
その名に、私は一瞬だけ首をかしげた。正虎――たしか、慶次の嫡男の名だったか。まだ若いはずだ。
「通しなさい」
そう言うと、桃子が廊下の向こうへ下がり、間もなくして一人の少年武者が入ってきた。
年の頃はまだ十代半ばほど。だが小袖や袴の着こなしに乱れはなく、髪もきちんと結い上げられている。背丈はまだ伸びきってはいないが、肩の張りや足の運びには武家の子らしい芯があった。なにより、部屋へ入ったその瞬間にぴたりと歩みを止め、実に見事な作法で膝を折ったのが目を引いた。
「前田正虎にございます。本日は年賀のご挨拶に上がりました。黒坂家御方様におかれましては、新春の御慶び、謹んで申し上げます」
……礼儀正しい。
私は思わず、心の中でそう呟いてしまった。
いや、礼儀正しいのは当たり前なのだが、相手が“慶次の嫡男”だと思うと、どうしても構えてしまっていた自分がいたのだ。もっとこう、勢いで飛び込んできて「大将はいるか!」などと言い出すのかと勝手に思っていた。血は争えぬ、とよく言うが、必ずしもそうでもないらしい。
「面を上げなさい。わざわざご苦労です、正虎殿」
「はっ」
顔を上げた正虎の眼は真っ直ぐだった。
慶次に似て、目の力は強い。だがあの男のような奔放さはまだ見えず、むしろ利家殿の家の嫡男として恥じぬよう己を律している風があった。
桜子が茶を運ばせ、正虎の前にも置く。正虎は茶碗に手を添える前に、きちんと私へ一礼した。その一つひとつが丁寧すぎるほど丁寧で、逆に可笑しみすら覚える。
「……正虎殿」
「はい」
「慶次のご子息と聞いていましたが」
「はっ」
「ずいぶんと、礼儀作法がきちんとしていますのね」
言ってから、少々率直すぎたかと思った。だが正虎は一瞬きょとんとし、それからわずかに頬を引き締めた。
「父上のことを申されているのでしたら、よく存じております。父上は……少々、自由すぎるところがございますゆえ」
少々どころではない、と私は思ったが、さすがに口には出さなかった。
しかし、そこで障子の外にいたお初が堪えきれなかったらしく、ふっと吹き出した。
「少々、ですって。慶次を“少々”で済ませるなんて、随分と親孝行な息子じゃない」
「お初、笑うところではありませんよ」
「だって姉上様、この子、慶次の息子なのにまともなのよ?」
「“なのに”は余計です」
私が窘めると、正虎は慌てて頭を下げた。
「い、いえ、父上の奇行に関しては前田家でも皆……」
そこまで言って、正虎は口を噤んだ。
きっと家中でも、ずいぶん苦労しているのだろう。私は少しだけ憐れみを覚えた。
「安心なさい。ここでは慶次の酒癖と派手好きは、もはや季節の移ろいと同じようなものです」
そう言うと、正虎は目を丸くし、それから堪えきれず小さく笑った。
まだ若いその笑顔に、緊張がほどけたのが見て取れる。
「さて、年賀の使者として来たのなら、何か言付けもあるのでしょう?」
「はっ。前田家より、黒坂家の弥栄を寿ぎ、今年も変わらぬ縁を願うと」
「ありがたく受け取りましょう」
私は頷いてから、改めて正虎を見た。
この少年は、ただ言葉を運ぶだけでは終わらぬ気がした。何か、もっと別の思いを抱いて来ている――そんな目だ。
「それで? 正虎殿」
「……はい」
「まだ何か、申したいことがあるのでしょう」
正虎は少しだけ迷った後、膝の上で拳を握った。
「恐れながら、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「許します」
「常陸様は……いかなるお方なのですか」
その問いに、私は一瞬だけ瞬きをした。
前田家の者であるなら、慶次から嫌というほど聞かされているはずだ。だが正虎は、人づての評判ではなく、自分の目で確かめたいのだろう。
「どういう意味で?」
「父上は、常陸様を“本物の大将”と申します。利家様も、松様も、常陸様をただの成り上がりとは見ておられぬ。城下でも、若い者たちが皆、黒坂家のことを話しております。新しい軍、強い火縄銃、忍びを使った情報の集め方……そして、身分に関わらず人を用いるお姿まで」
正虎の声には、若武者らしい熱が宿っていた。
「私は、それを聞くほどに思うのです。……常陸様のような武将に仕えるのが、理想なのではないかと」
その言葉に、お初が目をぱちりとさせた。
私もまた、胸の奥に小さな波紋が広がるのを感じた。
次世代の若武者が、すでに真琴様を“理想の主”として見始めている。
それは嬉しくもあり、同時に恐ろしくもあった。理想は期待を呼ぶ。期待は人を集める。人が集まれば、力にもなるが、妬みもまた集まる。黒坂家はいま、まさにそうした場所に立っているのだ。
「……正虎殿」
「はっ」
「真琴様は、たしかに不思議なお方です。織田の軍師として知恵を振るいながら、人を駒のようには扱わない。家臣にも侍女にも、私たち姫にも、根のところでは同じように接する」
私は、知らず知らずのうちに言葉を選びながらも、心に浮かんだままを語っていた。
「ですが、あの方は楽な主ではありませんよ。優しいようでいて、人に任せる時はとことん任せる。信じた者には重い役目も背負わせる。それを嬉しいと思うか、苦しいと思うかは、仕える者次第です」
正虎は、まっすぐに私を見た。
「それでも、私は学びたいと思います。父上がなぜ常陸様をそこまで認めるのか、自分の目で見てみたい」
「……そう」
私は頷いた。
前田慶次の嫡男が、そのような目で黒坂家を見ている。
それだけで、この家がただの一代の奇跡ではなく、次へ続く“憧れ”になりつつあるのだとわかった。
「ならば、正虎殿」
「はっ」
「まずは、礼を尽くすことを忘れぬそのままでいなさい。それは、武だけでは手に入らぬ強さです」
「……はい!」
正虎は深く頭を下げた。
その額が畳に触れる様を見ながら、私は心の中で静かに思う。
黒坂家はもう、ただ真琴様だけの家ではない。
若い者たちが見上げ、目指し、ここに何か新しい武家の形を見る――そんな家になり始めているのだ、と。
やがて正虎が辞去し、お初がぽつりと呟いた。
「慶次の息子なのに、本当に真面目だったわね」
「だから“なのに”はやめなさい」
そう言って私は苦笑したが、心の内では、お初と同じことを思っていた。
そして同時に――あのような若武者にまで黒坂家が見られているなら、私もまた、軽々しくは振る舞えぬのだと、改めて背筋を伸ばしたのだった。




