茶々視点外伝 茶々視点・①①⑨話・婚礼行列仕度
翌朝、目を覚ますと――昨夜あれほど土の匂いをまとって戻ってきた猿飛佐助の姿が、もうどこにもなかった。
障子越しの光は淡く、庭の砂利はまだ夜の冷えを抱えたまま。私は布団の端を整えながら、胸の奥に小さな不安が刺さるのを感じ、すぐ侍女を呼んで確かめた。
「佐助は……?」
「はい、御方様。日が明けてすぐでございました。握り飯を二つほど頬張り、湯も飲み干して、馬にて大津へ戻ったと」
……よかった。
“夜明けまで仮眠を取れ”という命は守られたのだ。無理にでも走り出していたら、私はきっと後悔した。忍びは頑丈でも、人の身体は一つしかない。
私は朝餉を済ませ、髪を結い直し、袖口を整える。安土の屋敷は引っ越しのあとで静寂が濃く、柱や畳の軋みさえよく聞こえる。そんな折、門の方がわずかにざわめき、ほどなくして控えの者が告げた。
「前田松様、御来訪にございます」
私は居住まいを正し、応対の間へ出る。松殿はいつものように背筋が通っており、朝の冷気の中でも表情は崩れない。だが、目の奥だけは“無事”を確かめに来た母のそれに近い温度があった。
「無事入城したと、慶次から知らせが来ました」
「わざわざご苦労です。ですが昨夜、既に早馬で家臣が報告を済ませております」
「そうでございましたか」
松殿は少しだけ息を落とし、肩の力が抜けた。形式の言葉の下に、安堵が見え隠れする。そのまま話を切り替えるように、松殿は口を開いた。
「で、茶々様の婚礼行列はいつ頃に?」
「次の大安にいたします。その事を蘭丸に伝えていただけますか?」
「はっ。ではその様に」
きびきびと一礼し、松殿は踵を返す。あまり長居をしないのも、彼女の気遣いだろう。私は見送りながら、安土という場所がどれほど“耳”の多い土地かを思い出す。余計な会話は、余計な噂を生む。
松殿が去り、部屋に戻ると――柱陰から、ひょい、と小さな顔が覗いた。
「……千代」
「ひたち様、いる?」
その声は、探り探りで、それでも真っ直ぐだった。
「千代、あまりふらふらしていると屋敷の者が心配しますよ」
「侍女は門に付いてきてます」
「そうですか。なら良いのですが……当家だから良いのですからね」
千代はこくりとうなずき、少しだけ唇を尖らせた。
「はい。茶々様、母上様も父上様も、ひたち様の所なら遊びに行っても良いって言ってます……でも、ひたち様いない……」
「寂しいのですか?」
私はしゃがんで目線を合わせる。千代は躊躇うように一瞬だけ目を伏せ、こくりと頷いた。その仕草が――どこかお江と重なる。胸の内に、柔らかい痛みが走る。
「しばらく大津の城に住むので、そうそう会えないでしょう。大津は今、城や町づくりで気の荒い職人が集まっております。落ち着いてから遊びに来ると良いでしょう」
「茶々様も行っちゃうの?」
「私も来週には大津に入ります」
そう言った途端、千代は黙って私に抱きついてきた。小さな腕は頼りないのに、力は思いのほか強い。私は背を撫で、髪をそっと梳く。
「わたし、ひたち様好き……黒坂家のみんな好き」
「そうですか」
「茶々様も好き。みんな優しい……でも、特別扱いの優しさじゃない」
幼子にして、そんな言葉を選ぶのか。私は感心しつつも、胸の奥で別の影がちらつく。――誰かに“言わされている”のでは、と。だが千代の瞳は、嘘を知らぬ水のように澄んでいた。
「ひたち様が、みんな分け隔てなく接してる。だから居心地が良いの」
「確かに真琴様は、家臣や侍女にも私達と変わらぬ接し方をする方ですね」
「黒坂家で、いつか暮らしたいです」
その言葉に、私は一瞬だけ松殿や利家殿の思惑を疑いかけて――すぐにやめた。今の千代は、駆け引きではなく、ただ“寂しい”のだ。
「そうですか……しばらくしたら、慶次と共に大津の城を訪ねると良いでしょう。慶次はこの屋敷で留守居役となるので、毎日おりますよ」
「慶次のおじちゃん、酒臭いから嫌」
思わず私は笑ってしまう。
「はははははっ。あまりにも酒臭いときは、私の代わりに叱りつけなさい」
「うん、わかった……わかりました」
言い直して、少しだけ胸を張る。
その小さな背伸びが、愛おしい。
ほどなくして、長居は失礼だと察したのだろう、門で待っていた侍女が中庭から迎えに来た。私は千代の手をほどき、侍女へ渡す。
帰っていく小さな後ろ姿――その歩き方、首の角度、どこか誇らしげな気配に、私は松殿を重ねて見てしまった。
……頼もしい姫に成長したなら。
黒坂家に迎える日が来てもよい――私は、その思いを言葉にせず胸の内へ沈めた。




