茶々視点外伝 茶々視点・①⓪⑦話・雄琴温泉①②
「御方様、先ほどの比叡山座主相手の立ち居振る舞いが噂となり、町の者が一目見んと集まっております。いかがいたしますか?」
柳生宗矩が襖越しに声を落とす。外はまだ薄雪が残り、風に乗って人声のざわめきが波のように押し寄せては引いていた。
私は扇の骨をひと鳴らしさせ、短く答える。
「真琴様は、人前に出ることを好まれません。帰らせなさい」
「はっ」
宗矩が素早く下がる。
廊下を駆ける足音ののち、宿の前で「お引き取りくだされ」と凛とした声が重なる。だが野次馬の息遣いまでは消えない。
好奇の気配は、ときに刃より厄介だ――そう肝に銘じ、次の指示を出した。
「力丸。明日は多少波風が立とうとも雄琴を離れます。安土に迎えぬ風のようなら大津泊まりに切り替え。すぐ手配を」
「はっ。早馬にて蒲生殿へ申し伝えます」
人が集まれば、隙を突こうとする者もまた集まる。
噂が刃を連れてくる前に離れる――黒坂家の主の身は、私が守る。
胸の内でそう言い聞かせていると、湯から戻った真琴様が、頬に火照りを残して入ってこられた。私は茶と梅干しを載せた盆をすすめる。
「ふぅ……良い湯だった。しばらく湯治しようかな」
お気楽、と言いかけて飲み込む。
このお方は、己がいま何百人の視線を背負っているかを、ときどき忘れるのだ。
頭の奥がきゅっと痛む。私は表情を崩さず、湯気越しに静かに告げた。
「大津の城へお引っ越しになれば、ここは馬で通える場所。湯治はそれからでもよろしいでしょう。警固も、今は多く連れてはおりませんし」
「……まぁ、そうだね。皆も張り詰めっぱなしじゃ困るし」
「明朝、雄琴を発ちます。黒坂真琴滞在の噂が広がれば、座主のように押しかける者が増えるはず。真琴様は、ああいう“お願い攻め”はお嫌いでしょう?」
「さすが茶々、よくわかってる。『家臣にしてくれ~』が殺到されたら困るなぁ」
「ですから、明日出立といたします」
「はーい。じゃあ今日は……あと二回くらい浸かるかな」
「この宿から出ないのでしたらお好きに。ただし、のぼせませぬよう」
「ははは、お初じゃあるまいし」
その「美人の湯」という一言で、お初はすでに本日三度茹だっている。
廊下の向こうから、侍女たちの笑いがかすかに届いた。
その夜は見回りを厚くし、焚き火の熱で火縄を温め、交代の刻を細かく切った。
雪明かりの庭は静かで、ただ遠く、湖の吐息だけが聞こえる。
夜明け、私たちは予定どおり出港し、何事もなく風を捉えて安土へ帰還した。




