茶々視点外伝 茶々視点・①⓪⑨話・前田千代
朝の霜気がまだ板戸の隙から差し込んでいる刻、いつものように黒坂家の屋敷へ足を運ぶと、目に飛び込んできたのは――真琴様が、見目愛らしい幼い姫を膝に乗せ、仲むつまじく朝餉を召し上がっている光景だった。湯気を立てる味噌汁の香り、焼き立ての卵焼きの甘やかな匂い。
穏やかな食卓に、私の心臓だけが一瞬、ばくりと跳ねる。
「真琴様! それは……もしや、真琴様の御姫――?」
動揺が声に出てしまい、慌てて口を手で押さえた。真琴様は、箸を止めて苦笑する。
「茶々~、流石にそれは無理があるだろ。……っとに、朝目覚めたら、ここにいたんだよ」
「本当でございますか?」
「本当だって。今、梅子と桃子に“近隣のお屋敷で姫がいなくなっていないか”確かめに行ってもらってる」
言われて改めて幼女の身なりを眺める。
縮緬の小袖は上等、袖口の刺繍も繊細で、帯には稚児向けにしては気の利いた細工。にこにこと卵焼きを頬張る仕草ののびやかさ――なるほど、安土に屋敷を賜る重臣筋の姫に違いない。
そこへ、朝帰りの前田慶次殿が、ふらりと報せに現れた。
酒の香が微かに漂う。が、幼女を見た瞬間、顔色を変える。
「げっ! なんで千代がここにいるんだよ」
その慌てぶりに、思わず私は身を乗り出した。
「慶次殿、この姫をご存じなのですか?」
「知ってるも何も、うちの姪っ子ですよ、御方様」
「ということは、前田利家殿のお子で?」
「そう。……ったく松め、うちの大将に近づくのに、とんでもない手を打ってきやがったな」
「どういう意味でございますの?」
「……とにかく、千代がいるってことは“松”が来る。俺は退散! “酒臭い”って尻を叩かれちゃ敵わねえ」
くるりと踵を返した慶次殿は、嵐のように去っていった。
呆気に取られたのは、私だけではない。
真琴様も箸を宙に止めたまま、ぽかんとしている。
「……松様、連れて来てくださるか、送り届けてほしかったよ……。――おーい、誰か。前田家へ走って、“千代姫をお預かりしている。お迎え願いたい”と伝えて」
廊下へ声を掛けると、襖の向こうから桜子の澄んだ声。
「ちょうど前田松様がお迎えに参りました、御主人様」
桜子の後ろに、すっと現れた前田松。
楚々と三つ指をつき、可笑しいほど律儀に頭を下げられる。
「千代。お屋敷を勝手に抜け出してはなりませぬ。――常陸様、ご迷惑をお掛けして誠に申し訳ございません」
言葉は殊勝、けれど横顔の口元は、明らかにゆるんでいる。私は内心でため息をつき、真琴様が額に手を当てるのを横目に見る。
「……っとに、松様。謀りましたね?」
「あら、なんのことでございましょう?」
涼しい顔。真琴様は大きく一つ、ため息。
そのとき、日課の素振りを終えたばかりのお初が、額に汗を光らせて入ってきた。
膝の上の千代を見て、眉間にしわ。
「あんた、そんな子供、側室にする気なの!」
怒りが震えに変わる、まるで弦の張りが強すぎる琵琶の音。私は慌てて手を振る。
「お初、落ち着きなさい。そういうことではありません」
「っとに、どいつもこいつも、俺を何だと思ってるんだよ。――って、お江! 忍び足で俺のおかず盗むなよ!」
視線を動かすと、いつの間にかお江が真琴様の膳から卵焼きをつまんで、にへらと笑っている。
「だってぇ、桜子ちゃんの卵焼き、甘くて美味しいんだもん」
「お江、それは言い訳になっておりませぬ。食べたければ、いくらでも作らせます」
と、私が軽く咎めるより早く、桜子が小さく肩をすぼめた。
「御主人様、鶏の大半を大津へ移しましたゆえ、今は数が揃わず……申し訳ございません」
「それは仕方ない。桜子が謝ることじゃないって。――松様、朝餉を終えたらお話があります」
私もすぐさま頷く。
「松様、別室でお茶を。――桜子、茶室の支度を」
「かしこまりました」
桜子が手際よく立ち働き、松様は涼やかな笑顔のまま、すっと下がられた。
部屋に残った千代は、まだ卵焼きの端を両手で大事そうに持っている。
頬のふくらみが燕の雛のようで、思わず頬が緩んだ。
私がそっと膳を整え直すと、真琴様は気を取り直したように箸を動かし、手早く朝餉を済ませられた。
湯気の向こうに、いつもの穏やかな横顔。
――けれどその瞳には、松様の“策”を正面から受け止める覚悟の光が、うっすらと宿っている。
「桜子、羽織と袴を」
「はい、御主人様」
さらりと衣擦れが鳴り、帯が結ばれる。
朝の光は少し高くなり、畳の目は織物のようにきっぱりと影を刻む。私は袖を正し、胸のうちのざわめきをひとつ息で鎮めた。
――お茶は熱すぎず、けれど緊締まる苦みで。言葉は短く、しかし柔らかく。
黒坂家の“かかさま”としての顔を、今、改めて整える。




