茶々視点外伝 茶々視点・①⓪⓪話・雄琴温泉⑤
襖の桟がかすかに鳴り、細く開いた隙間からお初が身を滑らせた。
「外で騒ぎになっているのに、いい気なものね」
吐き捨てる声は冷たいが、手はすでに愛刀の柄に添え、視線は庭口と屋根の影を往復している。頼もしい妹だ。
「お江は?」
と囁くと、お初は顎だけ動かした。
「寝ています、姉上様。……起こして、逃げ支度をいたしますか?」
私は小さく首を振った。障子越しの風が灯明を揺らし、真琴様の寝息がそのたび浅くなる。
「まだ“騒ぎ”にはなっていないわ。朝まで様子を見る。ここで逃げれば黒坂家は笑い者よ。西近江をあずかる家が、僧形の影に怯えて尻をまくった──そう噂が走れば、後々の政に刺さるわ」
お初は一歩近づき、声をさらに落とす。
「取り返しのつかないことになる恐れは?」
「ある。だから“見せる守り”でいくの。三つの灯は出してあるし、幸村は退路を押さえた。宗矩は屋根に弓、台所と薬籠はくノ一。刃は最後。黒坂家は言葉、策、刃の順だもの」
「……ふむ」
お初は唇を結んだが、すぐに別の問いを投げた。
「では、真琴……いえ義兄上には知らせなくてよろしいのですか? なんだかんだ言って、陰陽の目も、剣も確か。耳にだけでも入れておけば——」
私は寝所を示す。
布団の端を整えたばかりの真琴様は、湯上がりの香をわずかに残して、年相応の安らかな顔で眠っている。
「安土では毎日、張り詰めているのよ。今夜ばかりは、眠らせてあげたい。目を開けた瞬間に『腹が減った』と言う人だもの。——その台詞を言える朝に、私たちでしてあげましょう」
お初は苦笑して、鯉口をわずかに緩め、すぐ戻した。
「わかりました。……では私が庭口、姉上は廊下脇から。灯が一つ消えたら“口を開く”合図、でしたね」
「ええ。まずは粥と焚き火の道を示すの。寒さは刃を鈍らせるけれど、飢えは人を獣にするわ」
外で足音。雪を噛む、静かな巡回の歩。三つ並べた行灯が障子に柔らかい矩形を落とす。私は扇で小さく風を払い、灯心をほんの少し短くした。
「お初、鞘に爪を立てないの。漆が剥げるわ」
「こういう時に注意が細かい……姉上様、余裕がありますわね」
「黒坂家の“かかさま”ですから。細かいところで家は崩れるのよ」
ふたりで耳を澄ます。
風向きがわずかに変わり、湖の息がやわらぐ。遠くで梵鐘、ひとつ。
こちらを試すように、夜が呼吸を潜めた。私は懐刀にそっと触れ、もう一方の手で真琴様の枕元の湯たんぽを直す。
「比叡は動くと思いますか?」
お初が囁く。
「わからないわ。ただ“試し”は来る。だから、こちらは“退き道”を先に置いて待つの」
「理屈はわかりました。……でも、もし刃が交わることになったら?」
「その時は、私が先に出るわ」
「ええ、私も並びます」
ふっと、ふたりで笑った。怖さは消えない。けれど、笑いは手の震えを止める。
「ねえお初。朝になったら、最初の一服は私が点てるわ。苦めに」
「義兄上の口封じですか?」
「そう。“美少女と同宿がどうの”って余計なこと、言わせないために」
雪は静かに降り続く。灯は低く、けれど絶えず。
私たちは眠れぬ夜と向き合いながら、行灯の影の数を数え、風の向きを読んだ。
真琴様の寝息は、さっきより深い。——それでいい。
夜は長い。けれど、長い夜ほど、明け方はやさしい。




