茶々視点外伝 茶々視点・①⓪⑧話・反響
安土へ戻り、真琴様が義父・織田信長に清書の報告書を差し出してから、ほんの数日。
私と真琴様は、城内の茶室へ呼び出された。
畳は霜夜のようにきりりと乾き、炉の湯が「松風」と鳴る。
千宗易殿が柄杓を静かに返すたび、竹の先から銀糸のような湯がしゅるりと落ち、薄明かりの室礼に湯気が霞を足していく。
「常陸、逐一、城の体を知らせてくれて殊勝である。ここまでさらけ出された城なら、儂は安心して泊まれる」
上座の義父様が、茶碗を軽く傾けて言われた。真琴様は、肩の力を抜いた笑みで返す。
「ははは……いくら俺と蒲生氏郷が造る城でも、信長様にこそ把握していただくのが一番安全ですから。それに、俺が信長様に取って代わる気など毛頭ないことも、ちゃんと“書面で可視化”しておきたくて」
「ふっ。野望などないことは、もう知れておるわ」
義父様の眼が、ふいと楽しげに細くなる。
「それより、あの比叡山座主相手の振る舞い、安土にも届いたぞ」
千宗易殿の点てた一服を啜る真琴様は、ひと呼吸置いてから穏やかに答えた。
「比叡山延暦寺は日本仏教の聖地。できれば敵にはしたくありません。……本音を言えば、互いに“本来の役目”へ戻れたら一番です」
私は黙って茶をいただきながら、胸の内で小さく頷く。
浅井・朝倉の名が出るたび、心の奥のどこかが、まだ微かに軋む。
けれど今の私は、織田の娘であり、黒坂家の正室だ。
湯の白い息の向こう、義父様の声音はいつもより低く硬かった。
「儂とて、好き好んで敵にしたわけではない。だが奴らは仏の名を盾にして大名の真似事をし、浅井・朝倉の兵を匿い、織田へ露わな敵意を示した。放っておけば、一向門徒と同じく火の手になる」
「承知しています」
真琴様の言葉は短いが、芯がある。
茶杓が棗の縁を軽く鳴らす涼やかな音を最後に、室内へ静けさが戻った――その刹那、外の露地で玉砂利がばらばらと跳ねた。
「上様、一大事! 比叡山延暦寺が――!」
森蘭丸の声。義父様は、ぱしんと膝を払って立ち上がられる。
「なに、蜂起したか!」
障子が勢いよく開く。だが蘭丸は、漆の文箱を高く捧げた。
「いえ。比叡山延暦寺座主・尊朝が、黒坂家に恭順すると。『京都鎮護の霊山たるに武装は不要』として、薙刀などを納めにとどけました」
義父様は素早く文箱を受け取り、封を切る。紙擦れの音が、炉のさざめきに重なった。数行読み下されたのち――
「ぬははははは! 比叡山が下りおったわ! ぬはははは……流石、常陸よのう!」
茶室の空気が一度に軽くなる。千宗易殿まで、口の端を上げた。私の手にも手紙が回り、目を走らせる。
『黒坂常陸なる御仁の影に不動明王を見ました。本人は武甕槌大神と申しておりましたが、それは些事。乱世を鎮めんと御仏が使わされた人物と感じました。かかる御仁と刃を交えるは仏道に非ず。依って延暦寺は黒坂常陸様に従い、武装を捨て本来の道に専念いたします。』
……あの尊朝が、ここまで。
昨夜の湯の白気のように、胸の底へ温いものが広がる。
真琴様は「不動明王はちょっと盛りすぎでは」と小声でこぼし、私は足先でそっとつついた。
義父様は上機嫌のまま、すぱっと次の話を切り出す。
「常陸、高野山近くにも城を与える」
「ちょっと、待ってください! 流石にそれは……比叡山で手一杯ですって!」
即答する真琴様。私は思わず扇で口元を隠す。――“胃にもうひとつ城は入らない”と顔が言っていた。
「なんだ、融通の利かぬ男よな」
そう言いながらも、義父様の目尻は笑っている。腰の短刀をすらりと抜き、柄をこちらへ向けた。
「取りあえずの褒美だ」
短刀の鞘は黒塗りに金の蒔絵が細やかで、光を吸っては返す。
真琴様が両手で受けると、義父様は満足げに踵を返し、千宗易殿へ軽く一礼して茶室を後にされた。蘭丸が玉砂利へ音を残して続く。
炉の湯が、また「松風」と鳴りはじめる。千宗易殿が、ぽつりと呟いた。
「ほんま……人を動かしはるお方どすなぁ、常陸様は」
私は膝前で扇を畳み、息を静かに長く吐く。
城の図面、湖の風、そして一通の手紙。真琴様の軽口と、義父様の豪快さ。戦国の剛と柔が、今この小さな茶室で、ひとつの湯気になって立ちのぼっている――そんな心地がした。




