茶々視点外伝 茶々視点・①①①話・黒坂家屋敷留守番
真琴様が賤ヶ岳城の視察へ向かわれた日、私は黒坂家屋敷で留守を預かっていた。
引っ越しの支度はほぼ整い、桜子と梅子は今井屋へ買い出し。
屋敷に残っているのは桃子と、前田・真田の護衛衆だけ――静かで、張りつめた静けさだ。
お初とお江は、真琴様が不在と知ると今日は来ていない。
あの二人がいないだけで、空気がひとつ軽くなる……などと言えば叱られるだろうが、正直、今日は“平穏”という言葉がよく似合っていた。
私は茶室に残してあった茶道具を、庭の見える縁側へ持ち出して手入れしていた。
棗を柔らかい布で撫で、茶杓の欠けがないか確かめ、柄杓の柄の乾き具合に指先を滑らせる。
こういう細々した作業は、心が落ち着く。炉がない季節でも、道具は私の呼吸を整えてくれる。
――その時だった。
「菜っ葉はいらんかぇ~、芋はいらんかぇ~」
間の抜けた、けれど妙に通る声が、庭の方から聞こえた。
同時に、土を踏む足音。私は手を止め、縁側から庭へ視線を落とす。
そこには、いつの間に入り込んだのか、背を丸めた老婆が一人。
頭巾を深くかぶり、籠を背負っている。
物売り――そう見えた。だがここは黒坂家屋敷。庭先に勝手に入るなど、あり得ない。
背筋が冷える。
真琴様は不在。桜子と梅子もいない。
私は奥方として動揺を見せるわけにはいかぬが、胸の奥がきゅっと縮むのを抑えられなかった。
「誰です! 無礼な! ここは黒坂家屋敷ですよ!」
声を強くする。縁側に座したままでも威を保つ――それが、私の役目だ。
「ひぇ~、許してくれぇ~。おらぁ~ここに出入りさせてもらってる者だ。ここの殿様とも顔なじみだぁ」
老婆は肩をすくめ、怯えたように言う。怯え方が芝居じみているようにも見える。
私は疑いを捨てないまま、言葉を選んだ。
「でしたら裏へ回りなさい。桃子がいるはずです」
屋敷の者に通すのが筋だ。
私の指示で動くなら、裏へ回るはず――そう思ったのに。
「今日は殿様いねぇ~のけ? せっかく豆餅も作ってきて、あんちゃんに食わせてやっぺと思ったのに」
老婆は私の言葉など聞き流し、背負った籠をどさりと下ろした。
そして縁側の端に、野菜や芋、それに乾かした豆餅を次々と並べ始める。
……勝手が過ぎる。
「ですから、裏へと言ったではありませんか。無礼な……桃子、桃子!」
私は堪え切れず名を呼ぶ。声が少し尖ったのを自覚し、すぐに息を整えた。――これ以上、動揺を見せてはならない。
襖の向こうから、ぱたぱたと小走りの音。
桃子が現れ、庭の老婆を見るなり目を丸くした。
「はい、御方様、なにいたしましたのです? ……って、羽柴様のお母様、なぜに?」
羽柴様――秀吉殿。その母君?
桃子の声に、私の中で一つの“警戒”が“戸惑い”へ変わった。
老婆もまた、桃子の言葉を聞いて青ざめ、地面へ膝をついた。
「黒坂様の奥方様……ひぇ~、御館様の姪御様けっ! お許し下さい。なんまんだ、なんまんだ……」
拝むように手を合わせ、ぶつぶつ唱える。
私は思わず目を瞬いた。――私が“姪”であることまで知っている? 噂は、こんな所まで届くのか。
「桃子、こちらは……?」
問いかける声が、ほんの少しだけ硬くなる。
「羽柴筑前守様の母君なのです。たまにふらっと畑の物を置いていくのでございます」
そう言われ、私はようやく腑に落ちた。
真琴様は不思議と、人の懐へ入り込む。身分の高い者にも、低い者にも、同じ目線で話してしまう。
だからこそ、こういう縁が生まれるのだろう。
「そうでしたか……私はてっきり物売りかと思ってしまいました。羽柴殿の母君なら、膝をお上げになられて。どうぞ、縁側へ」
私は手で座を示し、穏やかに促した。
粗相をしたのは向こうでも、ここで追い払えば角が立つ。羽柴殿の母君という相手なら尚更だ。
だが老婆は首を横に振り、縮こまったまま言う。
「とんでもねぇ~こって……御館様の姪御様に、とんだ粗相しちまったおらぁ……」
「気にしておりません。桃子、お茶をお出しして差し上げて」
そう命じた瞬間、老婆はまるで逃げるように籠を縁側へ置き、背を丸めてそそくさと庭を抜けて行った。
「……え?」
あまりに速い。
お茶を点てる間もない。まるで“置くこと”だけが目的だったかのように。
私は、縁側に残された作物と干し餅を見下ろしながら、ぽつりと尋ねた。
「桃子、あの方は本当に羽柴秀吉の……?」
「はい。以前来られたとき、前田の松様がそう言っていたので、間違いないと思うのです。たまにこうやって作物とか干し餅とか置いていかれるのです。御主人様のこと、たいそう気に入っているみたいで……」
気に入っている――その言い方が、妙に温かい。
だが私の口から出たのは、違う言葉だった。
「付け届けにしては、貧素ですね」
言ってから、少しだけ己の冷たさに気づく。
けれど戦国の世で“贈り物”とは、時に刃よりも重い。軽んじるわけにはいかない。
桃子は首を振り、真面目に答える。
「御主人様は逆に、こういう物だからこそ遠慮なく受け取れると喜んでいるのです。御主人様は、たまに卵や菓子など届けさせていますなのです」
「……真琴様らしいですね」
思わず苦笑が漏れた。
豪奢な献上品より、土の匂いがする芋を喜ぶ――あの人は、そういうところがある。
「はい」
桃子が微笑む。
「桃子、戻ってよいわ」
桃子が裏へ回ろうとすると、庭先の護衛が膝をつき、申し訳なさそうに報告した。
「殿様からは、出入り自由にして良いと言われているお方だったので止めませんでしたが……」
私は一瞬だけ目を閉じ、息を吐いた。
護衛を責めるのは簡単だ。しかし、真琴様の命があるなら、それもまた“法”だ。
「真琴様がそう命じているなら、それでよいわ。それより、ここに並んだ品……裏へ運びなさい」
「はっ」
命令が飛ぶと、護衛が手早く動き始める。
作物が運ばれ、豆餅が包まれ、縁側は元の静けさを取り戻していった。
だが――
片付いたはずの縁側に、しばらく土の匂いだけが残った。
その匂いが、なぜか妙に胸に引っかかる。
“善意”なのか、“打算”なのか。
真琴様がいない間に入り込むということが、ただの偶然で片付くほど、この世は素直ではない。
私は茶道具の布を握り直し、庭の土を見つめたまま、静かに次の手入れへ戻った。




