茶々視点外伝 茶々視点・⑨⑨話・雄琴温泉④
布団の端が少し落ちていたので、そっと掛け直す。
真琴様の寝息は浅く、舟酔いの名残りか、ときおり小さく喉が鳴る。
灯明は一つだけ残し、障子を半分閉めると、湯の香と檜の匂いがまだ部屋に漂っていた。
私が隣の布団に腰を下ろし、しばし脈を数えるように静けさを聞いていると、廊下から宗矩が声を潜めて呼んだ。
「お方様、御大将はお休みで?」
「すでに寝ております。――急ぎですか?」
宗矩は敷居の外に片膝をつき、低く告げた。
「外におります真田家臣・猿飛佐助の報せにて。日が落ちてなお、僧形の者が多く流れ込んでおります。錫杖に仕込み刀の疑い、目付けに紛れる忍び手練れも混じっているかと」
湯気の熱が退き、背筋に冷たい風が通るのを感じた。
「騒ぎは?」
「まだ起きてはおりません」
私は一つ頷き、声を落とす。
「……大津に、動かせる兵は?」
「蒲生様より『五百なら即時』の言葉を賜っております」
「ならば早馬を。黒坂家の意志として“至近に急ぎ集結せよ。ただし剣は抜かず、旗だけは高く”と。織田の紋を避け、黒坂の抱き沢瀉を揚げなさい。比叡に要らぬ口実を与えてはなりません」
「はっ」
私はさらに言葉を重ねた。
「宿内の配置は宗矩に一任。弓は屋根と回廊の陰に、火縄は火蓋切らず灯だけ守ること。幸村は外郭、桟橋と庭口の二点を押さえ、退路を確保。力丸には内の守り――真琴様の周りは二重、女中衆の出入りに見張りを。くノ一は台所と湯殿、あと薬籠。毒の心配は薄いけれど、念には念を」
宗矩は素早く控えの者へ手信号を飛ばし、また身を寄せた。
「僧形は何処より?」
障子の隙間から差す月光に目を凝らすように問うと、宗矩は短く答える。
「坂本の方角より。二、三人ずつに分かれ、物見の配り方が手慣れております」
「……数は?」
「佐助の見立てでは、見えるだけで三十余。後ろにさらに」
「三十も“見えるだけ”――いやな数ね。こちらは“見せる”数で勝つしかありません」
私は袖から小扇を出し、膝の上で一度だけ鳴らした。自分の心を落ち着かせる合図でもある。
「宗矩。合図は“灯三つ”。表門と庭、桟橋に行灯を三つ並べなさい。万が一、敵意が見えた時は“灯一つ消す”。外の者はそれで弓を伏せ、口を開く。先に言葉、次に策、最後に刃――黒坂家の順です」
「承知」
「それから――宿の者へ。女・子は奥へ、灯は落とさず、火の手だけは絶やさないように。寒さは恐れの味方です。甘酒を薄く温めて配って。……宗矩、笑わないで。私は台所頭ではありません」
「いえ、“かかさま”は軍略にも効きますので」
宗矩の口元がかすかに緩んだ。こういうとき、わずかな笑いが刀十本ぶんの働きをする。
「佐助を」
呼べば、庭木の影から、雪のように音もなく小柄な影が滑り込む。
猿飛佐助、目だけが猫のように冴えている。
「御方様。山の匂いが濃うございます。あれは“登る気配”」
「比叡の方へ?」
「はい。道々を試して、足の運びを測っておりました。今夜は探り、明けてからが身の入り目――そう読めます」
「なら、こちらから“退き道”を示す筋よね」
私は障子を半分開け、枯山水に並ぶ雪の曲線を眺める。
月が薄く、湖の風はまだ牙を引っ込めていない。
「佐助、湯元頭の長兵衛に伝えて。明け六つ、寺方の使いが来れば“上意にて湖路を閉じた”と嘘をつく準備を。代わりに温い粥と焚き火、足元の草鞋を貸すの。山に冷たく、腹に温かい。人は“寒さ”には勝てません」
佐助が目だけで笑って、ふっと消えた。宗矩が感心したように低く言う。
「戦わずに退かせる策、でございますな」
「戦えば義父様の耳に入る。義父様の耳に入れば、火が上がる。――私は、二度目の炎は見たくありません」
言い切ると、不意に部屋の空気が静まった。
真琴様の寝息が、先ほどより深くゆっくりになっている。私は手燭を宗矩に渡した。
「宗矩、表は任せます。合図は三つの灯。――あ、もう一つ。外の者に黒坂の法度を伝えて」
「どの条で?」
「“夜更けの策は朝に改めるべし”よ。今夜は剣を鞘に、心は火鉢に。凍えた者が刃を握れば、手元が狂うの」
宗矩は「はっ」と柔らかく答え、音もなく下がっていった。
襖が閉まり、ふたたび湯の香と寝息だけが戻る。
私は小さく息を吐き、枕元に置かれた湯たんぽの位置を整える。
真琴様の指先が、無意識に布団の縁を探るように動いたので、そっと私の手を添えた。
「……大丈夫よ。風は変わるわ」
ささやくと、眉間のうすい皺がほどける。
ふ、と笑ってしまった。強い人ほど、眠ると年相応になるのだもの。
これで「美少女と同衾」などと余計な冗談を言わなければ、なおよろしい。
――明日の朝、起き抜けに言いそうだから、最初の茶で口を塞いでしまいましょう。
私が点てる、苦めの一服で。
外は、風が軒を撫で、見張りの靴音が雪を噛む。
三つ並んだ行灯の明かりが、障子の桟に柔らかく映った。
火は弱く、けれど絶えず。刀は鞘に、背はまっすぐ。
私は扇を畳み、枕元に置かれた短い懐刀に指を触れ、祈るように目を閉じた。
騒ぎが起きぬように。
もし起きても、刃を濡らさず収まるように。
――そして何より、この人が目を開けたとき、いつもの調子で「腹が減った」と言える朝であるように。
湖の息が、少しだけ和らいだ気がした。
風向きが変わる。私はその微かな気配を胸の内で掬い取り、灯明をほんのわずかに絞った。夜は長い。
けれど、長い夜ほど、明け方はやさしい。




